ウィリアム・コープランド

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ウィリアム・コープランド(William Copeland、1834年1月10日 - 1902年2月11日)は、ノルウェー系アメリカ人の醸造技師。1869年日本で初めてとなるブルワリー「スプリング・バレー・ブルワリー」を横浜の外国人居留地に設立した。

スプリング・バレー・ブルワリーは後に麒麟麦酒となる。

日本で初めて産業としてビールの製造を継続的に行ったため、「日本ビール産業の始祖」とも呼ばれる[1][2]

生い立ち[編集]

1834年1月10日、ノルウェーアーレンダールに生まれる[1]。誕生時の名前はヨハン・マルティニウス・トーレセン(Johan Martinius Thoresen)であった[1]1838年には家族でリレサン英語版に引っ越す。コープランドはリレサンの教会で堅信礼を受けて成長する[1]。1840年代には、ドイツ人醸造技師に徒弟修業として弟子入りし、ウィリアム・コープランドに名前を改めて、アメリカ合衆国移民した[3]:12[4]

日本での生活[編集]

1864年に日本の横浜へ移住。コープランドは知人ら2人と出資し、商事組合 S.ジェームズ商会を1866年に設立、牧場と運送業で品質の良い牛乳販売が評判になるが、商会は1867年に解散[1]。コープランドは単独でコープランド商会を設立し、運送業を行って、資金を貯める[1]。資金を貯めたコープランドは山手123番(天沼)の土地を購入すると、1869年にスプリング・バレー・ブルワリーを設立した[1]。近隣の丘を210メートル掘って、低温によるビール醸造を行った。後にルイ・パスツールが確立したパスチャライゼーション(低温殺菌法)を知ると、コープランドもこの技術をスプリング・バレー・ブルワリーに導入している。コープラドが生産したスタイルラガービール、バイエルンビール、バイエルンボックであった。コープランドの醸造したビールは、主に横浜の居酒屋に樽で売る他、醸造工場に隣接する自宅を改装し「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を1875年に開設すると、外国人居留者と外国船の船員向けに営業している。こちらは日本初のビアガーデンと言える。コープランドのビールは評判となり、東京や長崎へも出荷されるようになった。なお、1869年にはジャパン・ヨコハマ・ブルワリー、ヘフト・ブルワリーなども開業しているが、コープランドのビールほどは評判にならなかったようで、短期間で閉鎖されている。

コープランドは1872年にノルウェーへ一時戻るとアンネ・クリスティネ・オルセンと結婚した(結婚時、アンネ・クリスティネは15歳)[1]。コープランドは花嫁を伴って日本に戻ってきたが、7年後の1879年にアンネ・クリスティネは22歳で病死する[1]

ドイツ人醸造技師E・ウィーガントが1974年頃に設立したババリア・ブルワリーはスプリング・バレー・ブルワリーの近隣にあったこともあって、競合していた。ババリア・ブルワリーとスプリング・バレー・ブルワリーは低価格競争に陥り、互いに利益を減らしていった[5]1876年にコープランドはヴィーガントに競争の無駄を説得し、コープランド・アンド・ヴィーガント商会を設立する[5]。コープランドが経営担当、ウィーガントが醸造担当という役割分担であったが、これは上手く行かず、1880年にコープランドとウィーガントの間で、工場経営の主導権をめぐって対立が激しくなり、裁判の結果、商会は解散となって、工場は競売にかけられることとなる。工場そのものは、コープランド自身が落札したため、醸造所は継続することになる。

コープランドは、1881年より日本人向けの味が淡白で低価格のビールの醸造もはじめ、1882年には日本語新聞にはじめての広告を掲載するなど、日本人向けの販売を始める[5]。しかし、醸造所買収時の借金がきっかけとなり、スプリング・バレー・ブルワリーは1884年に倒産、公売にかけられることになった。

スコットランド出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーの支援を受け、スプリング・バレー・ブルワリーは1885年に日本人投資家に売却され、ジャパン・ブルワリーとなる[3]:181888年、ジャパン・ブルワリーは明治屋と一手販売契約を締結し「麒麟ビール」の販売を始める。

1889年、勝俣清左衛門の次女・ウメ(勝俣銓吉郎の姉)と再婚[1]。自宅のビアガーデンを経営する傍ら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導などをする[1]1893年には日本を後にし、グアテマラシティで商売を始めるが上手く行かなかった[1]。グアテマラで身体を壊したコープランドは、1902年1月には日本に戻って、横浜の石川町に居を構えるが、翌2月には没することになる[1][6]。ウメはその後、両親と東京で暮らし、婦人帽子などの装飾業を営んでいたが、1908年に亡くなった[1]

コープランドの葬儀はジャパン・ブルワリー社によって行われ、墓は横浜外国人墓地に建てられた。後にウメも葬られている[1]

スプリング・バレー・ブルワリーの跡地は横浜市立北方小学校となっている[7]。ジャパン・ブルワリー社の後身である麒麟麦酒社の横浜工場、横浜支社では、コープランドの命日(2月11日)と6月には、墓前で、最新のビールを供えて、麒麟麦酒社の発展を祈る墓前祭が行われている。

スプリング・バレー・ビール ブランドの復活[編集]

2014年7月、麒麟麦酒社は、クラフトビールブランド「SPRING VALLEY BREWERY」を立ち上げ、その運営子会社である「スプリングバレーブルワリー」を設立した[8]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本のビール醸造の開拓者たち・ウィリアム・コープランド”. 麒麟麦酒. p. 2. 2018年3月28日閲覧。
  2. ^ 経営史学会、山崎広明 『日本経営史の基礎知識』 有斐閣ブックス2004年、192頁。ISBN 978-4641183100。
  3. ^ a b Alexander, Jeffrey W. (2013). Brewed in Japan: the evolution of the Japanese beer industry. カナダ バンクーバー: UBC Press. ISBN 978-0-7748-2504-7. 
  4. ^ Tomoko Kamishima (2012年4月11日). “Yokohama Beer Pub, Spring Valley Foreign Footsteps in Yokohama 12 - William Copeland”. ジャパントラベル. 2019年1月22日閲覧。
  5. ^ a b c 日本のビール醸造の開拓者たち・ウィリアム・コープランド”. 麒麟麦酒. p. 3. 2018年3月28日閲覧。
  6. ^ 小森宏美 『日本・ノルウェー交流史』 早稲田大学出版部2007年、68頁。ISBN 978-4657076151。
  7. ^ Spring Valley Brewery”. Shinya Ota. 2014年6月5日閲覧。
  8. ^ “Japan's Kirin pushes into craft beer to halt market share slide”. ロイター. (2014年7月16日). http://uk.mobile.reuters.com/article/nonCyclicalConsumerGoodsSector/idUKL4N0PR0WC20140716 2014年7月24日閲覧。