ガマール・アブドゥン=ナーセル

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ガマール・アブドゥル=ナーセル
جمال عبد الناصر
ガマール・アブドゥン=ナーセル

エジプト
第2代大統領
任期: 1954年11月14日1970年9月28日
副大統領: アンワル・アッ=サーダート

エジプトの旗 エジプト
首相
任期: 1954年4月18日1962年9月29日

アラブ連合共和国の旗 アラブ連合共和国首相
第5代首相
任期: 1967年6月19日1970年9月28日

非同盟諸国首脳会議
第2代事務総長
任期: 1964年10月10日1970年9月10日

任期: 1964年7月17日1965年10月21日

出生: 1918年1月15日
Egypt flag 1882.svg アレクサンドリア
死去: 1970年9月28日
Flag of United Arab Republic.svg カイロ
政党: アラブ社会主義連合
配偶者: タヒア・カーズィム

ガマール・アブドゥル=ナーセルجمال عبد الناصر Jamāl ‘Abd al-Nāsir; Gamal Abdel Nasser, 1918年1月15日 - 1970年9月28日)は、エジプト軍人政治家で、アラブ連合共和国第2代大統領ソ連邦英雄

ナセル大統領とする表記が一般的であるが、ナセル(ナーセル)は父の名アブドゥルナーセルの後ろ半分で、姓ではない。(参考:イスラム圏の名前

目次

経歴

生い立ち

幼少時のナーセル

ナーセルは、1918年にエジプト北部地中海沿岸の都市アレクサンドリアで郵便局長の息子として生まれた。オスマン帝国から独立するも、かわってイギリス保護国となっていたエジプトの解放を目指す民族運動に若い頃から関心を寄せていたといわれる。

軍歴

1939年、陸軍士官学校卒業後、ナーセルは英・エジプト共同領アングロ=エジプト・スーダンでの勤務を申し出、同地に赴任。第二次世界大戦が勃発すると、エジプトを解放させるため、ナーセルはアンワル・サーダートと共に、イギリスの敵国であるイタリアの数人の諜報員と接触して、イタリア軍がエジプトに侵攻した時と同時に、反英軍事クーデターを起こすことを計画した。

結局、計画は頓挫し、変って反英愛国の将校で結成する自由将校団の結成に加わり、その指導者のひとりとなる。1948年イスラエルが建国され第一次中東戦争が始まると、少佐としてアラブ連合軍に参加。アラブ連合軍が敗北すると帰国した。

1952年7月23日、自由将校団がクーデターを起こし、1953年に王制を廃止する(エジプト革命)と、第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを首班に迎えてナギーブを委員長とする革命指導評議会を結成し、権力を握った。

大統領就任へ

しかし、まもなく大統領に就任したナギーブと、将校団のリーダーであったナーセルとの対立が表面化し、1954年にナギーブを支持するムスリム同胞団によるナーセル暗殺未遂を経てナギーブ大統領を解任、ナギーブ派を追放して自ら大統領に就任した。

ナーセル(右側)
ナーセルとフルシチョフ

この間、1952年の農地改革を始めとして、王制下での政治・経済の旧体制の改革を推し進めた。外交的には汎アラブ主義にのっとった政策を取り、イラクなどの中東諸国が結んだバグダード条約機構に反対し、アラブ諸国間の団結を唱えて主導権を握った。また、非同盟主義を唱えて第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席、第三世界における指導者の一人となった。

1956年1月に、パレスチナガザ地区の難民の対処について、イスラエルとの間接的な極秘会談を行う。仲介したのはアメリカアイゼンハワー大統領により任命された元海軍長官で後の財務長官ロバート・B・アンダーソン、イスラエル側でこの話し合いの内容を知っていたのはダヴィド・ベン=グリオン首相やモシェ・シャレットらごく一部のみだった。ナーセルはこの会談でイスラエルとの和解に積極的だったが、エジプトに難民を住まわせる提案に対しては拒否したという[1]

スエズ戦争後

7月26日にはスエズ運河の国有化を宣言し、スエズ戦争(第二次中東戦争)でその承認を勝ち取る。

しかし、アラブの大同団結を目指して1958年シリアと結成したアラブ連合共和国は3年後のシリアの脱退で崩壊し、ナーセルの威信に揺らぎが見え始める。特に1967年、エジプトはイスラエルとの第三次中東戦争(六日戦争)が惨敗に終わり、国土の東部を占めるシナイ半島イスラエルに占領される事態となり、ナーセルは責任を取って辞任を宣言するまでに追い込まれた。しかし、国民が辞任を受け入れず、大統領に留まることを求めたためにナーセルは失脚を免れた。その後もイスラエルに対して強硬策を続け、承認しない交渉しない和平しないパレスチナ人の権利回復の原則を求めつづける。

カイロのガマール・アブドゥル・ナーセル・モスク

一方で、「反イスラエル」の立場から逃亡中のナチス戦犯を多数匿ったとされる。その大半がエジプト軍・治安機関の養成や反ユダヤ主義プロパガンダの作成に当たった。例えば、エジプト情報省で反イスラエル宣伝を担当した元ナチ党の宣伝活動家ヨハン・フォン・レールス(Johann von Leers 1965年に死去)、エジプト国家治安局で働いたゲシュタポ幹部のレオポルド・グライム(Leopold Gleim)がいる。1960年代、イスラエル政府はエジプトが旧ドイツ軍の科学技術を手に入れて、ロケットを開発することを恐れ、元ナチスの科学者のふりをしたスパイを送りこむほどだった。 しかし、ナーセルがナチスの不倶戴天の敵、ソヴィエト連邦と深い関係にあったため、エジプト政府による元ナチに対する支援は下火になっていった。

ソ連、中華人民共和国チェコスロヴァキアといった東側諸国の協力を得てアスワン・ハイ・ダムを建設させたが、国内ではスエズ運河の収入が無くなり、インフレが進行。ナーセル体制は崩壊に向かっていた。1970年、ヨルダン内戦の仲裁や北イエメン内戦への軍事介入を行うなど多忙をきわめる中で、ナーセルは心臓発作で急死した。まだ52歳の若さであった。

後任として士官学校以来のナーセルの盟友で副大統領のサーダートが就任し、ナーセル体制にかわる経済の自由化を進めることになる。なお著書『革命の哲学』が訳された(角川文庫ほか、1971年)。

脚注

  1. ^ マーティン・ギルバート著『イスラエル全史』(下)千本健一郎訳(朝日新聞出版、2009年1月30日)ISBN 978-4-02-250495-1
ウィキメディア・コモンズ

関連項目

官職
先代:
ムハンマド・ナギーブ
エジプトの旗 エジプト大統領
第2代:1954 - 1970
次代:
アンワル・アッ=サーダート
先代:
ムハンマド・ナギーブ
エジプトの旗 エジプト首相
1958年よりアラブ連合共和国
1954 - 1962
次代:
Ali Sabri(en)
先代:
Muhammad Sedki Sulayman
アラブ連合共和国の旗 アラブ連合共和国首相
第5代:1967 - 1970
次代:
Mahmoud Fawzi(en)
外交職
先代:
ハイレ・セラシエ1世
アフリカ統一機構議長
第2代:1964 - 1965
次代:
クワメ・エンクルマ
先代:
ヨシップ・ブロズ・チトー
非同盟諸国首脳会議事務総長
第2代:1964 - 1970
次代:
ケネス・カウンダ


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