ウィリアム・ウィンダム (第3代準男爵)

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閣下英語版
サー・ウィリアム・ウィンダム
Bt
Sir William Wyndham, 3rd Bt by Jonathan Richardson.jpg
1713年の肖像画、ジョナサン・リチャードソン英語版作、ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
財務大臣
任期
1713年 – 1714年
前任者 サー・ロバート・ベンソン
後任者 サー・リチャード・オンズロー
戦時大臣
任期
1712年 – 1713年
前任者 ジョージ・グランヴィル
後任者 フランシス・グウェン英語版
個人情報
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
ウィンダムの紋章

第3代準男爵英語版サー・ウィリアム・ウィンダム英語: Sir William Wyndham, 3rd Baronet of Orchard Wyndham1688年頃 - 1740年6月17日[1])は、イギリスのトーリー党政治家。ステュアート朝最後の君主であるアン女王の治世に戦時大臣(1712年 - 1713年)、財務大臣(1713年 - 1714年)を歴任。ハノーヴァー朝の継承に強く反対するジャコバイトの一員であり、ジョージ1世の治世(1714年 - 1727年)からジョージ2世の治世(1727年 - 1760年)初期まで庶民院の野党指導者を務めた。

ウィンダムの1人目の妻は第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの次女レディ英語版・キャサリン・シーモア(Catherine Seymour)であり、2人の子供はすでに断絶したパーシー家英語版ノーサンバーランド伯爵が維持していたカンバーランドのイグリモント城英語版とサセックスのペットワース・ハウス英語版といった多数の遺産の半分を継承する権利を有した。この複雑な継承により、長男のチャールズ英語版は第2代イグリモント伯爵英語版になった。次男も伯爵に叙され、娘のエリザベスは首相ジョージ・グレンヴィルの妻で首相ウィリアム・グレンヴィルの母になった。

オーカード・ウィンダム近くのウォッチェット英語版港を建設したという業績を残している[2]

生涯[編集]

初期の経歴[編集]

第2代準男爵英語版エドワード・ウィンダム英語版(1667年頃 - 1695年、イルチェスター選挙区英語版から3度選出されたイングランド庶民院英語版議員)と第4代準男爵ウィリアム・ルーソン=ゴア英語版の娘キャサリンの間で生まれた。

ジョージ1世の紋章。ハノーヴァーの白馬が第4クォーターにある。

ウィンダムはイートン・カレッジオックスフォード大学クライスト・チャーチで教育を受けた。グランドツアーの最中、ローマでとある占い師に出会い、「白い馬に気をつけろ」と警告された。後にイングランドでも同様の警告を受けたが、後にその白い馬がジョージ1世の使用したイングランド王室紋章の第4クォーターにあるハノーファー君主の紋章に描かれているザクセンの馬英語版を指すと判明した。彼はジョージ1世に反対して、多くのいざこざに巻き込まれてしまうのであった[2]

アン女王の治世[編集]

1710年に庶民院に入り、1712年にトーリー党内閣の戦時大臣に、1713年に財務大臣になった。急進派のトーリー党指導者ボリングブルック子爵と親しく、アン女王の死後にジャコバイトのステュアート朝復帰陰謀に関与、それが失敗すると罷免され[3]、1714年に短期間投獄された。

ジャコバイトの指導者[編集]

ジョージ1世の治世が始まると、ボリングブルック子爵はフランスに逃亡して老僭王ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの宮廷と合流、ウィンダムはイングランドにおけるジャコバイトの指導者の座についた。ジョージ1世を追い落とす反乱が1715年夏に計画され、ウィンダムは7月に老僭王にメッセージを送り、「1日でも無駄にしない」よう促した[4]。しかし、計画は露見してしまい、ウィンダムの役割が内閣に示された。このときの閣議にはジョージ1世とウィンダムの義父である第6代サマセット公爵も出席しており、サマセット公爵はホイッグ党政府の一員でハノーヴァー朝を強く支持したが、同時にウィンダムを逮捕から守りたかったため、「彼の責任を持つ」ことを提案した。多くの閣僚はサマセット公爵のような身分の高い人物への攻撃を憚って同意しかけたが、北部担当国務大臣タウンゼンド子爵のみは政府が決心を示すべきと考えて、ウィンダムの逮捕を動議した。閣僚たちは返事を逡巡して、10分間の沈黙が続いた。やがて2、3人が賛成に回り、ジョージ1世は逮捕を勅許した。ジョージ1世は私室に戻るとき、タウンゼンドの手を握って、「あなたは今日、余に大きく貢献した」と述べた[5]

ジェームズ・スタンホープはジョージ1世からのメッセージを庶民院に届けた。ジョージ1世は庶民院議員6名を「王国への侵攻を支持する陰謀への加担」の疑いで逮捕することへの許可を所望したという[6]。この議員6名とはウィンダム、第4代準男爵ジョン・パーキントン英語版、エドワード・ハーヴィ、トマス・フォスター英語版ジョン・アンスティス英語版、コーベット・キナストンの6名である[7]。許可は与えられ、ロンドンに滞在していたハーヴィとアンティスは即座に逮捕された。ハーヴィは自身の胸を2、3か所刺したが、致命傷にはならなかった。フォスターは逃亡に成功、1715年ジャコバイト蜂起でジャコバイト軍の将軍を務めた。

1715年9月23日付の国王宣言。表題は「サー・ウィリアム・ウィンダム準男爵の発見と逮捕」。

逮捕の決定に従い、コールドストリームガーズジョン・ハスク英語版大佐(当時は初代カドガン伯爵ウィリアム・カドガンのエー=ド=カン)がオーカード・ウィンダムの自宅に滞在していたウィンダムの逮捕に向かった。この時の出来事は同時代のコメンテーターのアベル・ボヤー英語版が1716年に詳しく記述している[8]。ウィンダムは午前5時に起こされ、ウィンダムの寝室を調べたハスク大佐は彼のベストのポケットから、イングランドに侵攻して老僭王を王位につかせることを計画した陰謀者のリストを見つけた。ハスク大佐には「礼儀を持って接する」との命令が下されていたため、ウィンダムが服を着替えて当時妊娠していた妻に告別の言葉を述べた後、午前7時に大佐の被逮捕者として出発、そのために大型馬車と馬6頭まで用意するという約束を信用した。しかしウィンダムは自室にある、警備されていない3つ目の門から逃走した[8]。窓から飛び出して、外で待っていた馬に飛び乗ったともされる[2]。これによりジョージ1世は1715年9月23日付で「サー・ウィリアム・ウィンダム準男爵の逮捕宣言」という回状を出し、ウィンダムの逮捕に1,000ポンドという莫大な賞金をかけた。

一時は聖職者を扮して逮捕を逃れたウィンダムだったが、もはや望みがないと分かると、ロンドン近くのシオン・ハウス英語版で義父のサマセット公爵を訪れた。続いてロンドンに向かい、公爵の息子でウィンダムの義兄、キングズ・ライフガーズ(King's Lifeguards)の大尉だったハートフォード伯爵のもとに出頭、逮捕された[8]。ウィンダムはロンドン塔に投獄され、サマセット公は当局にウィンダムの保釈を求めたが拒否された。その直後、ジョージ1世はサマセット公を主馬頭英語版から解任した[5]

ジョージ1世の治世(1714年 - 1727年)からジョージ2世の治世(1727年 - 1760年)初期まで庶民院の野党であるトーリー党の指導者を務め、首相ロバート・ウォルポールに対し高教会派とトーリー党の原則を守るために戦った。海外逃亡していたボリングブルック子爵とは連絡を取り続けており、1723年以降はウォルポールを失脚させる計画にも加担したが失敗に終わった[3]

偽名ガンダム[編集]

1738年以降、ジェントルマンズ・マガジン英語版で「マグナ・リリパッティア英語版上院の弁論」として出版された議会議事録英語版には「ガンダム」(Gumdahm)の偽名で現れた。当時の議会議事録の出版では発言者の本名記載が禁止されており、その裏をかくために発言者の名前が偽名アナグラムに置き換えられ[注釈 1]、弁論の内容は「ガリヴァーにより直近に有名になった国のものだったが、その冒険心にあふれた冒険者の不慮の死により自分で出版できなかった」とされた。すなわち、ジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記と同様のものであるとの主張だった。しかし、出版された演説のうち、ウィリアム・ピットによる演説とされるものにもウィリアム・ガスリー英語版サミュエル・ジョンソンといったマガジンの執筆者による創作が含まれている[9][注釈 2]

捨子養育院[編集]

このように憎悪を向けられることも多いウィンダムだったが、ロンドンでの公的生活では評判がよかった。例えば、1739年の捨子養育院英語版の特許状では創立時の総裁の1人に名を連ねているが、その背景には義父の第6代サマセット公爵の2人目の妻シャーロット・フィンチ(Charlotte Finch)が病院の創立者トマス・コラム英語版大尉による国王ジョージ2世への請願に最初に署名した人物だったことがある(サマセット公爵も創立時の総裁の1人である)。捨子養育院はイギリス初の捨て子のための孤児院であり、当時のロンドンの慈善事業では最も流行した。総裁にはウィンダムのほか、ニューカッスル公爵ウォルドグレイヴ伯爵ウィルミントン伯爵ヘンリー・ペラムアーサー・オンズローウォルポール男爵英語版、さらにロバート・ウォルポール自身までと錚々たる面子が揃った[3]

死去[編集]

狩猟中の落馬事故により、1740年6月17日にサマセットのウェルズで死去した。ローマで受けた占いにあやかって、馬の色は「当然白である」とされた[2]

家族[編集]

ウィンダムは2度結婚した。1度目の妻は第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの次女で、アルジャーノン・シーモア(後の第7代サマセット公爵)の妹のレディ英語版・キャサリン・シーモア(Catherine Seymour)であった。6代公が1748年、7代公が1750年に相次いで死去すると、7代公の1人娘エリザベス・シーモア英語版とその夫第4代準男爵ヒュー・スミソンとともに相続人の1人になった。すでに断絶したパーシー家英語版ノーサンバーランド伯爵が維持していたカンバーランドのイグリモント城英語版と(6代公が豪華に再建した)サセックスのペットワース・ハウス英語版といった多数の遺産の半分を継承する権利を有したのであった。継承権を有した理由は第11代ノーサンバーランド伯爵ジョスリン・パーシー英語版の1人娘で唯一の相続人だったエリザベス・パーシーが6代公と結婚したからだった。

ウィンダムとキャサリン・シーモアは2男3女をもうけた。この5人には下記を含む:

  • チャールズ・ウィンダム英語版(1710年 - 1763年) - 1740年、父の死去によりウィンダム準男爵位を継承。1750年、母方の伯父である第7代サマセット公爵の死去により特別残余権英語版イグリモント伯爵英語版位を継承[注釈 3]
  • パーシー・ウィンダム=オブライアン英語版(1713年/1723年頃 - 1774年) - 1756年、ソーモンド伯爵英語版に叙爵。第8代ソーモンド伯爵ヘンリー・オブライエン(1688年 - 1741年)は第6代サマセット公爵の娘エリザベス・シーモアと結婚した後、子供なくして死去したが、遺産の継承者にパーシーを指名したため、パーシーは姓にオブライエンを付け加えたのであった。パーシーは未婚、子供のないまま死去、伯爵位は再び断絶した。
  • エリザベス・ウィンダム英語版(1719年 - 1769年) - 首相ジョージ・グレンヴィルの妻、首相ウィリアム・グレンヴィルの母。

ウィンダムの2人目の妻はウィリアム・ゴドルフィン英語版の未亡人マリア・キャサリーナ・デ・ジョング(Maria Catherina de Jonge)だった[3]

肖像画[編集]

ウィンダムの肖像画はオーカード・ウィンダムのペットワース・ハウスに現存する[13]

脚注[編集]

  1. ^ 例えば、CholmondeleySholmlngに、PittPtitに置き換えられた。
  2. ^ Emeny, p. 3ではGumdahmジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記の登場人物であるとの間違いを犯している。
  3. ^ 第6代サマセット公爵は1748年、死の直前に自身が継承していたシーモア家の分枝が断絶しそうであることに気づいており、第9代ノーフォーク公爵(1777年没)が述べたように、「彼の家族の名誉は彼の家系から遠戚の家系に移ってしまう」[10]。6代公爵の息子で後の7代公爵となるアルジャーノン(1684年 - 1749年)はビーチャム卿(Lord Beauchamp、1744年没)という息子をもうけているが、子供なくして死去していたため、7代公爵の継承者は娘のエリザベスしかおらず、彼女は1740年に第4代準男爵ヒュー・スミソンと結婚した。 そのため、1748年に6代公爵が死去する直前にはサマセット公爵位が法律の定めにより6代公爵の12等親である第6代準男爵エドワード・シーモア(デヴォンのベリー・ポメロイ英語版とウィルトシャーのメイデン・ブラッドリー英語版の準男爵)が継承する予定となっていた。実際エドワードはシーモア本家筋(初代公の1度目の結婚でもうけた息子の末裔だった)かつ長男であったが、初代公の1度目の妻に不倫の疑いがあったため直接継承から外され、残余権でしか継承できなかった。 さらに、トローブリッジのシーモア家領とそれよりはるかに大きいパーシー家領の法的に定められた継承順位は違うが、6代公爵は好きに他人に贈与できるとした。6代公爵は「スミソンを激しく嫌った」[11]。彼はスミソンが貴族らしくなさすぎてパーシー家領を継承できないと考えたが、息子の7代公爵は反対、スミソンは継承権を有すべきと主張した。6代公爵はスミソンを継承から外すべく国王ジョージ2世にも働きかけたが、国王は7代公爵とスミソン自身から対案を提出された。6代公爵は計画を実行する前に死去したが、7代公爵とジョージ2世は彼の意を汲み取って、スミソンの取り分を減らした。すなわち、パーシー家領はスミソンと6代公爵最愛の孫である第4代準男爵チャールズ・ウィンダム英語版の間で分割され、スミソンはアルンウィック城とシオン・ハウスを、ウィンダムはイグリモントと6代公爵の愛したペットワースを継承すると定められた。 ジョージ2世を含む関係者全員はパーシー家やシーモア家といった大貴族の領地の継承者が貴族に叙される必要性を認めた。実際の手続きは1748年に6代公爵が死去した後、ジョージ2世は7代公爵に新しい爵位を4つ与え、7代公爵に男性継承者がいないことを予想して残余権もつけた。この4つの爵位とはスミソンの残余権のあるウォークワース城のウォークワース男爵とノーサンバーランド伯爵、そしてウィンダムに残余権のあるコッカーマウス男爵とイグリモント伯爵である[12]。(子爵以上の爵位が創設されるとき、長男用の儀礼称号として同時に男爵位を創設することが慣習となっている。)

出典[編集]

  1. ^ Stephen W. Baskerville, "Wyndham, Sir William, third baronet (c. 1688 – 1740)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004; online edn, May 2006.
  2. ^ a b c d Emeny, Richard, A Description of Orchard Wyndham, 2000, p. 3. (guide-booklet available at Orchard Wyndham)
  3. ^ a b c d Wikisource-logo.svg Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Wyndham, Sir William" . Encyclopædia Britannica (in English). 28 (11th ed.). Cambridge University Press.
  4. ^ Cruickshanks, Eveline (1970). "Wyndham, Sir William, 3rd Bt. (?1688-1740), of Orchard Wyndham, Somerset". In Sedgwick, Romney. The House of Commons 1715-1754 (in English). The History of Parliament Trust. Retrieved 19 May 2019.
  5. ^ a b Cobbet, William, Cobbett's Parliamentary History of England, Volume 7, London, 1811, pp. 218-219.
  6. ^ Cruickshanks, Eveline, Forster, Thomas (1683-1738), of Adderstone, Northumb., published in History of Parliament英語版: House of Commons 1715-1754, ed. R. Sedgwick, 1970
  7. ^ Notes and Queries. Proclamation against Sir W. Wyndham”. Publication of our County Records (Sussex). Forgotten Books. 2015年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月11日閲覧。
  8. ^ a b c Boyer, Abel英語版, Political State of Great Britain, Volume X, London, 1716, pp. 330-336.
  9. ^ Graham, Harry, The Mother of Parliaments, Boston USA, 1911, pp. 279-280.
  10. ^ Tierney, M.A., History and Antiquities of Arundel, 1833, Chapter 6, p. 565, note 4.
  11. ^ Cruickshanks, Eveline, Smithson, Sir Hugh, 4th Bt. (1715-86), of Stanwick, Yorks. and Tottenham, Mdx., published in The History of Parliament英語版: the House of Commons 1715-1754, ed. R. Sedgwick, 1970.
  12. ^ Debretts peerage, 1968, p. 411, Baron Leconfield and Egremont.
  13. ^ Art UK. "Sir William Wyndham (1687–1740), 3rd Bt, MP, on Horseback John Wootton (c.1682–1764) and Michael Dahl I (1656/1659–1743), National Trust, Petworth House" (image of portrait not currently available). Accessed 4 December 2016.
グレートブリテン議会英語版
先代:
ヘンリー・シーモア・ポートマン英語版
ジョン・プローズ
庶民院議員(サマセット選挙区英語版選出)
1710年 - 1740年
同職:ヘンリー・シーモア・ポートマン英語版 1710年
トマス・ロース 1710年 - 1713年
トマス・ホーマー 1713年 - 1715年
ウィリアム・ヘルヤー 1715年 - 1722年
エドワード・フィリップス 1722年 - 1727年
トマス・ストラングウェイズ・ホーナー 1727年 - 1740年
次代:
トマス・ストラングウェイズ・ホーナー
トマス・プローズ
公職
先代:
ウォルター・チェットウィンド英語版
バックハウンド管理長官英語版
1711年 - 1712年
次代:
カーディガン伯爵
先代:
サー・ロバート・ベンソン
財務大臣
1713年 - 1714年
次代:
サー・リチャード・オンズロー
名誉職
先代:
フランシス・ウォール
サマセット副提督英語版
1709年 - 1715年
次代:
ジョージ・ドディングトン英語版
イングランドの準男爵
先代:
エドワード・ウィンダム英語版
(オーカード・ウィンダムの)準男爵英語版
1695年 - 1740年
次代:
チャールズ・ウィンダム英語版