カトリック麻布教会

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カトリック麻布教会
北緯35度39分33.3秒東経139度43分30.9秒座標: 北緯35度39分33.3秒 東経139度43分30.9秒
所在地 東京都港区西麻布3-21-6
日本の旗 日本
教派 カトリック教会
信徒数 1,880(2011年12月31日現在)
ウェブサイト http://www.azabu-catholic.jp/
歴史
創設日 1882年5月3日 (1882-05-03)
聖職者
主任司祭 パウロ三木 稲川 圭三
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カトリック麻布教会(かとりっくあざぶきょうかい)は、東京都港区西麻布にあるキリスト教カトリック)の教会およびその聖堂である。教会堂名は「イエスのみ心」。

沿革[編集]

1882年明治15年)5月3日、芝区赤羽根橋南東畔の松本町(現在の港区赤羽橋交差点西南隅)にカトリック築地教会の巡回教会が設置された。これは、築地教会所属の信徒の中で、芝公園近隣地区に住む信徒が多くなったためである。新聖堂は聖十字架発見の記念日にちなんで、『聖十字架の聖堂』と命名された。

赤羽橋の教会が手狭になると、当時神田教会から巡回していた司祭ジャック・エドモンド・パピノは、1889年(明治22年)、麻布区霞町21番地(現在の麻布教会敷地)に土地を借り受け聖堂の建築に着手、1890年(明治23年)7月1日に完成し、神田教会の巡回教会とした。1892年(明治25年)3月に司祭のドルワール・レゼーが麻布教会に常住したことから、同年を独立と考えるのが定説だが、1889年(明治22年)7月頃には独自の洗礼台帳やその他の教会文書が存在している事から、同年7月には独立していた説もある[1]

1893年(明治26年)頃からの麻布教会の活動は、東京6教会[2]の中で最もおとなしく、目立たない存在だった。これは、司祭の交代が多かった事と、1888年(明治21年)麻布に大隊区司令部が設置され、この地域に多くの軍人が居住し、彼らは日清戦争後の領土問題に、ドイツフランスロシアが干渉した事で強く不満を持ち、その敵意をフランス人宣教師にも度々向けたためである。当時の司祭であるミッシェル・シュタイシェン[3]は、温和な性格であるため移転までも考えたが、財政的に無理であったので、住民の感情を刺激しないよう、細々とした活動を行った。この苦境に耐えた麻布教会は後に大きく発展し、1921年大正10年)には東京6教会の中で最大の信徒数となった。

1890年(明治23年)に建てられた聖堂は1916年(大正5年)に建替えられたが、1945年(昭和20年)東京大空襲により聖堂が全焼し、聖心女子学院、信徒宅、伊皿子枝光会を仮聖堂とするなどの移転を繰り返し、1952年(昭和27年)4月13日、現在の聖堂が完成した。

交通アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1990年発行「カトリック麻布教会 一八八九年 - 一九八九年」p.32 - p.33
  2. ^ 築地、神田、浅草、本所、麻布、関口の6教会。
  3. ^ 1857年12月17日ルクセンブルクのデュドランジュで誕生。大学を卒業後、パリ外国宣教会に入会し1886年司祭に叙階。翌年に日本へ宣教師として派遣された。盛岡築地静岡麻布横浜の各地教会においてカトリック伝道に従事した。1918年築地神学校長及び築地教会主任司祭などの勤務の傍ら、キリシタン研究に没頭し1930年「切支丹大名記」を刊行。さらに、機関誌「聲」の編集長を務める傍ら、執筆にも精を出し「洲飛泉」、「捨井芝園」などのペンネームで作品を発表した。健康を害し、関口教会で静養に努めたが、1929年7月26日、本郷教会において死去。

参考文献[編集]

  • つきじ 百周年記念号 カトリック築地教会(1978年)
  • 百年のあゆみ 神田教会百年の歩み編集委員会(1874年)
  • カトリック麻布教会 一八八九年 - 一九八九年 麻布教会百年史編集委員会(1990年)
  • 東京教区ニュース№85/教会・修道院巡り(9)「麻布教会」 カトリック東京大司教区(1991年)

関連項目[編集]