イ山霊祐

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本来の表記は「潙山霊祐」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
潙山霊祐
771年 - 853年1月9日
諡号 大円禅師
生地 福州長渓(福建省
宗派 潙仰宗
寺院 潙山同慶寺(湖南省
百丈懐海
弟子 仰山慧寂、香厳智閑[1]

潙山霊祐(いざん れいゆう、771年大暦6年) - 853年1月9日大中7年))は、中国代の禅僧[1]。俗姓は趙氏、福州長渓(福建省)の出身。法語として『潙山警策』がある。

生涯[編集]

  • 771年、福州長渓(福建省)に誕生した。
  • 785年、15歳で出家、福州建善寺の法常律師のもとで剃髪し、杭州龍興寺で受戒した。経律を学ぶ。
  • 793年、23歳で江西に赴いて百丈懐海に学び[1]、その法嗣となる。
  • 820年頃、潙山(湖南省)に住して、多数の門弟を訓育した。住寺は同慶寺の号を賜った。弟子の中に仰山慧寂があり、彼らの門流を、後世「潙仰宗」と称した。
  • 853年正月9日、没す。春秋83、法臘64(『宋高僧伝』では59)。諡して大円禅師といい、塔は清浄塔という。

逸話[編集]

百丈禅師が潙山の開山を弟子の華林覚と霊祐のどちらかにさせようとした時に、浄瓶を指して「この浄瓶を浄瓶と呼んではならんとすれば、なんと呼ぶか」と問うたところ、華林覚は「木切れとはいえません」と返したが、霊祐は浄瓶を蹴り飛ばして出て行ってしまった[1]。霊祐の答えに満足した百丈禅師は霊祐を潙山の住持とした[1]。この故事を画題にした禅画に「潙山踢瓶図」などがある[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 影山純夫 『禅画を読む』 淡交社、2011年、ISBN 9784473037268 pp.70-73

伝記資料[編集]


師:百丈懐海 潙仰宗 弟子:仰山慧寂、香厳智閑