イーゴリ・ペトローヴィチ・セムショフ (露 : И́горь Петро́вич Семшо́в , ロシア語ラテン翻字 : Igor Petrovich Semshov , 1978年 4月6日 - )は、ロシア の元サッカー選手 。現役時代のポジションはミッドフィールダー 。
経歴 [ 編集]
クラブ [ 編集]
PFC CSKAモスクワ のアカデミー出身。1996年にCSKAのトップチームに昇格するが、インパクトは残せず、1998年にFCトルペド・モスクワ に加入。トルペド時代には、4度のチームMVPに選ばれた実績がある。加入当初は、審判を蹴って、5試合の出場停止処分を受けた苦い経験がある。転機になったのは、2001年に結婚したことである。華奢な体型を高い技術と闘志でカバーした。2005年、FCディナモ・モスクワ に3年契約で加入。目まぐるしい監督交代とその場しのぎの大型補強が目立ちながらも、セムショフは、チームの司令塔として活躍した。2008年12月15日、FCゼニト・サンクトペテルブルク に加入。移籍金は450万ユーロ。契約期間は4年。デビュー14年目にして、故郷のモスクワ を離れて、プレーすることになったが、2010年1月、わずか1年で古巣ディナモに復帰。
プロデビューから、トルペドでのチームMVPなど、個人タイトルを獲得したことはあるが、チームタイトルの獲得経験はない。
代表 [ 編集]
2002 FIFAワールドカップ 直前の2002年5月17日に行われたベラルーシ 戦が代表デビュー戦で、同じ初招集組で本大会のメンバーから落選したアンドレイ・アルシャヴィン 、デニス・ラクチオノフ とは対照的にセムショフは、そのまま23人枠に滑り込んだ。当時キャップ数1ながらも、レギュラーとして背番号6を背負い、日本 戦を含む3試合中2試合スタメンとして出場した。同年8月21日のスウェーデン 戦を最後にしばらく招集がなかったが、2004年3月31日に行われたブルガリア 戦で約1年半ぶりの代表復帰を果たし、土壇場でUEFA EURO 2004 のエントリーメンバーにも選出されたが、出場機会はチームは既にグループリーグ敗退が決定し、消化試合となっていたギリシャ 戦の1試合のみ(後半からの途中出場)と失意の日々を送る。
2006年8月のフース・ヒディンク 監督就任と同時に本格的に代表に定着するようになる。UEFA EURO 2008 では、レギュラーとして活躍し、チームの3位に貢献した。
2009年4月のリヒテンシュタイン 戦ではキャプテンを務めた。同年8月12日 のアルゼンチン 戦では、待望の代表初ゴールを挙げた。
人物 [ 編集]
家族構成は両親と妹。父のペトルはFCトルペド・モスクワ の下部組織の責任者。
既婚者であり、夫人の間に娘と息子を授かっている。
個人成績 [ 編集]
クラブ
ディヴィジョン
シーズン
リーグ
カップ
欧州カップ戦
Total
試合
得点
試合
得点
試合
得点
試合
得点
CSKA-Dモスクワ
D4
1996
33
10
—
—
33
10
1997
22
3
—
—
22
3
Total
55
13
0
0
0
0
55
13
CSKAモスクワ
D1
1996
2
0
1
0
—
3
0
1997
8
1
—
—
8
1
Total
10
1
1
0
0
0
11
1
トルペド-2モスクワ
D3
1998
1
0
—
—
1
0
2000
7
3
—
—
7
3
Total
8
3
0
0
0
0
8
3
トルペド・モスクワ
D1
1998
25
6
2
0
—
27
6
1999
28
3
1
0
—
29
3
2000
18
1
1
0
1
0
20
1
2001
28
6
2
0
2
0
32
6
2002
28
11
—
—
28
11
2003
30
6
1
0
6
2
37
8
2004
30
9
1
0
—
31
9
2005
29
12
5
3
—
34
15
Total
216
54
13
3
9
2
238
59
ディナモ・モスクワ
D1
2006
28
6
5
0
—
33
6
2007
28
5
4
0
—
32
5
2008
29
6
2
0
—
31
6
Total
85
17
11
0
0
0
96
17
ゼニト
D1
2009
26
6
2
0
2
2
30
8
Total
26
6
2
0
2
2
30
8
ディナモ・モスクワ
D1
2010
29
5
2
2
—
31
7
Total
29
5
2
2
0
0
31
7
通算
418
97
18
4
11
4
447
105
代表での得点 [ 編集]
外部リンク [ 編集]