エシェデ鉄道事故
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エシェデ鉄道事故 | |
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![]() 大破した後部車両 | |
発生日 | 1998年6月3日 |
発生時刻 | 10:59 |
国 |
![]() |
場所 | ニーダーザクセン州エシェデ |
路線 | ハノーファー-ハンブルク線 |
運行者 | ドイツ鉄道 |
事故種類 | 列車脱線事故 |
原因 | 弾性車輪の破損 |
統計 | |
列車数 | 1本 |
乗客数 | 287人 |
死者 | 101人 |
負傷者 | 88人 |
エシェデ鉄道事故(エシェデてつどうじこ)は、1998年6月3日にドイツ・ニーダーザクセン州のエシェデ付近で発生した列車脱線事故である。高速列車のICEが脱線し道路橋に衝突、101人が死亡した。
事故の経過[編集]
1998年6月3日、ミュンヘン発ハンブルク行きICE・884列車「ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン」号(ICE 1、前後の動力車を含む14両編成)が約200km/hで走行中、エシェデ駅の手前550mで脱線し、道路橋の橋脚に激突して、101人の死者を出す大惨事となった[1]。
ハノーファーから北に42km、エシェデの跨線橋の約6km手前の地点で、先頭2両目の1号車後位寄り台車の前方軸車輪の外輪が破断したと推定される[2]。列車はそのまま走行し続けたが、陸橋の120m手前の分岐器で1号車の台車が脱線した[3]。この120m先にある別の分岐器では脱線した台車の衝撃で切り換わり、衝撃で先頭動力車の連結器が外れ、2号車・3号車も脱線した[3]。客車の1・2号車は道路橋を通過したが、3号車は後部が道路橋の橋脚に激突し、緊急ブレーキが作動した[3]。
先頭動力車は脱線せず、約2km先に停止した[3]。1 - 3号車は脱線しつつも道路橋を通過し軌道上で停止。4号車は道路橋通過後に斜面の右側に横転し、衝撃で道路橋が崩落した[3]。5号車は崩落した道路橋に押し潰され、6 - 12号車および後部動力車が折り重なる形で激突、大破した[3]。
原因[編集]
原因は、ICE 1に使われていた弾性車輪の外輪のたわみによってできた金属疲労による亀裂である[3]。ICE 1は当初は一体圧延車輪を採用していたが、台車にコイルばねを使用しており、振動と騒音の発生や車輪が楕円形に変形する現象もあり、乗り心地の悪化に繋がっていた。ドイツ鉄道では乗り心地改善のため二重構造の車輪を開発、内輪と外輪の間にゴムを挟んだ弾性車輪とした[3]。
1997年には空気ばね台車が開発され、一体車輪でも乗り心地の改善が可能になったことから、第2世代のICE 2より再び一体車輪が採用されていたが、ICE 1では弾性車輪のままであった[3]。事故後、ICE 1の弾性車輪は全て一体車輪に交換され、1999年6月末までに完了している[3]。
その後[編集]
この事故以降、ドイツ鉄道はフランス国鉄がTGVで行っているような高速走行記録等の技術向上より、車両メンテナンスの強化、事故防止対策の徹底、高速鉄道ネットワークの拡充、車内サービスの充実化といった方向に主眼を向けていく事となった。
この事故は、台湾高速鉄道の受注権が新幹線に移る要因の一つともなった(最大の要因は台湾の政治権力争いと台湾大地震によるもの)[要出典]。
事故現場には慰霊のモニュメントなどを設けたメモリアルパークが整備されている[4]。
脚注[編集]
- ^ 平川「ドイツ新幹線事故の真相」技能と技術
- ^ 河田「ドイツの高速列車事故から学ぶ危機管理」土木学会誌
- ^ a b c d e f g h i j 張田・中尾「高速列車ICEの脱線転覆」失敗知識データベース
- ^ ICEの事故から20年、エシェデで追悼式
参考文献[編集]
- 平川賢爾『ドイツ高速鉄道脱線事故の真相』慧文社、2006年。ISBN 978-4-905849-42-1。
- 張田吉昭; 中尾政之. 高速列車ICEの脱線転覆 (Report). 失敗知識データベース. 失敗学会 .
- 河田恵昭「ドイツの高速列車事故から学ぶ危機管理」土木学会誌、1999年7月号、38-41頁。
- 平川賢爾「ドイツ新幹線事故の真相」技能と技術、2004年2月
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
座標: 北緯52度44分4秒 東経10度13分13秒 / 北緯52.73444度 東経10.22028度
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