キンメリア

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キンメリア(Cimmeria)は、紀元前9世紀頃から、南ウクライナに勢力をふるった遊牧騎馬民族。

目次

アッシリア、スキタイ人との闘争

キンメリア人はオリエントへ北方の草原から侵入した最初の民族であった。すでに前8世紀末、メディア人・ペルシア人の後を追って現在のアルメニア国境へ攻め寄せている。紀元前722年から紀元前715年にかけて、サルゴン2世との確執で疲弊していたウラルトゥ(Urartu)王国に侵入し、そこの住民と雑婚するに至ったようである。

さらにキンメリア人はインド・ヨーロッパ語族であるメディア人・マンネア人・サケルディア人と連合して、エサルハドンアッシュールバニパルが王であったアッシリアをも脅かした。アッシリアではキンメリア人をギミルライ、ガミル人と表した。この戦争はスキタイ人の西方からの重圧によって引き起こされたと推測できる。スキタイ人とアッシリア人の連合がカルディアと結んだキンメリア人を敗北させる。

前670年から650年頃にはキンメリア人は小アジアへ移動、フリュギアリディアを攻撃し、紀元前652年にアッシリアに援助を受けていたリディア王国を破壊、アナトリアの中部を一時支配した。アッシリアの再攻撃と前637年頃のスキタイ人の進出は、キンメリア人の勢力を打破してカッパドキアの一部へと追いやり、ついにそこに永く留まらせることになった。カッパドキアがアルメニア人によって常にギミルと呼ばれているのはそのためである。キンメリア人の一部はさらに南下し、イラン南部に達した。

ギリシアの記録

前7世紀に黒海北岸に居住したギリシア人により、ユーキシーネ(黒海)の岸の霧と暗黒との神秘な国に住むキンメリア人の伝説が形成され、それが『オデュッセイア』に誌されるまでになった。ギリシアの神話は、黒海を常に死者の霊魂の世界に関係するものとしている。アキレスの白い島、ヒペルボレアの国とクリミアは、現実の国であるとともに英雄の魂の住む国であった。

ヘロドトスストラボンによると、大キンメリア王国は黒海北岸・ケルチ海峡の両岸にその中心地(キムメリコンまたはキムメリイという都邑)を保っていた。ストラボンはキンメリア人が、トラキアとダーダネルスを通過して小アジアに侵入したことを述べている。

起源と終焉

キンメリア人はその居住地である南ウクライナを追われても、相当長く黒海沿岸を占拠していた。ただ彼らがどの方面から現れ、どの民族系統に属するのかについて確証がない。イラン人系統説とその他のインド・ヨーロッパ語族(特にトラキア人)説の2つが有力である。

彼らの終焉についても、考古学上の事実によってヘロドトスなどの記述を補うほかない。キンメリア人の南方と西方への発展はスキタイ人の進出よりはるか以前より始まっていて、その遠征により手薄になった黒海沿岸の中心地にスキタイ人が侵入し、キンメリアのボスポロス部分は分断され、徐々に弱められて滅亡に至った、という仮説が歴史家ロストフツェフによって提出されている。

後世における「キンメリア」

おれの健康はおびやかされた。恐怖がおとずれた。何日もつづく眠りに落ちた。眠りから覚めても、最も悲しい夢を見つづけた。おれには死の時が熟していた。危険な道を通って、おれの衰弱がこの世と、影と竜巻の祖国、キンメリアの境へと、おれを連れていった。

「錯乱II」より

  • 小説『英雄コナン』シリーズ、その小説を原作にした映画『コナン・ザ・グレート
    • 主人公であるコナンは、キンメリア族であるという設定(コナンの舞台である"ハイボリア時代"におけるキンメリアは、遥か北方の山岳地帯で蛮族が棲む未開の地という設定)。また作者のロバート・E・ハワードは、英雄コナン執筆以前に詩『キンメリア』を作詩している。
  • 火星の地形の中に、キンメリア人の海(Mare Cimmerium)という地形がある。

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