ケフテイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ケフテイモンゴル語: Kehetei,中国語: 怯台,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたウルウト部出身の千人隊長。『元史』などの漢文史料では怯台(qiètái)、『集史』などのペルシア語史料ではکهتی نپیان(Kehtei Nūyān)と記される。

概要[編集]

モンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたウルウト部の族長、ジュルチェデイの息子として産まれた。時期は不明であるがチンギス・カンの存命中に父の地位を継承し千人隊長に任ぜられた。なお、『集史』「ウルウト部族志」では何故かジュルチェデイとケフテイを混同しており、ジュルチェデイの活躍の多くがケフテイのものとされている[1][2]

1211年、金朝遠征が始まると、ケフテイはウルウト4千人隊を率いてチンギス・カン直属の中軍左翼に従軍した。金朝領の北半を征服したチンギス・カンは金朝を完全に征服することに拘らず、今度は西方ホラズム・シャー朝への遠征を計画した。チンギス・カンは西方へ出陣するに先立ち、1217年(丁丑)にジャライル部出身で左翼万人隊長のムカリに中軍左翼の武将を一部委ね、金朝方面の計略を一任した。この時ムカリの配下に入った武将にはマングト千人隊を率いるモンケ・カルジャ、ウルウト4千人隊を率いるケフテイ、コンギラト3千人隊を率いるアルチ・ノヤンイキレス2千人隊を率いるブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがおり[3][4][5]、この内ジャライル(ムカリ家)・ウルウト(ジュルチェデイ家)・マングト(クイルダル家)・コンギラト(デイ・セチェン家)・イキレス(ブトゥ家)の5部族集団は特に後世「左手の五投下」として広く知られるようになる。

第2代皇帝オゴデイの即位後もケフテイは引き続き金朝との戦いに活躍し、金朝の征服後には徳州の2万戸を「投下領」として与えられた(丙申年分撥)。この投下領は代々ケフテイの子孫に受け継がれることとなる。ケフテイはオゴデイの死後もグユクモンケクビライの4代に仕え、その忠勤を賞されて徳清郡王に封ぜられた。ケフテイ以後、ウルウト部族長は代々「郡王」と称するようになる。ケフテイの死後は息子のテムジン・バートル(端真抜都児)が後を継いだ[6]

ウルウト氏ジュルチェデイ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 村上1972,379-380頁
  2. ^ 志茂2013,917-919頁
  3. ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」
  4. ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「丁丑八月、詔封太師・国王・都行省承制行事、賜誓券・黄金印曰『子孫伝国、世世不絶』。分弘吉剌・亦乞列思・兀魯兀・忙兀等十軍、及吾也而契丹・蕃・漢等軍、並属麾下」
  5. ^ 『聖武親征録』「時金人塹山築寨、悉力為備。上留怯台・薄察頓兵拒守、遂将別衆西行、由紫荊口出。金主聞之、遣大将奥屯拒隘、勿使及平地。比其至、我衆度関矣、乃命哲別率衆攻居庸南口、出其不備、破之。進兵至北口、与怯台・薄察軍合。既而又遣諸部精兵五千騎令怯台・哈台二将囲守中都」
  6. ^ 『元史』巻120列伝7朮赤台伝,「子怯台、材武過人、自太宗及世祖、歴事四朝、以労封徳清郡王、賜金印。丙申、賜徳州戸二万為食邑。至元十八年、増食邑二万一千戸、肇慶路・連州・徳州洎属邑倶隸焉。怯台薨、子端真抜都児襲爵為郡王。太宗時与亦剌哈台戦、勝、帝即以亦剌哈台妻賜之」

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年