エミリオ・ブトラゲーニョ
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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はブトラゲーニョ、第二姓(母方の姓)はサントスです。 |
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![]() 2015年のブトラゲーニョ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
エミリオ・ブトラゲーニョ・サントス Emilio Butragueño Santos | |||||
愛称 | エル・ブイトレ (El Buitre) | |||||
ラテン文字 | Emilio BUTRAGUEÑO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1963年7月22日(56歳) | |||||
出身地 | マドリード | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1981-1982 |
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1982-1984 |
![]() | 65 | (36) | |||
1984-1995 |
![]() | 341 | (123) | |||
1995-1998 |
![]() | 91 | (29) | |||
代表歴 | ||||||
1983-1984 |
![]() | 5 | (2) | |||
1984-1994 |
![]() | 69 | (29) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エミリオ・ブトラゲーニョ・サントス(Emilio Butragueño Santos、 1963年7月22日 - )は、スペイン・マドリード出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。
人物[編集]
「エル・ブイトレ」(ハゲワシ)のあだ名を持ち、当時のスペイン代表、レアル・マドリードを代表する選手の一人。1980年代後半のキンタ・デル・ブイトレと呼ばれたレアル・マドリードの中心人物であり、2004年にはFIFAとペレが選ぶ「偉大なサッカー選手100人」であるFIFA100にも選ばれた。
サッカー選手としては決して恵まれた体格ではなかったが、並外れたゴールへの嗅覚と反応のよさ、そして一瞬のスピードを武器に活躍し、1990-91年にはリーグ得点王を獲得。当時のスペイン代表最多得点記録を持つなど高い決定力を誇った。また、フォワードながらパスの技術も高く、他の選手を使うことにも長け、レアル・マドリードで2トップを組んだウーゴ・サンチェスの決定力を最大限に引き出した。キャリアの中で1枚もレッドカードを受けたことがなく、紳士的なプレイヤーでもあった。
経歴[編集]
1963年7月22日に、スペインの首都マドリードで生まれる。幼少期は、両親が経営する香水店の手伝いをしながら、週末には家族や友人とサッカーを楽しんでいる程度であった[1]。
15歳の頃、学校のサッカーで活躍したことをきっかけにアトレティコ・マドリードのトライアルを受けることを勧められる。アトレティコ・マドリードとの契約をする直前、レアル・マドリードのジュニアチームの監督をしていた家族の友人に、テストをするため結論を伸ばすよう説得された。そして、テストの結果レアル・マドリードと練習生の契約を結んだ。その後、練習試合をたまたま見に来ていたルイス・モロウニーは、リカルド・ガジェゴを探しだして「前線でプレーしているあの変な選手は誰だ?どこで見つけてきたんだ?彼は天才だよ」と叫んだという[1]。
1980年にレアル・マドリードとアマチュア契約を交わす。その翌シーズンからはカスティージャCFでプレーするようになり、1983-84シーズンには2部リーグ優勝を経験する。そのシーズンにブトラゲーニョはリーグ21得点を記録し、ヘセ・ロドリゲスが2012-13シーズンに22得点を挙げて更新するまでカスティージャにおけるリーグ最多得点となった[2]。
その後、アルフレッド・ディ・ステファノによって1984-85シーズンにカディスCF戦でトップチームデビューを飾る。2-0でリードを許した状態でサンティリャーナとの交代で後半から出場したブトラゲーニョは、デビュー戦で2ゴール1アシストを記録しチームの逆転勝利に貢献した。キンタ・デル・ブイトレの5人の中では、マヌエル・サンチス・オンティジュエロ、マルティン・バスケス、ミゲル・パルデサに次いで4番目のデビューであった。また、1984年10月17日のウェールズ戦で代表デビューを果たした。以来翌シーズンからキンタ・デル・ブイトレの中心としてリーガ5連覇など数々のタイトル獲得に貢献。個人としても1985年、1986年と2年連続でブラヴォー賞に選ばれた。黄金期の一角を担うとともに1985年、1986年と2年連続で1位こそ逃したものの、バロンドール投票で3位を獲得した[3]。
レアル・マドリードではフアニートが出場している試合は背番号8番などを着用していたが[4]、フアニートの移籍後は背番号7番を継ぎ、その後フアニートと並ぶ背番号7のアイコンの一人となった。
1986年のメキシコW杯ではデンマーク戦で4得点を挙げるなど活躍を見せた。ワールドカップでの1試合4得点は、イングランドW杯の準々決勝にてエウゼビオが北朝鮮代表を相手に決めて以来の快挙である。最終的に5得点を記録しディエゴ・マラドーナ、カレカらと並んでシルバーボールに輝いた。
1990-91シーズンには19得点を挙げてリーガ得点王を獲得するとともに、イタリアW杯にも出場。1994年のアメリカW杯に出場後、17歳でデビューを飾ったラウル・ゴンサレスにポジションを奪われる形となり、1995年は8試合にしか出場できず1ゴールに止まった。その年の6月15日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われたASローマとの親善試合を最後にレアル・マドリードを去り、メキシコのアトレティコ・セラヤへと移籍。3年間プレーした後、1998年に現役を引退した。
現役引退後は古巣レアル・マドリードにフロント入りし、かつてのチームメイトであるホルヘ・バルダーノの後任としてスポーツディレクターに就任し強化担当を務めていたが、2006年に会長の交代により退団した。しかし、2009年にフロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したことによりブトラゲーニョも再び役員に就任した[5]。
エピソード[編集]
- レアル・マドリードの練習生に加わったばかりのころ、毎日スクーターで練習に通っていたブトラゲーニョに対し、アルフレッド・ディ・ステファノは「選手は自分の体には気を付けなければならない。何か他の手段で通うべきだ」と諭した。その後、土曜日の夜に、友人に会うためにベスパに乗っていたところをディ・ステファノに見つかり、罵声を浴びせられた。その後、ブトラゲーニョはすぐさまバイクを売った[1]。
- 1988年、レアル・マドリード所属時に自身の名を冠したテレビゲームが発売された[6]。
個人成績[編集]
シーズン | クラブ | 国内リーグ | 国内カップ1 | UEFA2 | 通算 | ||||
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試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | ||
1981-82 | カスティージャCF | 6 | 3 | — | — | 6 | 3 | ||
1982-83 | 38 | 13 | — | — | 38 | 13 | |||
1983-84 | 21 | 21 | — | — | 21 | 21 | |||
カスティージャCF通算 | 65 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 65 | 37 | |
1983-84 | レアル・マドリード | 10 | 4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 12 | 6 |
1984-85 | 29 | 10 | 4 | 0 | 11 | 4 | 44 | 14 | |
1985–86 | 31 | 10 | 6 | 2 | 12 | 2 | 49 | 14 | |
1986–87 | 35 | 11 | 3 | 3 | 7 | 5 | 45 | 19 | |
1987–88 | 32 | 12 | 3 | 1 | 8 | 2 | 43 | 15 | |
1988–89 | 33 | 15 | 8 | 3 | 8 | 4 | 49 | 22 | |
1989–90 | 32 | 10 | 6 | 2 | 2 | 2 | 40 | 14 | |
1990–91 | 35 | 19 | 4 | 2 | 4 | 4 | 43 | 25 | |
1991–92 | 35 | 14 | 6 | 4 | 9 | 1 | 50 | 19 | |
1992–93 | 34 | 9 | 3 | 1 | 6 | 1 | 43 | 11 | |
1993–94 | 27 | 8 | 2 | 1 | 4 | 2 | 33 | 11 | |
1994–95 | 8 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 12 | 1 | |
レアル・マドリード通算 | 341 | 123 | 47 | 21 | 75 | 27 | 463 | 171 | |
1995-96 | アトレティコ・セラヤ | 34 | 17 | — | — | 34 | 17 | ||
1996–97 | 26 | 2 | — | — | 26 | 2 | |||
1997–98 | 31 | 10 | — | — | 31 | 10 | |||
アトレティコ・セラヤ通算 | 91 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 91 | 29 | |
トップチーム通算 | 432 | 152 | 47 | 21 | 75 | 27 | 554 | 200 |
1コパ・デル・レイ, スーペルコパ・デ・エスパーニャ, コパ・デ・ラ・リーガ. 2UEFAカップ, UEFAチャンピオンズリーグ, UEFAカップウィナーズカップ.
獲得タイトル[編集]
クラブタイトル[編集]
- セグンダ・ディビシオン : 1983-84
- プリメーラ・ディビシオン : 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1994-95
- コパ・デル・レイ : 1988-89, 1992-93
- コパ・デ・ラ・リーガ : 1984-85
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1988, 1989, 1990, 1993
- UEFAカップ : 1984-85, 1985-86
- コパ・イベロアメリカーナ : 1994
個人タイトル[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c フィル・ボール『レアル・マドリー ディ・ステファノからベッカムまで』野間けい子、ネコパブリッシング、2004年。ISBN 4-7770-5036-X。
- ^ ロナウドやベイルを凌ぐ賞賛の声。レアルファンが夢託す若き才能は“モウリーニョの遺産” - livedoor NEWS
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
- ^ History Real Madrid 5-1 Köln - UEFA.com
- ^ ペレス会長が推し進めるR・マドリーの歴史的な大改革 - ocn sports
- ^ Juegos de fútbol: Emilio Butragueño Fútbol - notasdefutbol
外部リンク[編集]
- BDFutbol profile
- エミリオ・ブトラゲーニョ - National-Football-Teams.com
- エミリオ・ブトラゲーニョ – FIFA主催大会成績
- Real Madrid biography (スペイン語)
- Biography at Real Madrid Fans (スペイン語)
- International appearances, RSSF
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