カルバラーの戦い
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カルバラーの戦い | |
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![]() カルバラーの戦い | |
戦争:ウマイヤ朝軍のシーア派討伐 | |
年月日:西暦680年10月10日 | |
場所:カルバラー | |
結果:ウマイヤ朝軍の完全勝利、フサイン軍の全滅とアリー家の勢力の崩壊 | |
交戦勢力 | |
ウマイヤ朝軍 | フサイン軍 |
指導者・指揮官 | |
ウマル・イブン・サアード | フサイン・イブン・アリー |
戦力 | |
3000(諸説あり) | 72(諸説あり) |
損害 | |
不明 | 72 |
カルバラーの戦い(Battle of Karbala)はウマイヤ朝カリフヤズィードの派遣した軍勢とフサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いである。ウマイヤ朝軍が完全勝利を収めた。後述の通り、戦争というより一方的な虐殺であることから、「フサインの殉教」または「カルバラーの悲劇」とも呼ばれる。
概要[編集]
クーファのシーア派がフサインをカリフに押し立てて反乱を起すという動きを察知したヤズィードは先手を打って3000の軍隊を派遣しフサインとその護衛を攻撃、戦いはウマイヤ朝軍の圧倒的勝利に終りフサインはまともな抵抗すら出来ないまま息子もろとも殺されることになる。フサイン一行は本人を含めて72人しか兵士がおらず、実質的には虐殺に他ならなかったともいえる。
ヤズィードはこの戦いに完勝した後フサインの子や妻、支持者を投獄・奴隷化するなどし、アリー家の勢力を一時的に粉砕することに成功した。
ウマイヤ朝はこの勝利によって一旦は自身の支配権を確立することに成功した。しかしこのようなウマイヤ朝の姿勢は他の有力者達にも反発を抱かせ、アブドゥッラー・イブン・アッズバイルのカリフ即位などによる内戦状態の引き金を引くことになった。
またヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている。