オンシャン

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オンシャンモンゴル語: Ongšan, 中国語: 王禅, ?-1328年)は、晋王カマラの息子梁王スンシャンの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では王禅(wángchán)と記される。

概要[編集]

セチェン・カーン(世祖クビライ)よりモンゴリアの統治を委ねられた晋王カマラの孫として生まれた。

父スンシャンはかつて「梁王」として雲南を統治していたが、病気を理由としてその地位を降り、一時雲南はアウルクチ家の皇族によって治められていた。しかしオンシャンが成長すると延祐7年(1320年)に「雲南王」に封ぜられ、かつての父と同様に雲南に趣き雲南統治に携わるようになった[1]

泰定元年(1324年)に叔父に当たるイェスン・テムルがカーンに即位すると、オンシャンはカマラ王家の一員として厚遇されるようになる[2][3]。同年中には雲南王からかつて父が称していた「梁王」に格上げとなり、息子のテムル・ブカが代わりに雲南王となった[4]

泰定3年(1326年)には北方モンゴリアに派遣され、モンケ家のチェチェクトゥとともにモンゴリアの統治を行った[5][6]。また、代々カマラ王家が務めてきたチンギス・カンの四大オルドの管理も委ねられている[7]。これらの活動から、遼王トクトらと並んでオンシャンはイェスン・テムル政権の中枢を担う人材と見なされていた[8]

泰定5年(1328年)、イェスン・テムル・カーンが死去すると、次のカーン位を巡ってイェスン・テムルの遺児アリギバを擁立する上都派と、トク・テムルを擁立する大都派の間で「天暦の内乱」が勃発した。この天暦の内乱において、オンシャンはダウラト・シャー、遼王トクトらと並んで上都派の首魁として認識されており[9]、実際に上都派の主力軍を率いて南下したのはオンシャンであった[10]

子孫[編集]

前述したように、オンシャンの雲南王位を継いだ息子のテムル・ブカがいた。

天暦の内乱終結後、戦後処理の一環として至順元年(1330年)にオンシャンの息子が海南島の吉陽軍に流刑とされたとの記録が存在する[11]が、この人物は雲南王テムル・ブカではないかと考えられている。

晋王カマラ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻27英宗本紀1「[七年五月]丁未、封王禅為雲南王、往鎮其地」
  2. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1「[泰定元年夏四月]辛酉、命昌王八剌失里往鎮阿難答昔所居地。親王図帖睦爾至自潭州、及王禅、皆賜車帳・駝馬」
  3. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1「[泰定元年]秋七月丙戌……賜雲南王王禅鈔二千錠、諸王阿都赤鈔三千錠」
  4. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1「[泰定元年冬十月]丁丑……徙封雲南王王禅為梁王、食邑益陽州六万五千戸、仍以其子帖木児不花襲封雲南王」
  5. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定三年四月]乙未、命梁王王禅及諸王徹徹禿鎮撫北軍、賜王禅鈔五千錠・幣帛各二百匹」
  6. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2「[泰定三年十一月]乙巳、梁王王禅往北辺、賜鈔二千錠。……[十二月]壬辰、賜梁王王禅宴器金銀」
  7. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2「[泰定三年八月]丁亥,遣梁王王禅整飭斡耳朶思辺事」
  8. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2「[泰定四年二月]庚申……賜遼王脱脱鈔五千錠、梁王王禅鈔二千錠」
  9. ^ 『元史』巻32文宗本紀1「[致和元年]七月庚午、泰定皇帝崩於上都。倒剌沙及梁王王禅・遼王脱脱、因結党害政、人皆不平」
  10. ^ 『元史』巻31明宗本紀「[泰定四年二月]九月壬申、懐王即位、是為文宗……時倒剌沙在上都、立泰定皇帝子為皇帝、乃遣兵分道犯大都、而梁王王禅・右丞相答失鉄木児・御史大夫紐沢・太尉不花等兵皆次於楡林、燕帖木児与其弟撒敦・子唐其勢等、帥師与戦、屡敗之」
  11. ^ 『元史』巻34文宗本紀3「[至順元年二月]甲辰、流王禅之子於吉陽軍」

参考文献[編集]