オットー・アッド

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オットー・アッド Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Otto Addo
基本情報
国籍  ガーナ
ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1975-06-09) 1975年6月9日(42歳)
出身地 西ドイツの旗 ハンブルク
身長 188cm
体重 78kg
選手情報
ポジション OH
利き足 右足
ユース
1981-1991 ドイツの旗 フメルスビュテラー
1991-1992 ドイツの旗 ハンブルガー
1992-1993 ドイツの旗 ブラムフェルダー
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1996 ドイツの旗 VfL93ハンブルク 80 (4)
1996-1999 ドイツの旗 ハノーファー 97 (20)
1999-2005 ドイツの旗 ドルトムントⅡ 5 (0)
1999-2005 ドイツの旗 ドルトムント 75 (11)
2005-2007 ドイツの旗 マインツ 19 (0)
2007 ドイツの旗 ハンブルガーⅡ 10 (0)
2007-2008 ドイツの旗 ハンブルガー 4 (0)
代表歴
1999-2006 ガーナの旗 ガーナ 15 (1)
監督歴
2009-2010 ドイツの旗 ハンブルガーU-19 (アシスタント)
2010- ドイツの旗 ハンブルガーU-19
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説■サッカー選手pj

オットー・アッドOtto Addo, 1975年6月9日[1] - )は、西ドイツ(現ドイツ)・ハンブルク出身の元ガーナ代表の元サッカー選手。現サッカー指導者

経歴[編集]

クラブ[編集]

ガーナ出身の医者の息子[2]として生まれたアッドは、6歳の時にフメルスビュテラーSVドイツ語版の下部組織でキャリアを始め、ハンブルガーSVブラムフェルダーSVドイツ語版の下部組織を渡り歩き、3部(現4部)のVfL93ハンブルクドイツ語版とトップチーム契約を結んだ。1996年に同リーグのハノーファー96へ加入し、後にドイツ代表となるゲーラルド・アサモア, ファビアン・エルンストと共に主力の1人としてプレー。加入1年目は、リーグ最多得点数の100得点と圧倒的な強さでレギオナルリーガ(北部)英語版を制するも、レギオナルリーガ(北東部)英語版王者エネルギー・コットブスとのプレーオフに敗れ涙をのんだが、翌シーズンに2部昇格を果たした。

2部の舞台でも30試合7得点と今までと同様に活躍したことから、1部の強豪ボルシア・ドルトムントに引き抜かれ、1999年9月にアウェーのTSV1860ミュンヘン戦でデビュー。2001-02シーズンは優勝の歓喜を味わう中、アッドは2001年7月15日のDFB ポカール・SCフライブルク戦で十字靭帯断裂し、同月22日に右膝の手術を受けた[3]ことで長期離脱を余儀なくされ、2002年5月8日のUEFAカップ 2001-02決勝デ・カイプフェイエノールト戦(2-3)でエベルトンに代わり61分から途中出場で復帰したが、優勝を逃した。2002年9月7日にカンパラで行われたアフリカネイションズカップ2004予選のウガンダ戦で[4]再び右膝の靭帯を断裂[5]し、2003年9月24日のUEFAカップ 2003-04FKアウストリア・ウィーン戦(2-1)で今後のキャリアを脅かすことになる3度目の靭帯断裂を右膝に負ってしまった[6]。この負傷で2004年度全体を欠場し、2005年1月末のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦(ホーム1-1)に途中出場で復帰した。加入してから主力として54試合11得点、特に2年目はキャリア最多にしてチーム2位となる9得点を挙げていたが、翌シーズンの負傷以降は4シーズンで21試合0得点に終わった。

ドルトムントから契約延長のオファーがあったものの、ユルゲン・クロップ監督に魅力を感じ[7]1.FSVマインツ05に2年+オプション1年で移籍[8]し、クロップ監督も本人も復活を望んでいたが、2シーズンで19試合に終わり、特にインパクトを残すことは出来なかった。しかし、そんな中でガーナ代表としては2006年2月14日に3月1日のメキシコ戦へ向け4年ぶりに招集[9]され、2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出された。

2006-07シーズン終了後にマインツが降格し、オプションが行使されず放出されたアッドは、2007年8月9日に地元にして古巣のハンブルガーSVと3年契約を結んだ[10]。元々はリザーブチームのみの起用を想定していたが、フーブ・ステフェンス監督はプレーぶりに感銘を受けトップチームで4度起用し、2008年10月6日のアルミニア・ビーレフェルト戦でラファエル・ファン・デル・ファールトに代わり90分から途中出場したのが、最後の試合となった。

代表[編集]

ドイツに生まれたアッドは、1999年2月28日のエリトリア戦(5-0)でガーナ代表としてデビューを果たし[11]、2000年1月27日のアフリカネイションズカップ2000トーゴ戦で初得点を記録した[12]2006 FIFAワールドカップでは、同じくドイツに幼少の頃から過ごしているVfLヴォルフスブルクハンス・サーペイと共に選出され、グループリーグのチェコ戦(2-0)とアメリカ戦(2-1)に出場。このアメリカ戦が代表として最後の試合になった。

コーチ[編集]

現役引退したアッドは、ハンブルガーSVの下部組織のアシスタントコーチに就任[13]し、2010-11シーズンにヘッドコーチへ昇格[14]。2013年3月27日に監督のライセンスを取得した[15]

脚注[編集]

  1. ^ "Otto Addo | National Football Teams"
  2. ^ "HSV-Juniorentrainer Addo: "Ich lerne jeden Tag dazu""
  3. ^ "Injury KO for Otto Addo"
  4. ^ "Uganda Shock Ghana"
  5. ^ "Otto Addo out for rest of year"
  6. ^ "Otto Addo's Injury Not Career Threatening"
  7. ^ "Interview mit Otto Addo: "Ich werde meist in gebrochenem Deutsch angesprochen""
  8. ^ "Addo joins German side Mainz"
  9. ^ "Otto Addo returns for Ghana"
  10. ^ "Hamburg in shock Addo swoop"
  11. ^ "Soccer-Black Stars rout Eritrea 5-0"
  12. ^ "African Nations Cup 2000 - Final Tournament Details"
  13. ^ "Otto Addos Traumturnier"
  14. ^ "Deutschland ist klarer Favorit"
  15. ^ "Otto Addo ist Fußball-Lehrer"