オルタナティヴ・ロック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
オルタナティヴ・ロック
Alternative Rock
様式的起源 パンク・ロック
ニュー・ウェイヴ
ポストパンク
文化的起源 1970年代末、1980年代
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
使用楽器 ボーカルギターベースドラムセットキーボード
サブジャンル
グランジローファイポストロックなど
融合ジャンル
 パンク・ロックハードコア・パンクハードロックパワー・ポップブリットポップノー・ウェイヴインダストリアルガレージ・ロックシューゲイザーノイズロックミクスチャー・ロックラップロックラップメタル)、インディー・ポップ
関連項目
インディー・ロックオルタナティヴ・ミュージックカウンター・カルチャー

オルタナティヴ・ロック(Alternative Rock)は、ロックの一ジャンルである。日本ではオルタナティヴオルタナと略称されることが多い。

オルタナティヴ(Alternative)とは、「もうひとつの選択、代わりとなる、代替手段」という意味の英語の形容詞。大手レコード会社主導の商業主義的な産業ロックやポピュラー音楽とは一線を画し、時代の流れに捕われない普遍的な価値を求める精神や、アンダーグラウンドの精神を持つ音楽シーンのことである。イギリス、アメリカだけでなく、世界の多くの国に存在する。

ジャンル全体の傾向としては、1970年代後半の英米の産業ロックへの反発からくる、1960年代ロックへの回帰(音楽的のみならず、思想的にも)を志向しており、インディー・ロックの流れを汲む。

概要[編集]

1978年、イギリスでは前年のロンドン・パンク・ムーブメントと入れ替わるようにポスト・パンク/ニュー・ウェイヴが勃興した。

そのもっとも先鋭的なグループとしてスロッビング・グリッスルディス・ヒートパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)らの名前が挙げられる。かれらはパンクが開けた風穴をさらに広げようとし、より自由で実験的な音楽を演奏し、資本的にもメジャーなレコード会社から独立したインディーズ・レーベルのソロ、およびバンドが多く、音楽メディアからはオルタナティヴ・ロックと呼ばれた。イギリスのラフ・トレード・レコード[1]は、初期のオルタナティヴ・ロックのレーベルとして知られていた。またアメリカで発表されたオムニバス盤『ノー・ウェイヴ』もオルタナティブ・ロックの佳作であった。同アルバムにはジェームス・チャンスらの曲が収録されていた。

オルタナに分類されるジャンルには、パンク・ロックハードコア・パンクノー・ウェイヴインダストリアルガレージロックグランジシューゲイザーノイズロックミクスチャー・ロックラップロックローファイエモ、ポスト・パンクなどがある。

同じころ、アメリカ各地の大学で学生が自主運営していたカレッジ・ラジオは、イギリスやアメリカのパンク・ロックやポスト・パンク、ニュー・ウェイヴやギターポップノイズロックなど、アメリカの音楽シーンの主流から外れた音楽を盛んに取り上げた。

彼らのラジオ局は、当時の音楽界の主流であったディスコミュージック、ポップヘヴィメタルなどを「収益性を第一とし、産業的・芸能的でアートとしての進歩性に欠け、聴衆におもねたもの」と呼んで、自らが支持する音楽を「主流でない音楽、真剣な音楽、自分たちの応援する地元のインディーズバンド」として放送する傾向があった。全米の大学ラジオごとのチャートをあわせた「カレッジチャート」では、商業性主体のビルボード・チャートとは異なるオルタナティヴ(代わりの選択肢となりうる・型にはまらない)なバンドが上位に名を連ねていた。REMやU2は、カレッジ・ラジオが応援し続けたバンドとして特に有名である[2]。U2は、音楽賞で受賞した際には「応援してくれたカレッジ・ラジオに感謝する」とコメントしていた。

詳細[編集]

広義の解釈はクラッシュ、ディーヴォ[3]など、メジャー・レーベルから発表された作品も、オルタナティヴ・ロックに含む考え方。オルタナティヴ・ロックの考察記事・読本などでは、これを「オルタナティヴ・ロックに属するバンド」を選考する際の基準にすることが多い[4]

狭義の解釈としては、メジャー・レーベルから発表されているソロ、バンドは、オルタナティヴ・ロックに含まれないとする考え方である。この考え方の場合、インディー・ロックと同じ集合となる。オルタナティヴ・ロックは、そもそもが1970年代の末にイギリスで発生したのは前述の通り。英米メジャーシーンの産業ロック、ポップに対するオルタナティヴとして誕生したジャンルであるため、音楽性は1970年代半ば以降の産業ロックや、トップ40もの(MTV的なもの)、ヘヴィメタル、保守的な主流カントリーとは正反対の方向性を持つ。これらはその多くが音楽的な挑戦を持ち、メジャーシーンへのアンチを志向している。また1980年代のポピュラーミュージック、産業ロックに比べると、聞き手にとっての耳触りのよさやキャッチーさを否定している。好まれた機材としてはフェンダー社のジャガージャズマスタームスタングなどを一部のギタリストが使用していた。歪み用のエフェクターは、きめの細かいヘヴィメタルタイプのディストーションよりもRATなどの荒いタイプのものが多用された。ニルヴァーナのカート・コバーンはフェンダーのジャガーを使用した[5]。また、変形ギターなど、1980年代メインストリーム的なものを好んで使用するバンドは非常に少ない。

R.E.M.ソニック・ユースといった勃興の際の旗手となったバンド群は、その人気により1990年代に入ってメジャーシーンに登場。1980年代ヘヴィメタルロックとは違った抽象性・アート性は、音楽雑誌、ローリング・ストーンNMEなどをはじめ、多くの音楽メディアで評価された。サウンド的には反産業ロック、オルタナティヴ志向のため、きらびやかなエフェクトは敬遠された。

1980年代USオルタナシーン[編集]

アンダーグラウンドな音楽活動は地域や時代を問わず存在したと考えられるが、1980年代の北アメリカ諸都市におけるパンク由来の音楽活動の特徴を、カナダの音楽社会学者ウィル・ストロー (Will Straw) は、「シーン」scene という概念で、従来の(エスニックな)「コミュニティー」に根ざしてアンダーグラウンドにまで連なる(たとえば)ダンス音楽と対比して論じている。[6]ウィル・ストローはカナダのトロント、モントリオール、アメリカのロサンゼルス、デトロイト、イギリスのロンドンなどのオルタナティブ・ロック・シーンを綿密に調査した。1980年代半ばまでに、カナダ、アメリカの都市部にはローカルなカレッジ/オルタナ・コミュニティが成立し、地域限定のインフラ(レコードリリースやラジオ放送)を利用した音楽活動が行なわれた。音楽的な多様性が許容され、必ずしも音楽的共通性を根拠としない「シーン」が成立していった。これらの諸シーンは、あくまでローカルなものでありながらも、特に必然的な地域性なしに各地で同様な経過で発生したため、各バンドは諸都市間を移動する活動によっても類似の聞き手を期待できた。しかし、この論文が出版された1991年ごろには、これらのシーンから生まれた音楽がメインストリームに取り入れられていった。若者にとっては、グランジなどが一大ジャンルとして、それまで主流だったポップ音楽よりも魅力のあるものと見られるようになっていった。

西海岸[編集]

300万都市ロスアンジェルスは、ニューヨークと並ぶ音楽産業の中心であり、1970年代以前からアンダーグラウンドの規模も大きかった。1970年代後半の、ニューヨークやロンドンと比べてローカルであったニュー・ウェイヴ・パンクシーンから、さらにロスアンジェルス郊外のハードコア・パンクシーンが枝分かれしていく過程は、1977年に高校生のファンジンとして創刊された『フリップサイド』(en:Flipside (fanzine))に記録されている。当初はニューヨークやロンドンのバンド公演の合間に登場するだけだった地元バンドが増えていった。「サーフパンク」などは、ロスアンジェルスのサウスベイオレンジ・カウンティなど郊外の未成年者を指し、これらのライブハウスの客層に人気のブラック・フラッグ[7]らのバンドは郊外のライブ会場を拠点として「ハードコア・シーン」が形成した。ミニットメンレッドクロス、あるいはTSOLといったバンド自体の音楽は、ニュー・ウェイヴ・ポストパンクやメタルなどさまざまな要素を含んでいた、という点である。新たに参入したディセンダンツはサーフロックのメロディーをこの地域のハードコアに持ち込んだ。

ロスアンジェルスでのライブの機会が限られる中、知名度の高かったブラック・フラッグやミニットメンは頻繁にツアーを行ない、アメリカ各地にハードコアシーンが形成される契機を作った。ブラック・フラッグの自主レーベルSSTレコード[8]は、LAで親交のあったバンドだけでなく、これらのツアー活動を通じて知り合ったアリゾナのミート・パペッツ、ミネアポリスのハスカー・ドゥ、ニューヨークのバッド・ブレインズソニックユースダイナソーJr.といったバンドの作品をリリースし、1980年代の代表的なUSオルタナティヴ・インディー・レーベルとして知られる。

ロスアンジェルスは映画産業の中心地でもあり、映画に登場したり映画音楽に起用されたりしたバンドも多い。1980年代初期のハードコア・シーンをよく伝える映画としては、オレンジ・カウンティー[9]のハードコアバンド、ソーシャル・ディストーションとユースブリゲードが1982年スクールバスを改造したツアーバスで試みた全米ツアーを中心とする映画『アナザー・ステート・オブ・マインド』や、1984年のフィクション『サバービア』がある。

<!-1984年にはハードコア・ブームはピークを迎え、ロスアンジェルスでも地元のイヴェンターGoldenvoiceが、各地の人気バンドやUKハードコアのバンドをヘッドライナーとしてオリンピック・アリーナのような大きな会場で頻繁にイヴェントを開催するようになる。このような、メインストリーム的なハードコア・パンク・イヴェントからは地元のバンドの多くが締め出され、様式化したハードコア・パンクと各地のハードコア・シーンの乖離が進んでいたことを『フリップサイド』は伝えている。-->

1980年代半ばにはロスアンジェルスはグラム・メタル、次いでスラッシュ・メタルを中心にLAメタルブームが発生した。しかし、それに対抗して1980年代末からバッド・レリジョンとそのレーベルエピタフ・レコードメロディック・ハードコアなど、パンク・バンドによる新しいブームが起きた。

サンフランシスコ・ベイエリアは、ロスアンジェルスと密接な関係にある地域であり、パンク・ニュー・ウェイヴのライブハウスとしてマブヘイ・ガーデンズが知られ、ブラック・フラッグやサークル・ジャークスといったバンドが早い時期から頻繁にツアーを行なっている。1978年結成の地元のバンドデッド・ケネディーズ[10]は、自主レーベルオルタナティヴ・テンタクルズを立ち上げ、東海岸へのツアーを行なうなど、早くから知名度をあげ世界的に知られるようになり、ジェロ・ビアフラ(v.)はパンクの反体制的主張の代弁者として積極的に発言する。バークリーの公共放送KPFAの音楽番組マクシマムロックンロールのティム・ヨハナン(en:Tim Yohannan)は、オルタナティヴ・テンタクルズからカリフォルニア北部のパンクバンドのサンプラーをリリース、この48ページのライナーが、世界的に知られるようになるパンク誌『マクシマム・ロックンロール』の創刊号となる。当初からこの雑誌のカラーとして、オルタナティヴな価値観を目指すパンク思想がアピールされた。

1986年にはオルタナティヴ・ミュージック・ファウンデーションを設立し、自主運営ライブハウス・ギルマンをオープンする。ギルマンは、ベイエリアのパンクシーンの中心として、グリーン・デイジョーブレーカーサマイアムといったバンドの活動拠点となった。ただし、『マキシマム・ロックンロール』を単にパンク音楽誌とみなすことはできない。その大量のレビューにはハードコア・パンク全盛期の草創期から、ポストパンク、サイケデリック、ノイズ、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再発、白人ビースティー・ボーイズのラップなど、典型的なパンク以外の音楽もしばしば好意的に評されている。白人のラップが評価されたことは、黒人ラップが中心のR&Bチャートとは異なっていた。1984年からは日本のバンドも登場し、少年ナイフなども紹介されている。

東海岸[編集]

最大都市ニューヨークはパティ・スミス、テレヴィジョンらをルーツとし、ジェームス・チャンスとコントーションズらの「ノー・ウェイヴ」がオルタナティブ・ロックらしいアルバムを発表した。 ワシントンD.C.は、黒人人口の比率が圧倒的に高く、オルタナ・シーンは小さい。地元レコード店主のスキップ・グロフにより1978年に自主制作で出された、ハーフ・ジャパニーズ[11]を含むニュー・ウェイヴ・バンドのコンピレーション 30 Seconds over D.C.:Here Comes the New Wave!が、ニューヨークからの独立宣言とも言える地元バンド作品である。グロフが設立を助けたティーン・パンクスによるディスコード・レコードも、D.C.を地図に載せることがテーマとなった。このティーンパンクスに大きな影響を与えたのが、ジャズ・フュージョンから転向したアフリカ系アメリカ人パンクバンド、バッドブレインズである。バッドブレインズは後にニューヨークに本拠を移し、東部のハードコア・パンク・バンドとしては初めて全米ツアーを行なってパンクスの間で知名度を上げた。さらにマイナー・スレット[12]をはじめとするティーンパンクスがハードコアを名のり、『フリップサイド』や『マクシマム・ロックンロール』(ラジオ番組、パンク雑誌の名称)を通じてDCシーンはパンクシーンで知られるようになった。しかし、バッドブレインズはボーカルH.R.がレゲエへの傾倒を強め、また、1983年にマイナースレットは解散した。

90年代以降[編集]

1990年代初頭のアメリカでは、ニルヴァーナ[13]やダイナソー・Jr、パール・ジャムサウンドガーデンなどがライブハウスやカレッジチャートなどを中心に、人気を獲得していった。彼らはグランジ・ロックと呼ばれた。すでに70年代末にはオルタナティヴ・ロックという呼称は存在していたが、ジャンル名がアメリカの音楽ジャーナリズムで拡大していったのは、この時期である。グランジは、過去の全米チャート上位を独占した既存の1980年代的な産業ロック、ハードロック、ヘヴィメタル、ポップ・ロックなどとは違うロックのジャンルとして浸透していった。

その後、カート・コバーンの自殺[14]や、その他の音楽状況の変化が要因となって、グランジムーブメントが終焉する。

2000年代以降のオルタナティヴ・ロック界では、ホワイト・ストライプス、ストロークス、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、アークティック・モンキーズ、リンキン・パークなどが活躍した。



オルタナティヴ・ロックに分類されるアーティストの一覧[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • BURRN! 1992.4月号
  • アメリカン・オルタナティヴ・ロック・ガイド(鈴木善之著)
  • Punk Zine Archive! FlipsideやMaximum Rocknroll が読める。
  • Flipside Fanzine Memorial Website LAの初期パンクGIGのデータベース作成中。
  • Hüsker Dü Database Hüsker Düのライブデータ、インタビュー、文献リストなど。
  • Mark Anderson & Mark Jenkins Dance od Days: Two Decades of Punk in the Nation's Capital 2001. Soft Skull Press.

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 初期にはキャバレー・ボルテール、ポップ・グループなどが所属した英国のインディーズ・レーベル
  2. ^ ソニック・ユース、リプレイスメンツ、ハスカー・ドゥなどもカレッジ・ラジオで人気のバンドだった。
  3. ^ ワーナー・レーベル所属
  4. ^ 2003年のローリングストーンにおける特集、NME・SPINなど多くの世界的ロック雑誌の記事傾向などもこれに該当。
  5. ^ http://rittor-music.jp/products/2011/10/2583
  6. ^ Straw, Will (1991). "Systems of Articulation, Logics of Change: Communities and Scenes in Popular Music", Cultural Studies, 5, 3, pp.368-88。en:Maximum RocknrollのScene Reportsを例示しており、「シーン」はこの用法に基づく概念であるとみられる。これより創刊の早いロスアンジェルスのファンジンen:Flipsideは1978年にはL.A.Scene という表現を用いており、1979年には「オレンジ・カウンティの二つの'scenes'」というような用法が現れている。
  7. ^ 「USオルタナティブロック1978-99」村尾泰郎
  8. ^ http://www.furious.com/perfect/sst1.html
  9. ^ 郡部ながらTSOLなど、多くのオルタナ・バンドが登場した
  10. ^ http://www.allmusic.com/artist/dead-kennedys
  11. ^ http://www.allmusic.com/artist/half-japanese-mn0000555654
  12. ^ 禁ドラッグ、禁アルコール、禁フリーセックスという、お堅いストレージエッジ思想を主張したバンド。
  13. ^ 91年に「スメルズ・ライク・ティーン・スピリットがヒットした。
  14. ^ http://www.nytimes.com/topic/person/kurt-cobain