イボア

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イボア (Ebor) とは、大正期から昭和初期(1910年代から1920年代)の日本を代表するサラブレッド種牡馬で、日本で最初の種牡馬チャンピオンである。

イボア
Ebor1905.jpg
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛[1]または青鹿毛[2][注釈 1]
生誕 1905年
死没 1928年
Hackler
Lady Gough
母の父 Lord Gough
生国 イギリスの旗 イギリス
生産 ジェイムズ・デイリー
馬主 A・ベンドン
調教師 Captain Dewhurst
競走成績
生涯成績 7勝
獲得賞金 5489UKポンド
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  • 本項での馬齢表記はすべて現代表記とする。

馬名について[編集]

Eborとは、イギリス中北部の古都ヨークの古名(Eboracum)のことである。ヨークは、少なくとも産業革命が起きるまでは、イングランド第2の都市であり、イングランド王室では王位継承順位第2位の王子は「ヨーク公(デュークオブヨーク)」の称号で呼ばれる。

同名異馬[編集]

1814年生まれのイボア(Ebor)は、1817年のイギリスのセントレジャーステークスの優勝馬である。

血統[編集]

イボアの血統の端的な特徴は、誕生当時(1900年代初頭)のイギリスを席巻していたセントサイモン系の影響を全く受けていないところにある。さらに、セントサイモンが登場する前に7年連続チャンピオンサイヤーになったハーミットも血統表には一切出てこない。とはいえ、異流の血統というわけではなく、父系はハーミットよりもさらに前にチャンピオンサイヤーになったロードクリフデンだし、母系にも更に古い時代の主流血統であるストックウェルが入っている。イボア自身が異流血統であるというよりは、イボアより後の時代に同系統が衰退したことで、結果的に当時のイギリスでは時代遅れの血統になってしまったということになる。

4代血統表[編集]

イボア血統タッチストン系 (血統表の出典)[§ 1]

Hackler 1887
鹿毛 イギリス
父の父
Petrarch 1873
鹿毛 イギリス
Lord Clifden Newminster
The Slave
Laura Orlando
Torment
父の母
Hackness 1878
鹿毛 イギリス
Albert Victor Marsyas
Princess of Wales
Cicely Hackett La Marechal
Meg O'Marley

Lady Gough 1888
鹿毛 イギリス
Lord Gough 1869
黒鹿毛 イギリス
Gladiateur Monarque
Miss Gladiator
Battaglia Rataplan
Espoir
母の母
Clear Case 1884
鹿毛 イギリス
Arbitrator Solon
True Heart
Estella Citadel
Andorra
母系(F-No.) 6号族(FN:6-a) [§ 2]
5代内の近親交配 Orlando 4x5、Monarque 5x4、Touchstone 5x5、Stockwell 5x5 [§ 3]
出典
  1. ^ JBIS イボア(GB) 5代血統表 2015年4月25日閲覧。
  2. ^ JBIS イボア(GB) 5代血統表 2015年4月25日閲覧。
  3. ^ JBIS イボア(GB) 5代血統表 2015年4月25日閲覧。


父系[編集]

祖父ペトラーク[編集]

父系祖先のニューミンスターロードクリフデンはいずれもイギリスの種牡馬チャンピオン[3]、ペトラーク(Petrarch)は、ロードクリフデン(Lord Clifden)の産駒の中で最良の競走成績を残した[4]。ペトラークは2歳時にミドルパークプレートを勝ち、3歳時には2000ギニーセントレジャーの2冠を制した。古馬になってからはゴールドカップに勝った[5]

ペトラークは種牡馬となって3頭のイギリスクラシック競走の優勝馬を出したが、いずれも牝馬で、牡馬の活躍馬には恵まれなかった。そのうち、同じロードクリフデンを父に持つハンプトン(Hampton)のほうが多くの活躍馬を出すようになって、ロードクリフデンの主流子孫の座をハンプトンに完全に奪われてしまった[5][6]

父ハクラー[編集]

最終的な結果から見るとペトラークの後継種牡馬の中で優れた成績を収めたのはハクラー(Hackler)だったが、競走馬としてのハクラーは下級のステークスウィナーどまりで、種牡馬としても全く期待されていなかった[5]

ハクラーは現役中の3歳の秋に売りに出され、800ギニーでアイルランドの馬商ジェイムズ・デイリーに買われた。そのままダブリンで10ギニーの種付料をとる種牡馬になると[注釈 2]、中下級の競走で数を稼ぎ、1898年には10頭の産駒が22勝をあげてアイルランドの種牡馬のなかではトップにたった。とは言えアイルランドの賞金額は著しく低かったため、獲得賞金で序列が決まるリーディングサイヤー争いには縁がなかった[5]

産駒が障害競走に登場するようになると、次々と障害の大競走を勝つようになり、1905年に全英の障害戦のリーディングサイヤーになった。その後も1912年まで首位を維持した。平地競走では大レースには勝てず、リーディング争いには遠く及ばなかったが、数を稼いで1902年には「勝利数」ではガリニュール(Gallinule)と並んでイギリス1位になった。さらに1903年と1904年には「勝ち上がり頭数」で1位になった[5]

しかしイギリス国内でのハクラーの評価は「早熟な短距離馬」のままだった。障害レースでも産駒のほとんどは3マイル(約4800メートル)が適距離の限界で、ステイヤーと言える力をもった仔はいなかった[注釈 3]。平地でのハクラーの産駒の最良馬は、2歳牝馬チャンピオンのララルーク(Lalla Rookh)である(後述)[5]

母系[編集]

イボアの母の父であるロードガフ(Lord Gough)は、ハクラーやイボアと同じジェイムズ・デイリーの所有で、もっぱら障害用にスタミナを伝える種牡馬だった[7]

ララルーク(Lalla Rookh)はイボアの全姉で、ハクラーの代表産駒でもある。ララルークは典型的な早熟のスプリンターで、2歳時(1906年)にアイルランドでフィーニクスプレートをはじめ5ハロン(約1000メートル)の重賞を勝ちまくり、この年のアイルランドの獲得賞金1位に輝いた。ララルークは繁殖牝馬としても快速牝馬アインハリ(Ayn Hali)を産んだ。このアインハリの産駒に快速種牡馬サーコスモ(Sir Cosmo)がおり、パノラマ(Panorama)やラウンドテーブル(Round Table)の祖先となった[5]

ララルークやイボアの半兄になるサッコール(Succour)は長く走った中級のハンデキャップホースで、チェスターフィールドカップやチャレンジステークスに勝ったほか、当時の主要なハンデ戦であるケンブリッジシャーハンデシティアンドサバーバンハンデ、グレートジュビリーハンデやデュークオブヨークステークスで3着になっている[8]

競走経歴[編集]

イボアが勝った最大の競走はグレートジュビリーハンデだが、競走馬としての評価はむしろ、(約)2000メートルの競走で何度かレコードタイムを含む優秀な時計で勝ったことにある。

誕生[編集]

イボアはララルークの1歳下の全弟で、1905年にアイルランドダブリンで生産された。[注釈 4]

2歳時(1907年)[編集]

イボアは2歳のデビュー戦でアイルランドのレイルウェイステークスに出て2着になった[9][10]

3歳時(1908年)[編集]

2歳のレイルウェイステークスのあとは長い休養に入り、3歳の5月に復帰して2勝した。2000ギニーやダービーには出なかったが、キングズプレートという小さなレースで9ストーン10ポンド(約61.6キログラム)を背負い1マイル1/4(約2011メートル)を2分12秒で走って優勝すると、3歳の上がり馬としてにわかに脚光を浴びた[11][12][13]

というのも、この世代のクラシック戦線には、イギリス産の牡馬は活躍馬がいなかったのである。

  • イボアの世代の主要な世代限定戦
競走名 条件 距離 勝馬 備考
シャンペンS 2歳 1200 レスビア(Lesbia) 牝馬
ミドルパークS 2歳 1200 レスビア(Lesbia) 牝馬
デューハーストS 2歳 1400 ロードラ(Rhodora) 牝馬
1000ギニー 3歳牝 1600 ロードラ(Rhodor) 牝馬
2000ギニー 3歳牡牝 1600 ノーマン(Norman) アメリカ産馬
ダービー 3歳牡牝 2400 シニョリネッタ(Signorinetta) 牝馬、イタリア人生産
オークス 3歳牝 2400 シニョリネッタ(Signorinetta) 牝馬、イタリア人生産
コロネーションS 3歳牝 1600 レスビア(Lesbia) 牝馬
セントジェイムズパレスS 3歳牡 1600 ユアマジェスティ(Your Majesty)
エクリプスS 3歳牡牝 2000 ユアマジェスティ(Your Majesty)
※距離はおおよそのメートル。

2歳の重要な競走は全て牝馬が優勝した。3歳になっても、2000ギニーを勝ったのはアメリカ馬で、その騎手はハンガリー出身だった。ダービーに出てきたのはそのアメリカ馬をはじめ、フランスから2頭、オーストラリアから2頭、それで勝ったのはイタリア人が生産した牝馬だった。そのシニョリネッタはオークスも勝ち、ほかにも牝馬のロードラが1000ギニーを勝ち[14]、レスビア(Lesbia)もコロネーションステークスを勝ってセントレジャーに狙いを定めていた[15][16][17][18]

イギリスの牡馬の中ではユアマジェスティ(Your Majesty)とイボアが、セントレジャーの候補と考えられた。シニョリネッタ、レスビア、ノーマン、イボアがセントレジャーの四強だと報じるものもあった[19]。イギリス三冠馬を育てた調教師が10000ギニーでイボアを譲ってくれと申し出たが、馬主はこれを断っている[11]。しかしセントレジャーはユアマジェスティが勝ち、イボアは着外に敗れた[20]

そのあと、イボアはシアボローステークス[21]を単走で勝ち、10月の末には2000ギニー優勝馬のノーマンを破った。だが、シーズン最後の大レース、ノベンバーハンデでは着外に敗れた。

4歳時(1909年)[編集]

古馬なると当時の大レースの一つである[22]グレートジュビリーハンデ(1マイル1/4=約2011メートル)を2分2秒3/5でレコード勝ちした。これは従来の記録を3秒短縮するもので、当時の新聞は「尋常ではない」記録だと報じている[23]。この時の3着は半兄のサッコールだった[注釈 5][24]

種牡馬経歴[編集]

イボアは最初に十勝で種牡馬になった。配合相手にはひどく恵まれなかったが、イボアはここで良績をおさめ、日高種馬牧場へ移った。ここで優れた牝馬に配合されて、たくさんの種牡馬、種牝馬を出した。競走馬の父としても数々の重賞勝馬を送り出して、日本最初のチャンピオンサイヤーになった。

背景[編集]

明治時代になると日本にも西洋から馬が輸入されるようになった。しかし明治の中頃になると、在来馬の改良が実際にはあまり進んでいないことが、次第に明らかになってきた。たとえば日清戦争では国内から馬を軍馬として徴発したのだが、実際に軍馬としてまともに使えるのは3割か4割に過ぎなかった。このため政府は方針を転換し、農商務省馬政局)が主導して国内に優良馬[注釈 6]だけを繋養する国立種馬牧場を設立することになった。しかし、1904年(明治37年)の日露戦争でも馬資源の貧困さが大問題になり、国立牧場は農商務省にかわって陸軍が指揮することになった[25][26]

陸軍では毎年、国立牧場へ送る種馬を購買するためにヨーロッパへ専門家を派遣した。イボアは1910年(明治43年)に国有種牡馬として購入された。この時に購買した種牡牝馬の総数は83頭で、品種別で見ると最も多かったのはもっぱら軍の騎馬に用いられるアングロノルマンで30頭、次いで重種ペルシュロンが19頭、中間種ハクニーが10頭などとなっている。サラブレッド牡馬は4頭で、そのうち3頭は当時空前の成功を収めていたセントサイモン系だった。イボアだけがセントサイモン系ではない田舎血統だった[27]

国立種馬牧場というのは、国撰の優良種牡馬・種牝馬を交配して優秀馬を生産し、これを地元に払い下げるというのが主な業務である。種牡馬については、余勢があれば(たいていは余勢がある)地元の牝馬にも交配を許可したが、それには牝馬の側に一定以上の資格が要求された。これらによって、地域の馬全体のレベルを底上げしようというのが目指すところだった。当時、国立種馬牧場は東北と九州に1箇所づつ設けられていた。しかしイボアが送られたのは、翌年(1911年/明治44年)に新設される予定の北海道の十勝種馬牧場だった。十勝地方はようやく開拓が本格化したばかりの時期で、原野の開墾や輸送用に重種馬の需要が極めて高かった。一方、競走用の純粋なサラブレッドはほぼ全く存在していなかった。

十勝時代[編集]

十勝地方は、北海道の中でも最後に開拓が始まった地域で、入植が公式に許可されるようになるのは1896年(明治29年)からである[注釈 7]。十勝種馬牧場は1911年(明治44年)に開業したが、当時の十勝地方はまだ開拓の真っ最中で、立木の伐採、抜根、搬出、土地の耕作などに馬の需要が高く、特に馬力があって頑健な重種が好まれた。

一方、当時の陸軍の基本方針として、純粋なサラブレッドは脆弱に過ぎるとして生産は不推奨だった。むしろサラブレッドを適度に他品種と交雑することで、サラブレッドの長所に頑健さを加える事ができると考えられていた。当時の農家が軍部の方針に盲従したというわけではないが、実際のところ当時の十勝地方には純粋なサラブレッド牝馬は数えるほどしかいなかったし[注釈 8]、イボアもこうした洋雑種(日本在来種に西洋産のウマを交雑したもの。西洋から輸入したものの血統不詳のウマは「洋種」である。)の牝馬と交配されることがほとんどだった。

当時、種牡馬の優秀さの指標は、産駒の出生率[注釈 9]、産駒の馬格(体の大きさ)などが重視された。特に優秀なもの品評会に出陳され、種馬となった。競馬に用いられるのはどちらかと言えば二流馬だった。この頃すでに十勝地方でも、帯広音更池田などで盛んに競馬が行われた。イボアの産駒は各地の品評会で高い評価を得る一方、内地の競馬に出るものが現れた。クモイ、ハッピーデース、セントオーグスチンなどがこれにあたる。

日高時代[編集]

1917年(大正6年)に、イボアは日高種馬牧場に移された。日高種馬牧場は、形式的には九州種馬牧場が移転してきたものだったが、実態としては日高地方に新設された国立種馬牧場である。日高地方は十勝よりも洋種馬の導入が早く、優れた競走用牝馬を飼養する農家も少なくなかった。こうした牝馬に交配されることで、イボアの産駒からは次々と大競走を勝つものが現れた。

1923年(大正12年)7月に(旧)競馬法が施行され、馬券の発売が許可されるともに、全国の競馬組織が体系化された。このため日本では一般に、翌1924年(大正13年)から種牡馬の統計がはじまる[注釈 10]。イボアはこのリーディングサイヤーで、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで6年間に渡り、日本の種牡馬チャンピオンの座に君臨した。

イボア自身は1928年(昭和3年)の夏に死んだ。骨格は農林省で保存された。日高ではイボアの銅像建設の計画があったが、戦時経済に突入して物資が不足し、実現しなかった。

種牡馬チャンピオン[編集]

リーディングサイヤー統計は、産駒の獲得賞金の合計で競うのが通常である。しかし、日本の場合、昭和初期までは賞金の合計ではなく、勝利数で順位をつけるのが通例となっている。理由はいくつか考えられるが、1936年(昭和11年)に日本競馬会ができるまで各競馬場は独立して運営を行っていたため賞金の多寡が一定でないこと、当時最も重要と考えられていた競走の一つである帝室御賞典は優勝馬に賞金を出していなかった(皇室から賞品が授与された)こと、などがあげられる[注釈 11]

主な産駒[編集]

  • クモイ(雲井) - 大正5年(1916年)の秋に、兵庫・鳴尾競馬場帝室御賞典を勝った。イボア産駒の重賞勝馬としては初めてのものである。馬主は、三越の社主、三井高信で、クモイの勝利は「スエズ運河以東の大建築」と称された日本橋三越のオープンから間もない時期だった。高信はカネボウ王子製紙の社長を歴任する一方、東京競馬倶楽部の理事として競馬に積極的に携わった。
  • ハッピーデース - 大正6年(1917年)の秋に、横浜・根岸競馬場で帝室御賞典を勝った。優勝時期はクモイのほうが先だが、ハッピーデースはイボアのファーストクロップ(最初の世代の産駒)である。馬主は横浜で貿易会社を営んでいた。
  • セントオーグスチン - ハッピーデースが横浜の帝室御賞典を勝った1ヶ月後、東京の目黒競馬場で帝室御賞典に勝った。馬主は横浜や東京で競馬倶楽部の理事をしていたS・アイザックスで、セントオーグスチンは日高で3000円で購入したものだった。
  • イロハ - 「イロハ」という名の競走馬はこの時代たくさんいたが、このイロハは、イボアが日高に移動した後の大正7年(1918年)生まれの競走馬である。母馬は現在では血統不詳だが、オーストラリアから輸入されたサラブレッドだった。イロハは大正11年(1922年)の春に帝室御賞典を勝ち、秋には皇太子(のちの昭和天皇)臨席のもと、当時の日本で最高賞金の連合二哩に優勝した。
  • 種信 - 種信は新冠御料牧場の馬で、誕生すると、優秀な牝馬として、競馬には出ずにそのまま繁殖牝馬となった。母馬は明治時代の名馬ミラの血を引く第二ミラで、種信は繁殖に適した年齢までは「第二ミラノ一」の名で育成された。種信は優秀な繁殖牝馬となり、1930年の春に産駒のハッピーチャペルが帝室御賞典を勝ち、その1週間後に1歳下のワカタカがその年創設された日本ダービーに勝った。

当時の主要競走(重賞)の年度別勝鞍[編集]

和暦 西暦 競走名(勝馬) 備考
大正5年 1916 帝室御賞典・阪神(クモヰ)
大正6年 1917 帝室御賞典・東京(セントオーグスチン)
帝室御賞典・横浜(ハッピーデース)
大正7年 1918 優勝内国産馬連合競走(ウヱスト)
大正8年 1919
大正9年 1920
大正10年 1921
大正11年 1922 優勝内国産馬連合競走(イロハ)
帝室御賞典・東京(イロハ)
大正12年 1923 帝室御賞典・阪神(ウイルソン)
帝室御賞典・札幌(フラノイボア)
帝室御賞典・函館(バイクワ)
大正13年 1924 優勝内国産馬連合競走(レデーバットン)
帝室御賞典・函館(タケゾノ)
チャンピオンサイヤー
大正14年 1925 帝室御賞典・函館(ムットン)
帝室御賞典・札幌(コヒメ)
チャンピオンサイヤー
大正15年 1926 各内国産馬連合競走(タマカゼ)
帝室御賞典・函館(ホウヨウ)
帝室御賞典・札幌(シコク)
帝室御賞典・阪神(フクタマ)
チャンピオンサイヤー
昭和2年 1927 帝室御賞典・札幌(メザメル)
帝室御賞典・阪神(レボア)
チャンピオンサイヤー
昭和3年 1928 優勝内国産馬連合競走(ヱイ)
各内外国産馬古馬競走(ヤタケ)
各内国産馬古馬連合競走(クヰンホーク)
各内国産馬古馬連合競走(ヨシトミ)
各内国抽選濠洲産馬混合競走(ヘンペツキー)
帝室御賞典・横浜(エキストラ)
帝室御賞典・阪神(ヱイ)
帝室御賞典・横浜(ヨシトミ)
帝室御賞典・福島(ウコウ)
チャンピオンサイヤー
昭和4年 1929 各内国産馬古馬連合競走(ユウエツ)
各内国産馬古馬連合競走(エリザベス)
各内国産牝馬連合競走(タマチップ)
中山特別(パンジー)
帝室御賞典・東京(クヰンホーク)
帝室御賞典・阪神(タマチップ)
チャンピオンサイヤー
昭和5年 1930 帝室御賞典・小倉(ホウコウ)
昭和6年 1931 各内国産馬牝馬連合競走(パンジー)
帝室御賞典・函館(ウラリ)

脚注[編集]

  1. ^ 馬の毛色黒鹿毛青鹿毛も参照。馬の毛色は文化圏によって区別の仕方が異なり、特に黒鹿毛と青鹿毛の区別は難しく、日本と英語圏では大きく異なる。イボアの場合、生国・競走国のイギリスではBrown(青鹿毛)、種牡馬になった日本では黒鹿毛と登録されている。
  2. ^ 前述のハンプトンは買値が7200ギニー、種付料が30ギニーだった。
  3. ^ 例外的に数頭のグランドナショナル(4マイル=6400メートル)勝馬がいる。しかし、当時の基準では3マイル程度の距離は「長距離」とはみなされなかったのである。
  4. ^ 当時のアイルランドは全土がイギリス領なのでイボアは正式にはイギリス産馬ということになる。文献によってはイボアをアイルランド産とするものもある。「イギリスの中のアイルランド産」(日本の中の北海道産と同じように)と解釈すれば誤りというわけではない。
  5. ^ 『十勝の産馬』ではこのときイボアが150ポンド(約65キロ)を背負っていたとあるが、他の複数の資料ではイボアは105ポンド=約47.5キログラムである。2着馬は122ポンド=約55キロ、3着馬は112ポンド=約51キロだった。複数の資料が105ポンドと言っているし、2着のDean Swift(前年のシティアンドサバーバンHの優勝馬)が55キロであることからみても、イボアが65キロものハンデを負わされるような成績をあげているわけでもなく、不自然である。よって105ポンドを採用した。また同書によると、イボアはこの年シティアンドサバーバンハンデで3着になったとあるが、他の複数の資料からは3着には全く別の馬が入っているので、ここでは割愛する。
  6. ^ ここでいう「種馬」には、牡馬と牝馬の両方が含まれている。
  7. ^ 実際には、これよりも早くから「無許可」で入植するものが相当数あった。こうした無願入植はいわば不法行為であり、地域によっては正規の許可を得て、後からやってきた入植者のために開墾地を明け渡すような例もあった。しかし十勝地方は広大であったため、そのようなことにはあまりならなかった。十勝では、現在の市街地のルーツが無願入植だというところも少なくない。
  8. ^ もともと北海道には馬はなく、江戸時代末期に南部馬が持ち込まれたのがルーツである。明治30年台にはかなり限定的ではあるが、洋種馬を持ち込むものもあり、これらの馬の子孫(和雑種、洋雑種)がいた。
  9. ^ 現在とは獣医学技術の差などもあると思われるが、当時は馬の平均的な出生率は種付100頭に対して出生20~30頭というところだった。
  10. ^ これより以前には、全国に無数の公認・非公認の競馬場があり、不定期に競馬が開催され、審判や記録も不正確で、全体を統括する組織もなく、全国的な統計というのは不可能だった。
  11. ^ たとえばイギリスでも、18世紀までは優勝した馬主に賞品(ぶどう酒やカップ、楯など)が与えられていた。法律で、競馬の賞金は最低でも50ポンドを用意することと定められていたが、現在2000ギニーが行われているニューマーケット競馬場では例外で、優勝馬には国王からエクリプスの毛を織り込んだ鞭が下賜されたが、これには50ポンドの値打ちはなかったと考えられている。イギリスの古い時代のリーディングサイアー統計では、こうした賞品も貨幣に換算して統計化されているが、賞品の価値の取り扱いによって順位は変動する。

参考文献・出典[編集]

出典[編集]

  1. ^ JBIS イボア(GB)基礎情報 2015年4月30日閲覧。
  2. ^ EQUINELINE Ebor 2015年4月30日閲覧。
  3. ^ サラブレッド・ヘリテイジ ニューミンスター 2013年10月18日閲覧。
  4. ^ サラブレッド・ヘリテイジ ロードクリフデン 2013年10月18日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g サラブレッド・ヘリテイジ ペトラーク 2013年10月18日閲覧。
  6. ^ サラブレッド・ヘリテイジ ハンプトン 2013年10月18日閲覧。
  7. ^ サラブレッド・ヘリテイジ グラディアトゥール 2013年10月18日閲覧。
  8. ^ ギャロップ・シーザー サッコー 2013年10月18日閲覧。
  9. ^ 『十勝の産馬』p139
  10. ^ イボアの競走成績についてはノートページ参照。
  11. ^ a b [1]Auckland Star誌1908年7月18日付。2013年10月18日閲覧。「In England the new star of the three-year-old firmament is Ebor.(英国3歳戦線の新星がイボアである。)」
  12. ^ Observer誌1908年7月25日付 2013年10月18日閲覧。
  13. ^ Otago Witness誌1908年7月22日号「the King’s Plate,of 500sovs,went to Ebor, who is regarded as the rising three-year-old in England.(賞金500ソブリンのキングスプレートの勝馬はイボアは、英国3歳勢の上がり馬と目されている。)」 2013年10月18日閲覧。
  14. ^ サラブレッド・ヘリテイジ ロードラ 2013年10月18日閲覧。
  15. ^ サラブレッド・ヘリテイジ セント・ジェイムズパレスS 2013年10月18日閲覧。
  16. ^ サラブレッド・ヘリテイジ コロネーションS 2013年10月18日閲覧。
  17. ^ サラブレッド・ヘリテイジ ヘンリーオブナヴァール 2013年10月18日閲覧。
  18. ^ サラブレッド・ヘリテイジ パーシモン 2013年10月18日閲覧。
  19. ^ Otautau Standard and Wallace County Chronicle誌1908年8月25日号
  20. ^ Auckland Star誌1908年10月21日号
  21. ^ 『十勝の産馬』p139による。ただし同書ではシアボローステークスの単走(Walk over)を「障害飛越」と誤訳したり、後述するグレートジュビリーハンデの斤量の誤記などがあり、やや怪しい。
  22. ^ The Sydney Mail紙 1904年5月11日付 2013年10月26日閲覧。“the richly endowed Kempton Park Grand Jubilee Handicap”
  23. ^ Evening Post紙 1909年6月26日付“the mile and a quarter in 2min 2 3-5sec,which(中略)is 'really extraordinary time'”
  24. ^ ギャロップ・シーザー 1909年グレートジュビリーハンデの結果 2013年10月18日閲覧。
  25. ^ 『日本馬政史』4巻、p1-4、23-38、320-329、522-527。
  26. ^ 『種馬牧場種馬所事業報告』農商務省農務局、明治35年、p1-3
  27. ^ 『明治大正馬政功労十一氏事蹟』社団法人帝国馬匹協会,1937、p514-515

参考文献[編集]

血統・成績関係基礎資料[編集]

  • 『サラブレッド血統大系★★★★』,サラブレッド血統センター,1997
  • 『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』サラブレッド血統センター編,日本中央競馬会・日本軽種馬協会刊,2003
  • 『サラブレッド血統書』第1~4巻,日本競馬会,1941,日本中央競馬会,1997復刻

馬政局・国立牧場関係資料[編集]

  • 『続日本馬政史』(財)神翁顕彰会,1963
  • 『日本競馬史』日本中央競馬会,1969
  • 『明治大正馬政功労十一氏事蹟』社団法人帝国馬匹協会,1937

十勝関連資料[編集]

  • 『十勝の産馬』,帯広乗馬会・編,1915
  • 『十勝馬産史』,山田一郎・著,十勝馬事思想普及会・刊,1936
  • 『馬産小史』,十勝農業共同組合連合会馬産課,1964
  • 『十勝産馬案内』,十勝畜産組合,1931
  • 『馬の十勝』,十勝畜産組合,1935
  • 『十勝馬市案内』,十勝畜産組合,1936
  • 『50年のあゆみ』,十勝種畜牧場,1960
  • 『音更町史』音更町,1980

産駒関係資料[編集]

  • 『札幌競馬沿革史』,北海道乗輓馬協会,札幌競馬倶楽部,1911
  • 『優駿のふるさと日高』,日高軽種馬農業協同組合沿革史編纂委員会,1981
  • 『函館競馬沿革』,日本中央競馬会,1968
  • 『殖民公報』各号,北海道庁,一光社,北海道出版企画センター,1901-
  • 『東京競馬場及東京競馬倶楽部』,長森貞夫編,1941
  • 『北海道十字之光』,北海道十字之光編纂事務所,1919
  • 『北海道畜産功労者写真帖』,北海道畜産組合連合会,1931
  • 『名牝の系譜』岡田光一郎,中央競馬サービスセンター,1964
  • 『尾形藤吉』大日本競馬図書出版会,1964
  • 『日本競馬読本』,菊池寛,東京優駿社,1936,1970
  • 『競馬と馬券の實際知識』,茂木幹夫,競馬振興社,1938
  • 『競馬秘話』,石橋正人,1930
  • 『昭和種牝馬総覧』,中條忠一・編著,競馬ガイド・刊,1936
  • 『名駿競走記録(第一~ニ巻)』大川義雄,双雅房岩本皓正,1940
  • 『サラブレッド血統書』第1巻,日本競馬会,1941
  • 『国有軽種種牡馬名簿』,農林省畜産局競馬部,1948,1950
  • 『軽種馬牡馬血統書』,競馬前夜通信社,1949
  • 『民有軽種種牡馬名簿』,農林省畜産局競馬部,1953
  • 『天皇賞競走史話』,日本中央競馬会,1968


関連項目[編集]