カミッロ・カヴール

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カヴール伯爵カミッロ・ベンソ
Camillo Benso, Conte di Cavour
Francesco Hayez 041.jpg
生年月日 (1810-08-10) 1810年8月10日
出生地 Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg サルデーニャ王国トリノ
没年月日 (1861-06-06) 1861年6月6日(50歳没)
死没地 イタリア王国の旗 イタリア王国トリノ
所属政党 イタリア自由党
歴史的右翼
サイン Camillo Benso, conte di Cavour Signature.svg

内閣 カヴール内閣
在任期間 1861年3月23日 - 1861年6月6日
国王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

Flag of Italy (1861–1946).svg 初代外相
内閣 カヴール内閣
在任期間 1861年3月23日 - 1861年6月7日

Flag of Italy (1861–1946).svg 初代海相
内閣 カヴール内閣
在任期間 1861年3月23日 - 1861年6月7日

Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg 第11代首相
内閣 第2次カヴール内閣
在任期間 1860年1月21日 - 1861年3月23日
国王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg 第9代首相
内閣 第1次カヴール内閣
在任期間 1852年11月4日 - 1859年7月19日
国王 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
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カヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソイタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、「カミッロ・カヴール」や「コンテ・ディ・カヴール(カヴール伯爵)」の通称で知られる、19世紀イタリア政治家。カブールは爵位名なので、家名()はベンソである。サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。カヴールの依頼でナポレオン3世の愛妾になったカスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニは従妹。

イタリア統一運動において、ガリバルディマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される。

政治家以前[編集]

1810年、カヴール侯爵ミケーレ・ベンソイタリア語版の第2子として当時フランス帝国領であったトリノにて生まれた。終生フランス語を母語とし、イタリア語はやや苦手であった。「カヴール」は爵位名であり、姓(家名)は「ベンソ」である[1]。次子であったために家を継がず10代で軍隊に入り、除隊後は家の領地内の農業経営、鉄道会社設立・経営などを行った。親族の居住するフランス、当時の先進国であったイギリスなど、諸外国を巡って見分を広めた。改革を求める自らの姿勢と当時の政治状況の隔たりは大きく、政治にはかかわらなかった。

1847年、諸外国での自由主義的改革・革命、さらにイタリア各領邦内での改革への要望の高まりを受け、穏健ながら自由主義的な新聞『リソルジメント』を創刊し編集に関わり、憲法制定と議会選挙実施を求めて運動した。当時のサルディーニャ王カルロ・アルベルトの反動的な姿勢とは対立した。

準備の10年間[編集]

1848年、対オーストリアの第一次イタリア独立戦争に敗北する中、憲法制定を受けての初の選挙に立候補して議員に選出され、37歳にして政治家としてのキャリアを始めた。経済の知識と弁舌を生かして勢力と信望を増し、1850年には保守的なヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の反対を押し切ってダゼーリョ内閣の下で農商務相に就任した。翌年には海軍省と財務相を兼ね、戦争により危機的状態であった政府の財政と旧態依然とした海軍の改革を行った。

1852年、内閣改造により一度は閣外に出るが議会での多数の支持を集め、辞職したダゼーリョの推薦により王の反対を押して首相になった。イタリア統一運動では、外交により祖国であるイタリアの統一戦争を進めた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は宗教面では保守的であり、たびたびカヴールと対立したが、一方で当時オーストリアに支配されていたロンバルド=ヴェネト王国の獲得の野心も強く、カヴールの手腕に頼らざるを得なかった。

カヴールは徹底した現実主義者で、無秩序と反動を招く革命は非生産的であると主張した。中道の自由主義派を率い、左翼および右翼とは対立と協力を繰り返して操縦した。そのため、革命主義者で、妥協を許さない共和派であるマッツィーニとは馬が合わなかったといわれる。彼は下院に強力な政治基盤を築くことに成功し、1861年に死ぬまで、1859年に下野した半年間を除き、首相の座にあった。

カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進めた。通商協定がイギリスフランスオーストリア、その他各国との間で結ばれ、全般的に自由貿易関税が導入された。また、都市間の物流・交通を円滑化するために、全国の鉄道網を整備した。さらに国家財政の基礎を固めるために、強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化した(1855年)。この過程で、カトリック信者のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は司教たちと共謀し、カヴールの提出した修道院廃止法案の可決を妨害した。これに憤激したカヴールは首相を辞したが、国王は彼に代わる首相を見出すことができなかった[1]。そのため、カヴールは再び首相に指名され、法案も1855年5月29日に可決された[1]。この「カラビアーナ事件」を契機に、カヴールは議会に続いて国王までもある程度コントロールできるようになった。

その一方で、サルデーニャ単独では、オーストリアを破ってイタリア統一を達成することは不可能であり、イギリス、フランスなど大国の援助が必要であるとカヴールは考えた。クリミア戦争(1853年 - 1856年)ではフランスとオーストリアが接近しないよう努め、イギリス、フランスと同盟を結んで1855年に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送ることで[1]、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。結果として、1856年パリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たした[1]。反動的なイタリア諸邦の中でカヴール率いるサルディニア王国だけが立憲主義とイタリア統一への意思を持続し、イタリア統一主義者たちの希望を集めた。

1858年7月、カヴールは、若年の頃イタリア独立戦争に加わり関心を保持していたナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結び、国境付近でイタリア人とフランス人の割合の拮抗するサヴォワニースの割譲を代償にフランス軍の対オーストリア参戦を約束させた[1]

イタリア統一[編集]

1859年、密約が漏れ緊張の高まる中でオーストリアは最後通牒を発し、第二次イタリア独立戦争が始まった。国王の再婚問題、戦争指揮問題などによりカヴールとの確執は高まり、首相は辞任を迫られた。だが内外からの信望の高さにより、国王は再任を認めざるを得なかった。フランスはイタリアと共同でオーストリアと戦い、北イタリアのうちロンバルディアサルディーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトはオーストリアにとどまった。フランス軍の犠牲とイギリスの干渉により、ナポレオン3世は単独でオーストリアと講和した。イタリア中部のうち、ハプスブルグ家支配のトスカーナブルボン家支配のエミリアは投票によって平和裏にサルディーニャ王国の一部となり、これを黙認したフランスにカヴールはサヴォアニースを割譲した。ニース出身のガリバルディはカヴールに激怒し、共和派も加えた義勇軍を率いてブルボン家の支配する南部の両シチリア王国を倒し、カヴールもこれを黙認しながら共和派の勢いの制御に努めた。義勇軍にも教皇とフランス軍の駐留するローマ進撃はかなわず、ミラノでガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に両シチリア王国を献上し、ローマ、ヴェネトを除くイタリア統一がほぼ完成した。この間カヴールは首相のほか、外相、内相、陸軍相、海軍相を兼ね、オーストリアとの戦争のみならず、フランス、イギリス、プロシア、ロシアによる干渉、国内では国王、マッツィーニ率いる共和派、ガリバルディ、ローマ教皇などとの政争を勝ち抜いた。1861年、統一議会が開かれ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は統一イタリア王に推戴され、法律、度量衡、通貨などが統一された。

[編集]

ほぼ10年間の首相在任期間の激務の中で、たびたび病に倒れた。1861年の短期間に病気療養した直後に死亡した。死因は慢性のマラリアと推定される。遺体はサンテナ城に埋葬された[1]。その死後も、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世マッツィーニガルバルディからの憎悪は続いた。内に共和派の突き上げ、王との確執、外に大国(オーストリア・フランス・イギリス・ロシア)の干渉という難題を抱えながら、卓越した外交術を駆使してイタリア統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」の呼び名が付いた。愛人はいたものの生涯結婚はせず、兄の家族と同居した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Wikisource-logo.svg Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Cavour, Camillo Benso" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.

参考文献[編集]

  • ロザリオ・ロメーオ『カヴールとその時代』、白水社、1992年

関連項目[編集]

カヴールの名を冠した軍艦として、以下の2隻が存在する。

公職
新設 イタリア王国の旗 イタリア王国首相(閣僚評議会議長)
初代:1861年
次代:
ベッティーノ・リカーソリ
新設 イタリア王国の旗 イタリア王国外相
初代:1861年
次代:
ベッティーノ・リカーソリ
先代:
Massimo d'Azeglio
Alfonso Ferrero La Marmora
Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg サルデーニャ王国首相
第9代:1852年 - 1859年
第11代:1860年 - 1861年
次代:
Alfonso Ferrero La Marmora
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