イーノス・スローター

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イーノス・スローター
Enos Slaughter
Enos Slaughter 1948.jpeg
カージナルス時代のスローター(1948年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ノースカロライナ州
生年月日 1916年4月27日
没年月日 (2002-08-12) 2002年8月12日(86歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
192 lb =約87.1 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 右翼手
プロ入り 1935年
初出場 1938年4月19日
最終出場 1959年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1985年
選出方法 ベテランズ委員会選出

イーノス・ブラッシャー・スローターEnos Bradsher Slaughter1916年4月27日 - 2002年8月12日)は、1940 - 1950年代に活躍したアメリカメジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手ノースカロライナ州ロックスボロ生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Country"(カントリー)。1940 - 1950年代のカージナルスの看板選手だった。

経歴[編集]

1935年セントルイス・カージナルスと契約し、3年後の1938年にメジャーデビュー。1年目から112試合に出場し打率.276の成績を残す。スローターはスムーズなレベルスイングから、確実にボールを打ち返すコンタクトヒッターとしてカージナルスのレギュラーに定着、2年目には打率.320と、リーグ最多の52本の二塁打を放つ。打率は第二次世界大戦に従軍したためプレーをしなかった1943 - 1945年を除いて5年連続で3割を維持し、1942年シーズンにはリーグ最多の188安打、打率.318を記録して最多安打と首位打者のタイトルを獲得する。

第二次世界大戦中は従軍しサイパン島に派兵されていた。後日スローターは当時を回顧し、『俺たちが球場を作って野球をしていると、崖の上から日本兵が無防備に見ていた』という証言を残している[1]

復員後、1946年シーズンには130打点でリーグの打点王を獲得。ワールドシリーズでも二塁打、三塁打、本塁打それぞれ1本を含む8安打を放ち、カージナルスをワールドシリーズ制覇に導いた。またオールスターゲームには、1946年以降トレードされる1953年まで8年連続の出場を誇る。

1953年にカージナルスを離れ、ニューヨーク・ヤンキースカンザスシティ・アスレチックスと渡り歩く。1956年シーズン途中からヤンキースに復帰。この年から3年連続でワールドシリーズに出場した。1959年ミルウォーキー・ブレーブスに移り、この年が大リーグ最後のシーズンとなった。その後も1960年1961年はマイナーリーグで選手兼任監督としてプレーした。

1971年から77年までデューク大学野球チームのヘッドコーチを務めた[2]

スローターのカージナルス在籍時の背番号「9」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番1996年指定。
自身の背番号『9』永久欠番表彰式でのスローター(1996年)

1985年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出。スローターのカージナルス在籍時の背番号9』は、1996年永久欠番に指定された。

2002年に悪性リンパ腫のためノースカロライナ州にて死去。

マッド・ダッシュ[編集]

1946年のレッドソックスとのワールドシリーズ、3勝3敗で迎えた最終第7戦で、3-3の同点の8回、打者ハリー・ウォーカー英語版が二塁打を放ち、一塁走者のスローターは一塁から一気に本塁に生還、シリーズを決定づける決勝点を挙げる。この時の闘争心むき出しの走塁は、ファンに「マッド・ダッシュ」と名づけられスローターの代表的なプレーとなった。

このプレーでは記録上、ウォーカーの打撃結果は二塁打とされているが、実際の当たりはシングルヒットがふさわしい内容で、バックホームの間に二塁に進塁しており、「シングルヒット」と「野手選択」が記録されるのが相応しいと言われている。ツーベースヒットで一塁走者がホームインするのはまだ通常に考えられるプレイであるが、実際のスローターのこの走塁は「シングルヒットで一塁から生還した」からこそ、後世に伝えられるほどの好走塁なのである。

当時、ある記者は記録員室に「あなたがたがあのヒットを二塁打と記録することで、この素晴らしい走塁から感動と興奮を奪ってしまうんだぞ。」とクレームをつけたという。現在カージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアム横に、スローターのマッド・ダッシュの像が建てられている。スローターの闘争心むき出しの走塁スタイルは、後にピート・ローズがそれを真似たといわれる。

エピソード [編集]

スローターは以下の理由で人種差別主義者、そして1950年台のカージナルスの低迷を招いた遠因となった選手として広く知られる選手である。尚、スローターは一般に激しい人種差別意識があるとされる南部のノースカロライナ州出身である。

スローターがカージナルスの主力選手だった1947年4月にブルックリン・ドジャース傘下の3Aに所属していたジャッキー・ロビンソンがメジャーに昇格した際、「黒人がメジャーでプレーするなら試合を放棄する」としたチーム単位によるストライキを自身が中心となって扇動した。このストライキ自体はMLBコミッショナーのハッピー・チャンドラーやナショナルリーグ会長による「人種差別を理由とした試合放棄をしたチームや選手は出場停止処分を科す」という声明の為に実行はされなかった。

しかし、スローターは後年までロビンソンらアフリカ系の内野手に対してスライディングをする際にわざとスパイクの刃を向けるなど差別的な言動を改めることは無かった。

更に、ホームタウンのセントルイスがあるミズーリ州南北戦争時に北軍に属しながら奴隷制に肯定的な南軍支持者を多く抱えた境界州だった。その中でも北軍の州政府とは別に非公式ながら親南部政権が樹立される程、特に勢力が拮抗していたという歴史的背景を持つ。
この歴史的背景とチームの中心選手であるスローターの人種差別的な言動も相まって「カージナルスは人種差別主義的なチームである」という風潮が全米に広がっていった。これが理由でカージナルスは有望なアフリカ系選手から入団することを拒まれ続けた。

1953年にスローターがカージナルスを退団した後もこの風潮が収まる事はなかった。その内にロビンソン擁するドジャース、ウィリー・メイズ擁するニューヨーク・ジャイアンツハンク・アーロン、ジョージ・クロウ、ビル・ブルートン擁するミルウォーキー・ブレーブスなどアフリカ系選手が主力となったチームとの戦力差が広がり、チームは下位に低迷する[3]ことを余儀なくされた。

最終的に1953年にオーナー企業となったアンハイザー・ブッシュ社が1950年代半ばに「黒人労働者も(自社の主力商品である)バドワイザーを愛飲している」とアピールするまでこの状況が続いた。

次にチームが浮上したのはアフリカ系のボブ・ギブソンがエースとなり、トレードで獲得した同じくアフリカ系のカート・フラッドルー・ブロックが主力となった1960年代に入ってからである。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1938 STL 112 431 395 59 109 20 10 8 173 58 1 -- 4 -- 32 -- 0 38 11 .276 .330 .438 .768
1939 149 664 604 95 193 52 5 12 291 86 2 -- 11 -- 44 -- 5 53 11 .320 .371 .482 .852
1940 140 570 516 96 158 25 13 17 260 73 8 -- 1 -- 50 -- 2 35 4 .306 .370 .504 .874
1941 113 484 425 71 132 22 9 13 211 76 4 -- 4 -- 53 -- 2 28 5 .311 .390 .496 .886
1942 152 687 591 100 188 31 17 13 292 98 9 -- 2 -- 88 -- 6 30 6 .318 .412 .494 .906
1946 156 685 609 100 183 30 8 18 283 130 9 -- 5 -- 69 -- 2 41 7 .300 .374 .465 .838
1947 147 619 551 100 162 31 13 10 249 86 4 -- 5 -- 59 -- 4 27 10 .294 .366 .452 .818
1948 146 637 549 91 176 27 11 11 258 90 4 -- 6 -- 81 -- 1 29 11 .321 .409 .470 .879
1949 151 655 568 92 191 34 13 13 290 96 3 -- 6 -- 79 -- 1 37 7 .336 .418 .511 .929
1950 148 632 556 82 161 26 7 10 231 101 3 -- 8 -- 66 -- 2 33 12 .290 .367 .415 .782
1951 123 483 409 48 115 17 8 4 160 64 7 2 4 -- 67 -- 3 25 10 .281 .386 .391 .777
1952 140 587 510 73 153 17 12 11 227 101 6 1 6 -- 70 -- 1 25 11 .300 .386 .445 .831
1953 143 579 492 64 143 34 9 6 213 89 4 4 1 -- 80 -- 5 28 10 .291 .395 .433 .828
1954 NYY 69 154 125 19 31 4 2 1 42 19 0 2 1 0 28 -- 0 8 0 .248 .386 .336 .722
1955 10 10 9 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .111 .200 .111 .311
KCA 108 315 267 49 86 12 4 5 121 34 2 3 1 5 40 4 2 17 8 .322 .408 .453 .861
'55計 118 325 276 50 87 12 4 5 122 35 2 3 1 5 41 4 2 18 8 .315 .401 .442 .843
1956 91 255 223 37 62 14 3 2 88 23 1 0 1 1 29 1 1 20 6 .278 .362 .395 .757
NYY 24 89 83 15 24 4 2 0 32 4 1 1 1 0 5 0 0 6 0 .289 .330 .386 .715
'56計 115 344 306 52 86 18 5 2 120 27 2 1 2 1 34 1 1 26 6 .281 .354 .392 .746
1957 96 255 209 24 53 7 1 5 77 34 0 2 4 3 40 5 0 19 5 .254 .369 .368 .737
1958 77 160 138 21 42 4 1 4 60 19 2 0 1 0 21 0 0 16 3 .304 .396 .435 .831
1959 74 114 99 10 17 2 0 6 37 21 1 0 1 1 13 1 0 19 2 .172 .265 .374 .639
MLN 11 21 18 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 3 0 0 3 0 .167 .286 .167 .452
'59計 85 135 117 10 20 2 0 6 40 22 1 0 1 1 16 1 0 22 2 .171 .269 .342 .611
通算:19年 2380 9086 7946 1247 2383 413 148 169 3599 1304 71 15 73 10 1018 11 37 538 139 .300 .382 .453 .834

獲得タイトル・記録・表彰[編集]

タイトル[編集]

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 9 (1938年 - 1942年、1946年 - 1953年)
  • 17 (1954年 - 1955年途中、1956年途中 - 1959年途中)
  • 33 (1955年途中 - 1956年途中)
  • 25 (1959年途中 - 同年終了)

脚注[編集]

  1. ^ http://www.sportsnetwork.co.jp/adv/bn_writer_2005/okazaki/vol262-1_okazaki_index.html
  2. ^ Enos Slaughter BR bullpen”. 2021年8月5日閲覧。
  3. ^ 1950年代は一度もプレーオフに進出することができず、首位から10ゲーム差以内で終えたシーズンも2度(52年:8.5ゲーム差の3位、57年:8ゲーム差の2位)しか無かった。
  4. ^ 現在の規定に従いアーニー・ロンバルディの.330を首位打者とする資料もある。