オットー・キッテル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オットー・キッテルOtto Kittel, 1917年2月21日 - 1945年2月14日or16日)は、第二次世界大戦で活躍したドイツ人パイロット。愛称はブルーノ。

撃墜数では史上4位のエースであり、独ソ戦では抜きん出た存在であった。しばしば「シトゥルモヴィークの壊し屋」とあだ名される。

略歴[編集]

1917年2月21日チェコのコルノフに生まれる。父はエドゥアルト・キッテル。幼い頃から空を飛ぶことに魅せられ、1939年(当時22歳)でルフトヴァッフェに入隊。訓練を終えてのち、41年に第54戦闘航空団第2飛行隊に配属される。当時の階級は伍長。背が低く口調も穏やかなキッテルは、一般的なエース・パイロットのイメージにはうまくあてはまらない。

1941年、彼はBf 109 F-2機でエンジン・トラブルを起こし、軽微な損害で済んだもののスピーケローク島に不時着したが、寛大な処置を受けている。初めてのミッションで、キッテルはSBYak-1を撃墜した。1941年6月22日バルバロッサ作戦の初日だった。多くのエクスペルテンもそうであるが、こと戦闘に関してキッテルは遅いスタートを切ったといえるかもしれない。1941年の終わりごろにやっと撃墜数を17機にのばす。1943年2月19日、キッテルは39機目のスコアを挙げたが、これは第54戦闘航空団の4000機目に当たるものであった。司令ハンネス・トラウトロフト少佐は彼を賞賛してこう言った。「機会があれば、いつでも自由戦闘を行いたまえ」

1943年にスコアを47機とした直後、キッテルはロシア国境の60キロメートル向こうで緊急着陸する。見晴らしのよい氷原におりたため、ドイツ領を目指すまで森に隠れていた。防寒服は着ておらず、酷く凍えながら彼は友軍と出会うまでの3日間を食料なしで凍ったイリメニ湖を横断した。

帰還後に、一等軍曹へ昇進しドイツ十字章金賞を授与された。また同年10月には騎士鉄十字勲章を受ける。123機目の撃墜を果たしたことによるものだった。44年4月には柏葉騎士十字章を受章。1943年から44年にかけて、キッテルはフランスビアリッツ東部予備戦闘飛行隊で教官をつとめた。 1943年12月、彼は西部戦線に移り、対アメリカ軍重爆撃機迎撃任務につくが、接近戦を続けることはしなかった。1944年、キッテルは第54戦闘航空団へ復帰、間もなく239機目の撃墜により剣付柏葉騎士十字章を叙勲された。しかし1945年2月14日、クールラントにおける要撃戦においてIl-2を攻撃中、後方機銃の反撃を受けてエンジン、コクピット付近に被弾したキッテル機は墜落、キッテルも戦死した[要出典]。 キッテルは583度の戦闘に参加し267機を撃墜、そのうち94機がII-2だった。これは史上4位となる数字であり、第54戦闘航空団及びFw190のみで撃墜したスコアでは最多の記録となる。

参考文献[編集]

  • Fellgiebel, Walther-Peer (2000). Die Träger des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939-1945. Friedburg, Germany: Podzun-Pallas. ISBN 3-7909-0284-5.
  • Kurowski, Franz (2007). Oberleutnant Otto Kittel Der erfolgreichste Jagdflieger des Jagdgeschwaders 54. Würzburg, Germany: Flechsig Verlag. ISBN 978-3-88189-733-4.
  • Scherzer, Veit (2007). Die Ritterkreuzträger Die Inhaber des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939 von Heer, Luftwaffe, Kriegsmarine, Waffen-SS, Volkssturm sowie mit Deutschland verbündeter Streitkräfte nach den Unterlagen des Bundesarchives (in German). Jena, Germany: Scherzers Miltaer-Verlag. ISBN 978-3-938845-17-2.