イランの首相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イランの首相イラン官職の一つ。国際的にはペルシアと呼ばれたガージャール朝の時代から最近ではイラン革命に続く1979年から1989年にいたるまで、さまざまな時代に設置されていた。

ガージャール朝期[編集]

ガージャール朝における首相職を指す名称はさまざまである。首相職そのものはおもに「アターバク」あるいは「アターバケ・アアザム」(大いなるアターバク)、また初期には「サドレ・アアザム」(首位)、末期には「ライーソルヴォザラー」(宰相らの長)とも称された。称号「ナホスト・ヴァズィール」(首相)が用いられることは稀であった。首相は通常その名誉称号「ハズラテ・アシュラーフ」をもって呼称された。

パフラヴィー朝期[編集]

イスラーム共和国期[編集]

イラン革命後の1979年、ルーホッラー・ホメイニーメフディー・バーザルガーンをイラン暫定政権の首相とし、バーザルガーン暫定内閣は1979年11月までその任にあった。アメリカ大使館人質事件中に内閣は辞任した。しかしながら、アメリカ大使館人質事件のみが辞職の理由ではなく、総辞職の決定はアメリカ大使館への学生突入の前日にはなされていたと言及される[誰?]

その後、首相職は空席であった。1980年1月、アボルハサン・バニーサドルが大統領に選出され、モハンマド・アリー・ラジャーイーを首相に任命。これはマジュレス(議会)、特にイスラーム共和党に近い議員たちの圧力によるものである。ラジャーイーは1981年6月のバニーサドルの弾劾まで在職し、1981年7月24日の選挙で大統領に選出された。大統領となったラジャーイーはモハンマド・ジャヴァード・バーホナルを首相とするが、両名ともわずか数週間後の8月30日に首相府で暗殺された。

1981年10月の選挙でアリー・ハーメネイーが大統領となると、議会に対し右派アリー・アクバル・ヴェラーヤティーを首相候補として指名するが、左派が多数を占める議会はこれを不信任とし、左派に望ましい候補、特にミール・ホセイン・ムーサヴィーの指名を強いた。この争いは最高指導者ルーホッラー・ホメイニーが仲介し、ハーメネイーにムーサヴィーを受け入れるよう助言して終結した。

ムーサヴィーは1989年に憲法改正されるまで在職した。同改正で、首相職は廃止され、職務は大統領と新たに設置された第一副大統領に分割された。

イランの首相の一覧[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

イラン/ペルシアの過去2000年の宰相についての全リストは下記の図書を参照。

  • حقیقت, عبدالرفیع (1995) (ペルシア語). وزیران ایرانی از بزرگمهر تا امیر کبیر. تهران: گومش. OCLC 33854694.