キッド (DD-661)
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艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1942年10月16日 |
進水 | 1943年2月28日 |
就役 | 1943年4月3日 |
退役 | 1964年6月19日 |
その後 | ルイジアナ州バトンルージュにて博物館として保存 |
除籍 | 1974年12月1日 |
性能諸元 | |
排水量 | 2,050 トン |
全長 | 376 ft 4 in (114.7 m) |
全幅 | 39 ft 6 in (12.1 m) |
吃水 | 13 ft 8 in (4.2 m) |
機関 | 2軸, 60,000 shp |
最大速 | 38ノット (70 km/h) |
乗員 | 士官、兵員329名 |
兵装 | 5インチ砲5門 20mm砲7門 40mm砲10門 爆雷軌条2基 爆雷投射機6基 21インチ魚雷発射管10門 |
キッド (USS Kidd, DD-661) は、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級駆逐艦。艦名は太平洋戦争での真珠湾攻撃において、戦艦アリゾナに乗艦し戦死したアイザック・キッド少将に因む。
同名の艦としてはキッド級ミサイル駆逐艦キッド (USS Kidd, DDG-993)、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦キッド (USS Kidd, DDG-100)がある。
艦歴[編集]
キッドは1942年10月16日にニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で起工、1943年2月28日にアイザック・キッド夫人によって進水した。1943年4月23日、アラン・ロビー艦長の指揮下就役する。乗組員は総じて若く、年齢詐称した14歳の少年までいた。
第二次世界大戦[編集]
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キッドは習熟任務をかねた4ヶ月間の大西洋護衛任務を終え、8月に戦艦アラバマ、サウスダコタと共に太平洋に移動した。10月5日のウェーク島攻撃に参加し、不時着したパイロットの救出にあたった[1]。11月11日、本艦は空母エセックス、バンカーヒル、インディペンデンスと共にラバウル攻撃に参加した。僚艦と共に20機あまりの日本軍機の襲撃を撃退し、九九式艦爆1機、九七式艦攻2機を撃墜[2]。ロビー艦長はシルバースター勲章を受章した。キッドは休む間もなくタラワ環礁攻略戦に参加し、軽空母インディペンデンスの護衛任務についた。11月21日午後6時、一式陸攻7機を発見し、対空砲火で2機を撃墜するも、インディペンデンスへの雷撃を許した。インディペンデンスは大破して戦場を離脱。ロビー艦長は、「ワンショットライター」の渾名をもつ一式陸攻が、その名を裏切る頑丈さを発揮したことに驚いた[3]。
1944年、キッドは第50機動部隊に所属し、マーシャル群島攻撃に参加。6月にはサイパン攻撃に参加し、日本軍機1機を撃墜した。一部の乗組員が日本軍機パイロットの遺体をもてあそび、骨を標本にしようとしたため、艦長は断固としてこの野蛮な行為をやめさせた。日本人パイロットの遺体は、アメリカ海軍の儀式に従って水葬にふされた[4]。7月、グアム島攻撃に参加し、8月27日に真珠湾に帰還。キッドは35名の友軍不時着パイロットを救出した。
8月、アラン・ロビー艦長が転勤し、かわってモアー中佐が赴任した。モアーは船酔いするか酒に酔うかのどちらかといった人物であり、艦内の士気と規律は短時間のうちに低下した[5]。12月にオーバーホールのため戦列を離れ、アメリカ本土に戻った。レーダーの換装と機銃の大口径化を行う改装は1945年2月に終わった。そして沖縄戦に参加するため、ウルシー環礁へ向かう。キッドの乗組員は日本の敗戦を確信し、楽観的気運の中で特攻隊が待つ沖縄へ向かった[6]。
3月19日から22日にかけて、曳航される空母フランクリンを護衛し、日本軍機の追撃を阻止した[7]。4月11日、キッドはピケット艦として機動部隊の前方に出た。14時10分、零戦が左舷に命中。死者38名、負傷者50名あまりを出した[8]。損傷したキッドはウルシー泊地に退避して応急修理をしたのち、5月25日にアメリカ西海岸のサンフランシスコ海軍造船所に到着した。修理を終えたキッドは1945年8月1日に真珠湾に戻ったが、終戦に伴いサンディエゴに移動して不活性化された。1946年12月10日に除籍。
朝鮮戦争[編集]
朝鮮戦争の勃発に伴い、1951年3月28日に艦隊に再編入される。6月18日にアジアに向けて出港し、7月15日に横須賀に到着した。キッドはタスクフォース77に加わり、9月21日まで朝鮮半島の東側で哨戒任務に就いた。また 10月21日から1952年1月22日までは沿岸の攻撃目標に対して艦砲射撃も行った。その後第152駆逐艦分隊としてサンディエゴに移動し、1952年2月6日に到着した。
1964年6月19日退役しルイジアナ州バトンルージュにおいて博物館として保存されている。
キッドは第二次世界大戦の戦功で4個の、朝鮮戦争の戦功で4個の従軍星章を受章した。
脚注[編集]
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』59頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』61頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』64頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』65頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』66頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』68頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』196頁
- ^ 平義克己『我敵艦ニ突入ス』213頁
参考文献[編集]
- 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』扶桑社、2002
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- history.navy.mil: USS Kidd
- navsource.org: USS Kidd
- hazegray.org: USS Kidd
- USS Kidd & Louisiana Veterans Memorial
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