カボット (空母)
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艦歴 | |
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起工 | 1942年3月16日 |
進水 | 1943年4月4日 |
就役 | 1943年7月24日 |
退役 | 1955年1月21日 |
その後 | スペインの空母デダロとなる。 |
性能諸元 | |
排水量 | 11,000トン |
全長 | 189.7m |
艦幅 | 21.8m |
全幅 | 33.3 m |
吃水 | 7.9 m |
最大速 | 32 ノット(59 km/h) |
乗員 | 士官、兵員1,569名 |
兵装 | 40mm機銃26基 |
搭載機 | 45 |
カボット(USS Cabot, CV/CVL-28)は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の7番艦。艦名は15世紀の航海家ジョン・カボットに因む。その名を持つ艦としては2隻目にあたる。
艦歴[編集]
カボットはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で軽巡洋艦ウィルミントン(USS Wilmington, CL-79)として起工する。1942年6月2日にCV-28に艦種変更され、6月23日にカボットへ艦名変更する。カボットの艦名はもともと、同時期にベスレヘム・スチールで建造されていたエセックス級航空母艦の一艦に付けられていたが、その空母カボットは珊瑚海海戦で沈没したレキシントン(CV-2)(USS Lexington, CV-2)を記念して、レキシントン(CV-16)(USS Lexington, CV-16)と改名された。1943年4月4日にA・C・リード夫人によって命名、進水し、1943年7月15日に CVL-28 へ再変更、1943年7月24日にマルコム・フランシス・シューフェル艦長の指揮下就役した。カボットはロードアイランド州クォンセット・ポイントを1943年11月8日に出港、真珠湾に向かい12月2日に到着する。
1944年 - 1945年[編集]
1944年1月15日、カボットはマジュロ攻撃のため第58任務部隊(マーク・ミッチャー少将)に加わり、後に数々の栄誉を受けることとなる軍歴を開始した。2月4日から3月4日までロイ=ナムル島 、トラック島への艦載機による攻撃でマーシャル諸島攻略の支援を行い、2月17日のトラック島空襲では第58.2任務群(アルフレッド・A・モントゴメリー少将)に属しトラック諸島の日本艦船撃滅の一翼を担った[1]。
カボットは短期の修理で真珠湾へ戻ったが、その後マジュロを出撃し、3月末からパラオ、ヤップ島、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁への攻撃を行う。ホーランディア攻撃の間4月22日から25日まで航空支援を行い、4日後にトラックへの再攻撃および、サタワン環礁とポナペに攻撃を行った。6月6日、マリアナ諸島攻略の前に再びマジュロを出撃し、19日、20日には「マリアナの七面鳥撃ち」(The Marianas Turkey Shoot)と揶揄されたマリアナ沖海戦に参加した。カボットの第31航空団は硫黄島、パガン島、ロタ島、グアム、ヤップおよびウルシーの日本軍基地への攻撃を8月9日まで継続した。
1944年9月のパラオ進攻前の攻撃で、カボットは第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)とともにミンダナオ島、ヴィサヤ諸島およびルソンへの攻撃を行う。10月6日に第29航空団は第31航空団と交代し、カボットはウルシー環礁から沖縄攻撃のため出港。10月10日に沖縄を空襲し、10月12日、13日には台湾を攻撃している。カボットは10月13日と14日に台湾沖で雷撃を受け大破した重巡洋艦キャンベラ(USS Canberra, CA-70)および軽巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL-81)の「第一不能部隊」(Cripple Division 1)に加わった。第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将は、傍受した日本側のラジオから大勝利を連呼する放送が流れているのを聞き、日本側が「アメリカ艦隊全滅」と信じきっていると感じた。そこで、日本に対して罠を仕掛けることとしたのである。結果的には日本側はハルゼー大将の罠にはかからなかったが、いずれにせよ落ちゆくキャンベラとヒューストンの安全を確保した。その後ヴィサヤ諸島への攻撃を継続。10月23日から26日のレイテ沖海戦では第38.2任務群(ジェラルド・F・ボーガン少将)に属して参加した[2]。
カボットは引き続き陸上への攻撃を誘導し、絶望的な特攻攻撃をかわしながらルソンへの偵察・支援任務を継続した。しかし11月25日、カボットは特攻機の命中を受ける。この日、マバラカットを11時30分に出撃した神風特攻隊吉野隊をはじめ、フィリピン各地から4隊の特攻隊が出撃した[3]。4隊は第38.2任務群に殺到し、一機の特攻機がカボットに激突[4]、左舷の20ミリ機銃台座を破壊し、40ミリ機関砲が使用不能となった。多数の破片が四散し、カボットの乗組員62名が死傷した。しかしながら乗組員によるダメージコントロールは速やかに行われた。上空で警戒していたカボットの艦載機は、ハンコック(USS Hancock, CV-19)に突入する4機の特攻機のうち2機を撃墜した[5]。カボットは任務に支障がないことを確認し、応急修理の後作戦行動を継続したが、11月28日に本格的な修理のためウルシーに帰投する。
カボットは12月11日に任務に復帰し、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)とともにルソン、台湾、インドシナ、香港および南西諸島への攻撃を行う。1945年2月10日から3月1日までカボットの艦載機は硫黄島上陸に対する抵抗を抑えるため、本州及び小笠原諸島に対する攻撃を行っている。3月中行われた沖縄及び九州に対する継続的な攻撃は、後の日本本土侵攻作戦の準備のためのものであった。これらの集中、継続的な作戦の後、カボットはオーバーホールのため6月にサンフランシスコに向かった。オーバーホールを終えて真珠湾での再訓練の後、カボットは第32航空団を乗艦させエニウェトク環礁に向かう途中、8月1日に戦艦ペンシルベニア(USS Pennsylvania, BB-38)とともにウェーク島への攻撃を行った[6]。その後エニウェトクで終戦まで訓練任務に従事した。
戦後[編集]
カボットは8月21日に第38.3任務群に加わり、黄海水域で9月から10月に上陸部隊の支援を行った。グアムで復員兵を乗艦させると、11月9日にサンディエゴに到着、その後東海岸へ向かう。カボットは1947年2月11日に予備役となりフィラデルフィアで保管された。
カボットは1948年10月27日に再就役し、海軍航空予備役兵訓練プログラムに割り当てられた。最初ペンサコーラから、続いてクォンセット・ポイントから展開し、カリブ海へ巡航する。1952年1月9日から3月26日までヨーロッパ水域に展開。1955年1月21日に再び予備役となり、フィラデルフィア海軍基地の予備役艦隊入りした。1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-3)として艦種変更された。不活性化が行われて12年が経過した1967年、カボットはスペインに貸与され、空母デダロとして就役した。1972年に貸与から売却に変更される。
その後1989年8月にスペイン海軍から除籍されると、カボットはアメリカの民間団体に博物館への転換のため無償譲渡された。艦は1990年代の大半をニューオーリンズのドックに係留されたまま過ごした。艦を博物館にしようとした民間団体は負債を支払うことができず、艦は1999年9月10日に競売でUSマーシャル・サービスからサベ・マリーン・サルヴェージ社に売却され、船体の廃棄は2002年に完了した。カボットの艦橋と小さな鉄片及びガラス片は、2007年にその姿を消すまで第二次世界大戦時に数百隻以上が建造された軽空母、護衛空母の僅かに残った遺物であった。
カボットは第二次世界大戦での戦功により殊勲部隊章および9つの従軍星章を受章した。
脚注・出典[編集]
参考文献[編集]
- 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1970年
- デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
外部リンク[編集]
- USS Cabot (CVL-28) at history.navy.mil
- Air Group 31 (CAG-31) was the 1st carrier air group stationed aboard USS Cabot
- USS Cabot at Nine Sisters Light Carrier Historical Documentary Project
- USS Cabot being scrapped
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。
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