オットー・ゲオルク・ティーラック
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オットー・ゲオルク・ティーラック Otto Georg Thierack | |
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生年月日 | 1889年4月19日 |
出生地 |
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没年月日 | 1946年11月22日(57歳没) |
死没地 |
![]() パーダーボルン=ゼンネラーガー |
前職 | 軍人 |
所属政党 |
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称号 | 二級鉄十字章 |
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内閣 |
ヒトラー内閣 フォン・クロージク内閣 |
在任期間 | 1942年8月24日 - 1945年5月23日 |
オットー・ゲオルク・ティーラック(Otto Georg Thierack, 1889年4月19日‐1946年11月22日)は、ドイツの裁判官、政治家。ヒトラー内閣の法相を務めた。
経歴[編集]
ドイツ帝国領邦ザクセン王国ヴルツェン出身。第一次世界大戦の際に軍に志願し、中尉まで昇進した。顔の傷はこの時負ったものである。また二級鉄十字章を受けている。敗戦後、戦争で中断していた法学の勉強に戻り、裁判所試補試験に合格した。ザクセン州の裁判所で勤務した。
1932年8月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。ナチス党政権掌握後の1933年5月にはザクセン州法相となる。さらに1936年には民族裁判所(Volksgerichtshof)の長官に任じられた。1942年8月にヒトラー内閣の法相に任命された。空席となった民族裁判所長官にはローラント・フライスラーを任じた。ティーラックの急速な昇進には彼がナチス党員であるというだけでなく、「Nationalsozialistischer Rechtswahrerbund」(国家社会主義法律家同盟)というナチス系法律家団体のリーダーをしていたこともあると思われる。
1944年9月8日にフライスラーのあまりにも狂乱した審理の進め方に遺憾の意を報告するテレタイプをマルティン・ボルマン宛に送っており、裁判の政治的な進め方はともかくも審理の進め方その物には注意を促していた。
敗戦後に連合軍に逮捕された。ニュルンベルク継続裁判の「法曹裁判」にかけられる予定であったが、その前に収監先のゼンネラーガーで隠し持っていた青酸のカプセルにより自殺した。
外部リンク[編集]
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