ウィリアム・D・ポーター (駆逐艦)

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DD-579 ウィリアム・D・ポーター
USS William D. Porter (DD-579) in Massacre Bay, Attu, on 9 June 1944 (NH 97804).jpg
アッツ島マサカー湾に停泊するウィリアム・D・ポーター
1944年6月9日
基本情報
建造所 コンソリデーテッド・スチール
運用者  アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
艦歴
起工 1942年5月7日
進水 1942年9月27日
就役 1943年7月6日
最期 1945年6月10日に戦没[1]
除籍 1945年7月11日
要目
排水量 2,050トン
全長 376 ft 3 in(114.7 m)
最大幅 39 ft 8 in(12.1 m)
吃水 17 ft 9 in(5.4 m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 60,000 shp(45 MW)
最大速力 35 ノット(65 km/h; 40 mph)
乗員 士官兵員 273名
兵装 5インチ単装砲×5基
21インチ五連装魚雷発射管×2基
40mm機関砲×4基
20mm機関砲×4基
爆雷投下軌条×2基
爆雷投射機×6基
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ウィリアム・D・ポーターUSS William D. Porter, DD-579)はアメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級。艦名は南北戦争装甲砲艦エセックス英語版を指揮して活躍したウィリアム・D・ポーター英語版代将に因む。本艦はアメリカ海軍において「ウィリアム・D・ポーター」の名を持つ唯一の艦である。

ウィリアム・D・ポーターは、今日では真偽の怪しい話も含めて「不幸な艦」であったと言及されることが多い。

艦歴[編集]

ウィリアム・D・ポーターは1942年5月7日にテキサス州オレンジ英語版コンソリデーテッド・スチールで起工、1942年9月27日にメアリー・エリザベス・リーダー(Mary Elizabeth Reeder)嬢の手で進水した。その後ウィリアム・D・ポーターは1943年7月6日にウィルフレッド・A・ウォルター(Wilfred A. Walter)少佐の指揮の下で就役した[2]

大西洋での活動[編集]

進水式に臨むウィリアム・D・ポーター。1942年9月27日。

ウィリアム・D・ポーターは就役から間もなくオレンジを出港し、テキサス州ガルベストンルイジアナ州 アルジアーズ英語版を経由し、1943年7月30日に公試のためキューバグアンタナモ湾へ向かった。1ヶ月後の公試完了後、バミューダを経由して9月7日にサウスカロライナ州チャールストンに到着した。ウィリアム・D・ポーターはチャールストンで公試後の修繕を行った後、月末にバーニジア州ノーフォークへ移動する。そこでウィリアム・D・ポーターは空母イントレピッド(USS Intrepid, CV-11)ら大西洋艦隊の僚艦と共に、約5週間にわたって演習を実施した[2]

戦艦アイオワを雷撃[編集]

1943年11月12日、ウィリアム・D・ポーターは戦艦アイオワ(USS Iowa, BB-61)と合流した。アイオワには、カイロ会談テヘラン会談に参加するため北アフリカへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領が乗艦していた[2]

アイオワと合流するためノーフォークを出港する際に、ウィリアム・D・ポーターは不幸な事故に遭遇していた。ウィリアム・D・ポーターが艦尾方向へ移動した際に、が停泊していた姉妹艦の手すりとボートダビッドを切り裂いてしまったのである[注 1]。翌日には、波浪によってウィリアム・D・ポーターの甲板から爆雷1発が海中に落下して爆発した。その結果、Uボートからの魚雷攻撃だと誤解したアイオワと護衛艦艇が一斉に回避行動を行った[3]。ただしウィリアム・D・ポーターとアイオワの航海日誌には、11月13日に爆雷の喪失やUボートの捜索について言及はない。双方の日誌に言及があるのは、ウィリアム・D・ポーターの第3ボイラーが配管故障を起こした結果、艦隊から落伍してしまい、第4ボイラーが稼働するまでその状態が続いたことだけである[4][5]

11月14日、ルーズベルト大統領の要望によって、アイオワの戦闘能力を実演すべく対空戦闘訓練が執り行われた。演習は標的として多数のバルーンを放って行われた。バルーンの多くはアイオワの対空砲手によって撃ち落とされ、少数のバルーンはウィリアム・D・ポーターの方へ流れて同艦によって撃墜された。また、ウィリアム・D・ポーターと他の護衛艦艇はアイオワを敵艦に見立てて雷撃を想定した訓練を実施した。ところが、アイオワに向けられていた[3]ウィリアム・D・ポーターの第2魚雷発射管から突然魚雷1本が発射されたことで、訓練は混乱に陥ることになった[6]

ウィリアム・D・ポーターは直ちにアイオワに対し魚雷接近を知らせようとしたが、無線封止の指示を守って発光信号で連絡を行った。しかしウィリアム・D・ポーターは当初魚雷の進路を見誤り、さらに魚雷を海に放ったということよりもウィリアム・D・ポーターが後退しつつあるという内容の誤ったメッセージを繰り返した[3]。危機的な状況に、ついにウィリアム・D・ポーターは無線封止を破り、アイオワに魚雷が接近しつつあるという警告を暗号を用いて発信した。アイオワは魚雷を回避すべく急転舵を行った。その間ルーズベルト大統領は魚雷が接近しつつあるという脅威を認識し、様子が見られるようシークレットサービスに彼の車椅子を戦艦の端へ移動させるように頼んだ[3]。それから程なくして、魚雷はアイオワの約3,000ヤード後方の航跡の中で爆発した。アイオワに損害はなかったものの、伝説によれば、ウィリアム・D・ポーターがある種の暗殺計画に関係していたかもしれないという懸念から、アイオワは主砲をポーターに向けたという[注 2]。これらの事件は14時36分の魚雷発射から14時40分までの約4分間に起こったことであった[6][8]

事件後、ウィリアム・D・ポーターと乗員は事件の取調べのためにバミューダへ向かうように命じられた。ルーズベルト大統領はこの出来事を事件ではなく事故として扱うように介入したものの、アイオワに魚雷が発射されないように魚雷の雷管を外していなかった過失によって水雷分隊長(Chief Torpedoman、CTM(AA))ロートン・ドーソン(Lawton Dawson)[9]には労働刑が課せられた[3]インターネット・ミームで語られることとは対照的に、艦長のウォルター少佐は事件によって更迭されることはなく、1944年5月30日までウィリアム・D・ポーターの艦長職に留まった[10]。彼は後に他の艦でも艦長を務め、最終的には少将に昇進している[11][12]。ウィリアム・D・ポーターは1943年11月16日から23日までバミューダに滞在したが、艦の日誌にはインターネット上に流布しているような海兵隊員が待機していたことや乗員全員が「逮捕」されたということについて言及はない[13][14]

11月25日にノーフォークへ戻ったウィリアム・D・ポーターは[15]太平洋方面へ送られることになった。12月4日に出発したウィリアム・D・ポーターはトリニダード島を経由して12月12日にパナマ運河へ到着した。運河を通過して19日から21日までサンディエゴで過ごし、アリューシャン列島での活動で必要とされる防寒服やその他の装備品を積み込んだ[2]

北太平洋での活動[編集]

1943年12月29日、ウィリアム・D・ポーターはウナラスカ島ダッチハーバーに到着し、第94任務部隊(Task Force 94, TF 94)に加わった。1944年1月2日から4日にかけてダッチハーバーからアダック島へ向かい、1月7日にハワイへ向かうまで訓練任務に従事した。1月22日に真珠湾へ入港し、2月1日に駆逐艦母艦ブラックホーク英語版(USS Black Hawk, AD-9)を護衛して再びアダック島へ向かった。2隻は9日後に到着し、その後4ヶ月間ウィリアム・D・ポーターは第94任務部隊で比較的平穏な時間を過ごした。ウィリアム・D・ポーターはアリューシャン列島の様々な島を巡り、主に対潜護衛を行った[2]

1944年5月30日にウィリアム・D・ポーターの艦長がウォルター少佐からチャールズ・M・キース(Charles M. Keyes)中佐(アナポリス1932年卒)に交代した[10]

6月10日、ウィリアム・D・ポーターはアッツ島を出て千島列島を目指した。ウィリアム・D・ポーターら第94任務部隊は13日の早朝に到着し、松輪島の目標へ午前5時13分から艦砲射撃を開始した。20分後、ウィリアム・D・ポーターのレーダーが左舷方向から55ノット(100km/h)超で接近する正体不明の水上目標を捉えた。レーダー手はその目標を敵の魚雷艇であろうと判断し、ウィリアム・D・ポーターは松輪島への砲撃を中断して新たな標的へ砲撃を行った。すぐにレーダースクリーンから目標の反応が消え、第94任務部隊の砲火の犠牲になったものと思われた。程なくして、任務部隊は任務を完遂し給油のためにアッツ島へ戻っていった[2]

6月24日、ウィリアム・D・ポーターと第94任務部隊は千島列島での2度目の任務を行うためアッツ島を出発した。2日後に海上の霧はだんだん濃くなっていき、26日に幌筵島沖へ到着した時点で視界は200ヤード程度まで下がっていた。ウィリアム・D・ポーターは艦砲射撃を行った後に、第94任務部隊と共にアリューシャン列島へ戻った。1ヶ月の訓練を行ってから、アリューシャン列島での最後の任務のために8月1日クルク湾英語版を出発した。2日後、第94任務部隊は敵の双発爆撃機に追尾され、護衛の駆逐艦が対空砲火を行った。これは任務における唯一記述すべき出来事だった。なぜなら悪天候と敵の偵察機の出現によって、翌日に任務は中止されたからである。ウィリアム・D・ポーターは8月4日にアッツ島のマサカー湾英語版に投錨した[2]

1ヶ月間の対潜哨戒の後、ウィリアム・D・ポーターは西太平洋での活動に備えてサンフランシスコで短期間の入渠を行った。修理完了後、9月27日にサンフランシスコを出港したウィリアム・D・ポーターは10月2日にオアフ島へ到着した。真珠湾沖で2週間の訓練を行った後、18日に西太平洋へ向けて出発した。12日後、ウィリアム・D・ポーターはアドミラルティ諸島マヌス島ゼーアドラー湾へ入った。ウィリアム・D・ポーターは11月初めにマヌス島を出てホーランディアからレイテ島攻撃貨物輸送艦アルシャイン英語版(USS Alshain, AKA-55)を護衛した[2]

フィリピンの戦い[編集]

チャールストン海軍工廠におけるウィリアム・D・ポーター。1943年9月24日。

ウィリアム・D・ポーターの西太平洋に到着はレイテの戦いに参加するのに遅すぎたものの、サンペドロ湾到着後の戦闘は未だ続いていた。ウィリアム・D・ポーターが錨を下ろして間もなく、日本軍機が在泊艦艇への空襲を仕掛けてきた。最初の機はウィリアム・D・ポーターの射程外で近傍の駆逐艦の対空砲火に撃墜された。2機目の敵機が現れたものの、ウィリアム・D・ポーターの5インチ砲はその敵機を炎上させた[2]

ウィリアム・D・ポーターは同年の残りを、レイテ島、ホーランディア、マヌス島、ブーゲンビル島そしてミンドロ島で護衛任務に従事した。レイテ島からミンドロ島間を航行中だった12月21日、ウィリアム・D・ポーターは再び敵の空襲と戦うことになった。2機が低空飛行で接近し船団の近くに数発の爆弾を投下した。ウィリアム・D・ポーターの主砲は敵機が姿を現すとほぼ同時に射撃を開始したが、効果はなかった。投下された爆弾はかなり離れたところに着弾したが、敵機の方も明らかに損害はなく離脱していった。間もなく、さらに4基の敵機が攻撃を仕掛けてきた。ウィリアム・D・ポーターは最も近い2機を射撃してそのうちの1機を撃墜した。2機目も近くの駆逐艦と共同で阻止された。残りの2機は無事に逃れていったものと思われた。真夜中にかけて船団は敵機に付きまとわれたものの、攻撃を仕掛けてくるほどの大胆さは持ち合わせていなかった。夜明け前にウィリアム・D・ポーターは、物資を満載したまま放棄されていた敵舟艇を破壊した。ミンドロ島への護衛完了後、ウィリアム・D・ポーターはルソン島への上陸に備えるため12月26日にサンペドロ湾へ戻った[2]

リンガエン湾での作戦の間、ウィリアム・D・ポーターはジェシー・B・オルデンドルフ率いる火力支援部隊第77.2任務群(Task Group 77.2, TF 77.2)麾下のリンガエン湾支援群(Lingayen Fire Support Group)に参加した。1945年1月2日にサンペドロ湾を出撃したウィリアム・D・ポーターは、翌日にレイテ湾で任務群に加わった。第77.2任務群はスリガオ海峡を抜けて南下し、それからミンダナオ海を横断してネグロス島南端を回り、そしてネグロス島、パナイ島、ミンドロ島、最後にルソン島の西岸をほぼ北に進んだ[2]

任務群がルソン島南西沿岸に到着すると、ルソン島を基地とする敵機の航続距離内に入った。1月5日の朝に特攻機を含む敵機が空襲を開始した。最初の空襲の間、ウィリアム・D・ポーターに出番はなかった。なぜなら戦闘空中哨戒(CAP)の戦闘機が任務群に効果的な上空援護を提供していたからである。しかしながら、16時50分に最後の空襲で敵機がCAPを突破して攻撃を仕掛けてきた。17時13分頃にウィリアム・D・ポーターは敵機のうち3機に対空射撃を開始したが、暗くなるにつれて対空砲火の効果が分からなくなっていった。空襲の間、重巡洋艦ルイビル(USS Louisville, CA-28)と護衛空母マニラ・ベイ(USS Manila Bay, CVE-61)が特攻機の突入により大損害を受けた[2]

6日の夜明け前、ウィリアム・D・ポーターは任務群の僚艦と一緒に上陸前の支援砲撃を行うためにリンガエン湾に入った。その日を通して、上陸支援にあたる艦艇に敵機が散発的な空襲を仕掛けてきた。その日の午後、ウィリアム・D・ポーターは友軍部隊の上陸を支援するために日本軍の沿岸砲台に砲撃を始めた。17時38分に1機の敵機が現れたが、ウィリアム・D・ポーターの対空砲火によって容易に撃墜された。それから2分後、今度は双発の一式陸上攻撃機が向かってきたがこちらも上手く撃ち落とした。一連の対空戦闘の後に、ウィリアム・D・ポーターは本来の上陸支援任務に戻った[2]

1月9日の上陸後、ウィリアム・D・ポーターの任務は地上部隊が必要とした場合に火力支援を行うことと、敵に対して夜間の妨害砲撃を行うことに変わった。それから1月11日から18日にかけて、リンガエン湾沖で第77.2任務群と共に日本海軍の水上部隊の侵入を防ぐため待機した。18日に再びリンガエン湾へ入ってからは、沿岸部の地上部隊支援と泊地の対空・対潜警戒任務に従事した。2月3日には放棄されていた敵舟艇を砲撃し、日本側が上陸部隊への反撃や脱出に使用できないようにした。以降は2月15日まで対潜・対空警戒を継続した後、ドック型揚陸艦リンデンワルド英語版(USS Lindenwald, LSD-6)とエッピング・フォレスト英語版(USS Epping Forest, LSD-4)を護衛してグアム島へ向かった。

沖縄の戦い[編集]

一時的にリンガエン湾に戻った後、ウィリアム・D・ポーターは沖縄での戦闘を支援するためにレイテ島へ移動した。3月の初週までレイテ島に留まった後、ウィリアム・D・ポーターは西方諸島攻撃群(Western Islands Attack Group)の砲撃支援部隊に配属され、カブガン島で1週間の砲撃訓練に参加した。3月21日にウィリアム・D・ポーターはフィリピンを離れ、25日朝に琉球諸島へ到着。実質的に無抵抗な慶良間諸島占領の支援を行う。3月25日から4月1日にかけて慶良間錨地における対空・対潜警戒を実施し、また地上部隊が時折遭遇した軽微な抵抗に対する支援砲撃も行っている[2]

しかし、4月1日朝から始まった沖縄本島での戦闘でウィリアム・D・ポーターはモートン・デヨ少将の支援部隊である第54任務部隊(Task Force 54, TF 54)に再加入することになった。ウィリアム・D・ポーターは沖縄本島占領を目指す地上部隊への火力支援を提供し、同時に第54任務部隊の大型艦艇の対空・対潜警戒と作戦を支援する掃海艇の援護も行った。4月1日から5月5日にかけて、ウィリアム・D・ポーターは8,500発を超える5インチ砲弾を沿岸目標とひっきりなしに侵攻部隊へ来襲する敵機へ撃ち込んだ。この期間中、ウィリアム・D・ポーターはさらに5機の撃墜を記録した[2]

九州台湾を発進した日本軍機による空襲は続き、アメリカ側は速やかにレーダーピケット艦による警戒線を沖縄周辺に引いた。そして、ウィリアム・D・ポーターも5月初めにこの任務へ加わることになった。5月5日から6月9日にかけてウィリアム・D・ポーターはレーダー・ピケット任務に従事し、艦隊へ接近する敵機を警戒すると共に、迎撃に向かう友軍機を敵機へ誘導した。ウィリアム・D・ポーターはまた自らの対空砲火でも敵機を撃墜しており、誘導した友軍機によるものと合わせて7機の戦果を記録している[2]

最期[編集]

沈みつつあるウィリアム・D・ポーターと救援活動にあたる上陸支援艇LCS(L)(3)-122。1945年6月10日。

1945年6月10日、ウィリアム・D・ポーターは類のない神風攻撃を受けて致命傷を受けた。午前8時15分、旧式な九九式艦上爆撃機が突然雲から飛び出すとウィリアム・D・ポーターめがけて突っ込んできた。ウィリアム・D・ポーターは特攻機を回避することに成功し、その九九式艦爆は至近の海面に落下した。ところがどういうわけか、爆弾を積んだ機体はウィリアム・D・ポーターの真下へ入り込み、そこで爆発した。突如として、ウィリアム・D・ポーターの艦体は水中爆発によって海面から持ち上げられ、次いで海面に激しく叩きつけられた。これによってウィリアム・D・ポーターは電力を喪失し蒸気配管が破断したほか、各所に火災も発生した。乗員は3時間にわたって消火活動と損傷の修理に奮闘しながら、何とか艦を救おうと活動した。しかしながら、それらの努力は結果として無駄であった。総員退艦が命じられてから12分後にウィリアム・D・ポーターは右舷へ転覆し、艦尾から沈んでいった。奇跡的に、乗員に死者・重傷者が一人も出なかったのは不幸中の幸いであった[3]

ウィリアム・D・ポーターは1945年7月11日に海軍艦艇名簿英語版から除籍された[3]

栄典[編集]

ウィリアム・D・ポーターは第二次世界大戦における戦功で4個の従軍星章英語版を受章した[3]

注釈[編集]

  1. ^ ウィリアム・D・ポーターは、その時桟橋側にいたコグスウェル英語版(USS Cogswell, DD-651)とヤング英語版(USS Young, DD-580)の間に位置していた。1943年11月前半の各艦の日誌には、いずれも他の艦に損傷を与えたり損傷を受けたという報告はない。
  2. ^ この逸話は後に誤りであることが証明された。ただし、この誤射事件によって他の艦艇がウィリアム・D・ポーターに対して「撃つな!俺たちは共和党員だ!」(Don't shoot ! We're Republicans !)と冗談を飛ばすのが通例になったという[7]。これはルーズベルト大統領が民主党出身であることを踏まえたジョークである。

出典[編集]

  1. ^ Brown, David (1990). Warship Losses of World War Two. London: Arms and Armour. p. 153. ISBN 0-85368-802-8. 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "William D. Porter". Dictionary of American Naval Fighting Ships. Navy Department, Naval History and Heritage Command.
  3. ^ a b c d e f g h Bonner, Kit (1994年3月). “The Ill-Fated USS William D. Porter”. The Retired Officer Magazine. The Veteran's Association of the USS Iowa (BB-61). 2008年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月11日閲覧。
  4. ^ USS William D. Porter War Diary 13 November 1943 (Report). (13 November 1943). http://www.fold3.com/image/1/271024897/. 
  5. ^ USS Iowa War Diary 13 November 1943 (Report). (13 November 1943). http://www.fold3.com/image/270737214/. 
  6. ^ a b USS William D. Porter War Diary 14 November 1943 (Report). (14 November 1943). http://www.fold3.com/image/1/271024905/. "1436 Torpedo accidentally fired from #2 mount while torpedo battery was exercising at drills." 
  7. ^ Bonner, 1994
  8. ^ USS Iowa War diary 14 November 1943 (Report). (14 November 1943). http://www.fold3.com/image/270737219/. "At 1438 starboard screening destroyer reported torpedo coming towards this ship... At 1440 felt slight concussion due to depth charge or torpedo exploding in the near vicinity of this ship.... At 1458 starboard screening destroyer (USS W.D. Porter) sent message that at 1438 she fired torpedo accidentally in direction of this ship." 
  9. ^ Crew Report of Changes (Report). (4 December 1943). http://www.fold3.com/image/310605815/. 
  10. ^ a b USS William D. Porter War Diary May 1944 (Report). (1 June 1944). http://www.fold3.com/image/1/274566820/. 
  11. ^ Commanding Officers USS Muliphen (LKA-61)”. 14 June 2015‎閲覧。
  12. ^ “[‎ http://gravelocator.cem.va.gov/index.html Walter, Wilred Aves RADM, US Navy, Korea (1908–1996)]”. VA Gravesite locator, Riverside National Cemetery, Riverside, CA. 2015年6月14日閲覧。
  13. ^ USS William D. Porter War Diary 16 November 1943 (Report). (16 November 1943). http://www.fold3.com/image/1/271024919/. 
  14. ^ USS William D. Porter War Diary 23 November 1943 (Report). (23 November 1943). http://www.fold3.com/image/1/271024964/. 
  15. ^ USS William D. Porter War Diary 25 November 1943 (Report). (25 November 1943). http://www.fold3.com/image/1/271024973/. 

関連項目[編集]