ケルソ

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ケルソ
欧字表記 Kelso
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1957年4月4日[1][2]
死没 1983年10月16日(26歳没)[1]
Your Host
Maid of Flight
母の父 Count Fleet
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産 Allaire du Pont
(Mrs. Richard du Pont)
馬主 Bohemia Stable
調教師 Dr. John Lee
→Carl Hanford
競走成績
生涯成績 63戦39勝[3][2]
獲得賞金 1,977,896ドル[3][2]
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ケルソKelso1957年4月4日 - 1983年10月16日)は、アメリカ合衆国で生産・調教されたサラブレッド競走馬。2歳から9歳まで競走生活を送り、そのうち3歳から7歳までのシーズンで5年連続年度代表馬受賞の記録を打ち立てた。4歳時にニューヨークハンデキャップ三冠を達成、また5年連続してジョッキークラブゴールドカップを制覇、1964年当時の歴代賞金王ともなった。1967年アメリカ競馬殿堂入り。ファンからは「キング・ケリー(King Kelly)」という愛称でも呼ばれていた。

経歴[編集]

※以降、特記がない限り馬場はダートコース。

出生[編集]

リチャード・チチェスター・デュポン英語版の夫人で、メリーランド州のウッドストック牧場を所有するアレール・デュポン英語版の生産したサラブレッドの牡馬である。1956年、デュポンは繁殖牝馬メイドオブフライトに種牡馬ユアホストを種付けし、その翌年の1957年4月4日ケンタッキー州・パリ近郊のクレイボーンファーム[注 1]で牡馬を出産した[c 1]。この牡馬にはデュポンの友人であった、ケルソ・エブレットにちなんでケルソと名付けられた[c 2][c 3][4][5]

誕生後、ケルソにはデュポンの持つメリーランド州ウッドストック牧場で育成が施された。ケルソの馬体は小さく、また痩せこけて貧相で、均整もとれていない、性格は臆病、皮膚にも艶がないなど、外見も内面も褒めるところがひとつもなかった[c 2]。ウッドストック牧場のスタッフは、デビュー前のケルソについて「1957年に生まれた馬の中で最も期待できない」と口を揃えたとされる[c 2]。これに対し、デュポンの知り合いの獣医師が成長を促すために去勢することを提案し、デュポン夫人はその案を受け入れた[c 2][5][注 2]

こうしてケルソはデビュー時から騸馬となり、体高は16ハンド1インチ(約165.1センチメートル)にまで育ち、それと胸元だけは普通のサラブレッド並みになった[c 4]。しかし、後躯の幅がなく、棒のような首をしており、全体的に固い感じの、まるで木馬のような馬体に育っていた[c 4]。また体重も軽く、競走時に970ポンド(約440キログラム)を超えたことがなく、また休養時でもそれより60ポンド(約27キログラム)以上増えることがなかった[c 5]デイリー・レーシング・フォームの記者チャールズ・ハットンはケルソを「アラブ馬みたいな顔つきだ」と評している[1]

後にケルソが有名になってくると、馬主のデュポンがあまり反論しない控えめな性格であったことこともあり、しばしば心ないマスコミの標的となった。ある時の大衆紙には、ケルソを「男であって男でない」「風貌は醜悪で性格は粗野」などと悪意の籠った記事を書かれたことがあったが、この時ばかりはデュポンも「子犬のような甘えん坊で、そばに寄るだけで見境もなく人にペロペロ舐めるほど人懐っこい」「たとえごく少数の人たちにせよ、そのような印象を与えたことは全く悲しい」と皮肉交じりに反論している[c 5]

2-3歳時(1959-1960年)[編集]

ケルソはデュポンの持つボヘミアステーブルの名義、およびジョン・リー調教師管理のもとで競走馬となった。デビューを迎えたのは1959年9月4日で、ケルソはアトランティックシティ競馬場の未勝利戦6ハロン(約1206メートル)に出走、鞍上のジョン・ブロック騎手の合図で一気に前に上がっていくと、2着のクラフティマスターという馬に1馬身1/4差をつけて勝利した[3][c 4]。10日後の一般戦6ハロンではドレスアップ[注 3]という馬に1馬身半届かず2着に敗れ、またその9日後の一般戦(7ハロン・約1407メートル)でも勝ち馬ウインディサンズから3/4馬身離れた2着に敗れた[c 4]

1960年、ケルソは元騎手にして調教師のカール・ハンフォードの厩舎に移籍した[c 6]。ハンフォードはしばらくの間ケルソをレースに出走させず、馬体を詳細に調べた。その結果が水準よりも薄いことを発見し、知り合いのマクナボーという名の装蹄師に作らせた特注の蹄鉄をケルソに装着することにした[c 7]

ケルソの3歳シーズン初戦は6月22日と、クラシック戦線もすでに終わった頃であった[c 6]。このモンマス競馬場で行われた一般戦(6ハロン)で、ケルソは道中4番手から一気に先頭に詰め、どんどん差を開いて最終的に2着馬バーントクローヴァーに10馬身差をつけて圧勝した[c 8]。続くアケダクト競馬場での一般戦(8ハロン・約1609メートル)では最初から先頭に立ち、1分34秒20という優秀なタイムで走破、2着馬ダブルデイリーに12馬身の差をつける圧勝であった[c 8][c 9]

アーリントンパーク競馬場で7月23日に行われたアーリントンクラシックステークスは、ケルソにとって初めてのステークス競走[注 4]出走となり、単勝オッズ4.9倍と支持を集めていた。この競走ではずっと後方のまま動けずじまいで、勝ち馬ティーヴィーラークから大きく離された8着に敗れている[c 8]。これは同年における唯一の敗戦となった[c 9]

続くモンマスのチョイスステークス(8.5ハロン・約1709メートル)ではビル・ハータック騎手鞍上のもとで出走し、バックストレッチで先頭に立つとそのまま突き放し、2着馬ケアレスジョンに7馬身差をつけて初のステークス勝ちを手にした[c 8]。翌戦のジェロームハンデキャップ(アケダクト 8ハロン)では鞍上にエディ・アーキャロを迎え、前走で破ったケアレスジョンをアタマ差で再び破って勝利した。以後4歳までアーキャロとのコンビが続いた[c 8]。同じくアケダクトで行われたディスカヴァリーハンデキャップ(9ハロン・1810メートル)でも三度ケアレスジョンを破り、1分48秒40のレコードタイムで優勝した[c 8]

9月28日のローレンスリアライゼーションステークス(ベルモントパーク 13ハロン・約2615メートル)ではバックストレッチで先頭に立つと、ハイペースの中逃げ切り、2着トンピオン[注 5]に4馬身半差をつけて勝利した。このときの勝ちタイム2分40秒80は、マンノウォーが40年前に記録したダート13ハロンのレコードタイムとタイ記録であった[c 8][c 6]

ホーソーン競馬場でのホーソーンゴールドカップでは古馬と初の対決となったが、ここでもケルソは早めに先頭に立つと、そのまま2着ヘロショガラに6馬身差をつけて優勝した[c 8]。この競走では、同時に以前敗れたティーヴィーラークなども破っている[c 6]

同年の大一番は10月29日に迎えたアケダクト競馬場でのジョッキークラブゴールドカップステークス(16ハロン・3218メートル)で、ここには当時最強の古馬ボールドイーグルアルゼンチンからの移籍馬でマンハッタンハンデキャップ勝ち馬のドンポッジオらが出走していた。レースが始まるとボールドイーグル陣営のペースメーカーであるトゥースアンドネイルという馬が先手を取り、ケルソは3番手に控えて道中を進んだ。トラックの2周目に入った頃にトゥースアンドネイルはばてて後退、代わりにドンポッジオが先頭、ケルソが2番手の展開となると、鞍上のアーキャロはインコースから先頭を奪いに行った。先頭に立つとそのまま差を広げ続け、2着のドンポッジオに3馬身半差をつけて優勝した[c 10]。この日は重馬場であったにもかかわらず、勝ちタイムの3分19秒40というダート16ハロンの世界レコードを記録するものであった[c 11]。ボールドイーグルはドンポッジオに10馬身離された3着に終わっている[c 11]

その後、同年最後の競走としてマリブステークスに登録していたが、競走当日に捻挫したため出走を取り消し、翌年5月まで休養することになった[c 10]。同年は9戦8勝で296,690ドルの賞金を稼ぎだし、クラシック未出走の3歳馬としては1936年以来となる年度代表馬に選出された[c 11]

ハンデキャップ三冠(4歳時・1961年)[編集]

当時の古馬戦線はハンデキャップ競走が花形で、その中でもメトロポリタンハンデキャップ(8ハロン)・サバーバンハンデキャップ(10ハロン)・ブルックリンハンデキャップ(10ハロン)の3競走は「ニューヨークハンデキャップ三冠」と並び称される競走であった[c 10]。ケルソも強豪古馬の例に違わず、この路線に踏み入っていった。

ケルソは1961年5月19日のアケダクト競馬場の7ハロン一般戦で年初戦を迎え[4]、これを1馬身半差で勝つと、続いて5月30日のメトロポリタンハンデキャップに登録された。アケダクトに65569人の観客が集まるなか、ケルソは130ポンド(約59キログラム)のハンデキャップを課されていた。しかしケルソはスタートから馬群に包まれ続け、スタートから2ハロンの標識時点でまだ7番手と後方にとどまっていた。後年ハンフォード調教師も「生涯忘れられない、標識の時点で終わったと思っていた」と語る[4]位置取りであったが、ゴールまで残り70ヤードのところからケルソは強引に道をこじ開け、最後の直線で13ポンド軽いオールハンズという馬をクビ差差し切って勝ちをもぎ取った[c 11][6]

6月17日のホイットニーステークスでは、ケルソは再び130ポンドの斤量を課された。レースではケルソは先行集団につけ、バックストレッチでは先頭に立ったが、最終コーナーを回るところで19ポンド軽いアワホープという馬に先頭を奪われ、アタマ差の2着となった。しかし、アワホープは審議で降着となり、結果ケルソが優勝を手にした[c 11]

7月4日のサバーバンハンデキャップでは斤量が133ポンド(約60.3キログラム)が課せられたが、集まった50,071人の観衆からは単勝1.6倍の多大な支持を受けた。観衆の期待通り、ケルソはバックストレッチで先頭に立つとそのまま終始独走、21ポンドも軽い斤量のニッケルボーイという馬を5馬身引き離して優勝している[7]。さらに7月22日のブルックリンハンデキャップでは136ポンド(約61.7キログラム)までハンデが積み上げられたが、118ポンドを積んだディバインコメディという馬を1/4馬身差で破り優勝、1953年トムフール以来、史上3頭目のニューヨークハンデキャップ三冠を達成した[c 11]。この頃からその人気は絶大になり、ファンからは親しみを込めて「ケリー(Kelly)」[c 3][c 11]、また畏敬を込めて「キング・ケリー(King Kelly)」と呼ばれるようになった[c 12][1]

三冠戦後にケルソは1ヶ月の休養を挟み、休養明け初戦としてシカゴのアーリントンパークに遠征、ワシントンパークハンデキャップ(8ハロン)に出走した。132ポンド(約59.9キログラム)を積まれたこの競走では全体を通して後方から中団につけるにとどまり、4着に敗れて連勝を途切れさせた[c 13]。しかし、ニューヨークに戻って初戦のウッドワードステークス(10ハロン)では一転調子を取り戻し、2着のディバインコメディを相手に8馬身差、さらに同年のクラシック二冠馬キャリーバックを3着に従え、トラックレコードタイ記録の2分フラットでの大勝利を収めた[c 13]。続く2度目のジョッキークラブゴールドカップでは終始先頭につけ、2着ヒルズバラに5馬身差をつけての連覇を達成した[c 13]

同年最後の競走は11月11日、ローレル競馬場の国際競走であるワシントンDCインターナショナル(芝12ハロン・約2414メートル)で、ケルソにとって初めての芝コースでの競走であった。レースはスタートからケルソが先頭に立ち、すぐ後ろにティーヴィーラークがついて行く展開で進んでいった。残り2ハロンの標識のところでティーヴィーラーク鞍上のジョニー・ロングデンが仕掛け、ケルソに並び掛けてじりじりと追い抜き、3/4馬身差でティーヴィーラークに軍配が上がった。このとき、2着のケルソと3着馬の間は12馬身も離れていた[c 13]。アーキャロはレース後、「ペースの配分を間違った。ケルソの癖はこれでよくわかったから、明日もう一度同じ顔触れで勝負すれば、きっと勝ってみせる」とコメントしている[c 14]。競走の後、ケルソは足首にウィルス性の感染症に罹っていることがわかり[5]サウスカロライナ州のアイケントレーニングセンターで半年ほど休養していた[c 15]

最後の大一番こそ逃したものの、ケルソはこの年も年度代表馬に選出され、またケルソを破ったティーヴィーラークは最優秀芝馬に選出された[c 13]

奇妙な「三強」(5歳時・1962年)[編集]

ケルソが復帰したのは前年同様、メトロポリタンハンデキャップを近く控えた5月であった。昨年11月に主戦騎手であったアーキャロが病気療養のため引退したため、ケルソの新しい乗り役にはウィリー・シューメーカーが迎えられた[c 15]。しかし、ケルソとの対戦を恐れて回避する陣営が続出し、一般戦に登録しても競走不成立となってしまい、メトロポリタンまでに前哨戦を挟むことができなかった[c 15]。5月30日に迎えたメトロポリタンハンデキャップでは断然人気の単勝1.6倍に支持されたが、病み上がりで斤量133ポンドのケルソは9頭立てのなか終始6番手あたりから抜け出せず、10ポンド軽いキャリーバックがトラックレコード優勝するなか、6着に敗れた[c 15]

後の競走にステップとなる一般戦を挟みたかったハンフォードは、そのために一計を案じ、6月16日のベルモントパークで行われるマサチューセッツハンデキャップに出走登録の「予定」を立てた。しかし、ケルソが実際に登録されていたのは同じ日に組まれていた一般戦で、定量戦であるこの競走でケルソはわずか117ポンド(約53.1キログラム)しか積まれず、2着馬に2馬身1/4差で楽勝することができた[c 15][注 6]

7月4日のサバーバンハンデキャップでは再びキャリーバックとの対戦となり、わずか4頭立てのなか、ケルソは単勝1.65倍と1番人気に支持された。レースが始まるとボーパープルが軽快に逃げ、ケルソは2番手で追う展開となった。しかし132ポンドを積まれたケルソは、斤量115ポンドのボーパープルを捉えきれず、2馬身半の差をつけられて2着に敗れた[c 15]。この時より、ケルソとキャリーバック、そしてボーパープルは、明らかに力量差がありながらも同年の戦線を賑わす「三強」となっていった。

3頭の再戦は、早くも10日後のモンマスハンデキャップで実現した。このときのハンデはケルソ130ポンド、キャリーバック124ポンド、ボーパープル117ポンドであった。競走ではヒッティングアウェイという馬がボーパープルから先手を奪って逃げ、ケルソは4番手につけて最終コーナーまで向かう展開となった。ケルソも最後に駆け上がるが、キャリーバックに抜けだされて3馬身差の2着、ボーパープルが3着に入った[c 15]。この後でケルソは再びウィルス性の感染症に罹り、ブルックリンハンデキャップを断念して8月まで療養に当てられた[c 16]

休養明けに8月22日のサラトガ競馬場での一般戦(芝8.5ハロン・約1709メートル)をイスマエル・ヴァレンズエラ騎手に乗り替わって勝利すると、その次の一般戦(アトランティックシティ 芝8.5ハロン)ではドン・ピアース騎手に乗り替わって挑んでいるが、113ポンドという斤量にもかかわらず4着に敗れている[c 16]。9月19日のスタイミーハンデキャップ(アケダクト 10ハロン)では再びヴァレンズエラが手綱を取り、128ポンドを背負いながら逃げ切り、2着に2馬身半差をつけて同年初のステークス勝ちを手にした[c 16]。この後、引退までほとんどの競走でヴァレンズエラが主戦を務めた[4]

それから10日後のウッドワードステークスでは再びボーパープルと対面、また同年のベルモントステークス優勝馬ジャイプール[注 7]も参加していた。定量戦の恩恵を受けたケルソは楽々と先頭を奪い、ボーパープルが着外に沈むのを尻目に、2着ジャイプールに4馬身半差をつける圧勝で連覇を達成した[c 16]。続く10月20日のジョッキークラブゴールドカップでは2着に10馬身の大差をつけて3連覇達成、さらに走破タイムの3分19秒80はナシュア以来のベルモントパーク16ハロントラックレコードを更新するものであった[c 16][c 17]

10月27日に出走したマンノウォーステークスはベルモントパーク12ハロンの芝競走で、この年よりハンデキャップ戦から定量戦に切り替えられ、続くワシントンDCインターナショナルへのステップレースとなっていた[c 18]フランス遠征帰りのキャリーバック、ホーソーンゴールドカップを制してきたボーパープルと、各々別路線にいた「三強」が久々に対峙し、またティーヴィーラークやジアックスなどの強豪馬も参戦していた[8]なか、ケルソは1番人気単勝2.05倍に支持された。スタートするとどの馬もが先手を争い、そのなかで抜け出したボーパープルが終始先頭に立ち、ケルソがそれを2馬身ほど離れて2番手で追う展開が続いていった。しかし、この差は最後まで縮まることはなくボーパープルが優勝し、ケルソは2着で入線した。スポーツ・イラストレイテッド誌の記者ホイットニー・タワーは、ケルソの敗因を「16ハロンのジョッキークラブから翌週という強行軍が祟った」と考察している[8]

11月12日に行われた1962年のワシントンDCインターナショナルは、「三強」が揃う最後の機会となった。各国の招待馬のなかには日本タカマガハラ[注 8]や、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制してきたフランスのマッチなどが参戦していた。ハンフォード調教師はボーパープルを最も危険視し、ボーパープルが先頭に立っていたらそれに並び掛けて潰す作戦を立てていた。実際のレースでもボーパープルが先頭に立ち、ケルソはそれに並び掛ける展開となったが、同時にキャリーバックも並び掛けてきた。ボーパープルが脱落して後退すると、ケルソはキャリーバックを少し後方にとどめて先頭に立つが、最後の直線で内側からマッチが強襲、一気に2頭を追い抜いて1馬身半差で優勝を掻っ攫った。キャリーバックはケルソから4馬身半差の3着、ボーパープルは13頭立ての11着と大敗した[5][c 19]。ヴァレンズエラは装鞍所に戻るなり、両手に顔をうずめてむせび泣き、「まったく、ぼくの鞭さばきがまずかったばかりに、ケルソを負け馬にしてしまい、馬主に申し訳ないことをしてしまった」と袖を涙で濡らしていた[c 14]。デュポンは「ボーパープルとキャリーバックからは離れるべきだったが、ケルソは今まで一二を争う最高の走りを見せた。そして芝でも能力を発揮できることを証明してくれた」と前向きに語った[5]

ワシントンDCインターナショナルの後に年度代表馬選考が行われ、ケルソは投票者32名のうち28票の支持を受け、キャリーバックやボーパープルを抑えて3年連続の年度代表馬に選出された[9][c 19]。アメリカ合衆国の競馬において、3年連続で年度代表馬に選ばれたのはケルソが初めてで、以後もフォアゴー(1974-76年)まで並ぶものはいなかった[c 20]。また、獲得賞金でいえば同年はケルソ[注 9]よりもプルーヴイット[注 10]のほうが獲得賞金が多かったが、西海岸でしか出走のなかったプルーヴイットよりもケルソのほうが評価され、この年も最優秀古牡馬に選出されている[c 19]

年度代表選考も終わった12月1日、ケルソはガーデンステートパーク競馬場のガヴァナーズプレート(12ハロン)に出走し、129ポンドを積みながらも2着に5馬身差をつけ、2分30秒20のトラックレコードつきで同年を締めくくった[c 19]。また、この勝利で獲得総賞金は1,011,940ドルに到達、アメリカ競馬史上5頭目の100万ドルホースとなった[c 19][c 9][10]

全盛期(6歳時・1963年)[編集]

年が明けて1963年は早くも1月から始動、1月30日のフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたパームビーチハンデキャップ(7ハロン)で年初戦を迎えたが、4歳馬リダン[注 11]に敗れ4着に沈んだ[c 21]。前走で敗れたことが原因か、2月9日のセミノールハンデキャップ(ハイアリアパーク 9ハロン)ではリダンが129ポンドを積まれ、ケルソは珍しくトップハンデを課されなかった(128ポンド)。この競走で勝ったのはケルソで、競走後にリダンは故障のため引退している[c 21]が、以後リダンと同世代の新鋭らがケルソへの新たな挑戦者となった。

2月23日のワイドナーハンデキャップ(ハイアリアパーク 10ハロン)ではボーパープルとの最後の対戦になり、ケルソは131ポンド、ボーパープルは125ポンドを積まれていた。ケルソはスタートで躓くものの、すぐに体勢を戻して2番手に先行、その先をボーパープルが逃げる展開となった。ボーパープル鞍上のビル・ボランドのコース取りは完璧で、ケルソは最後までボーパープルを捉えることはできず、2馬身1/4差で2着となった[c 17][c 22]

負けこそしたが、以後連勝街道が続いていく。3月16日にガルフストリームパークハンデキャップ(ガルフストリームパーク 10ハロン)を逃げ切って楽勝すると、続いてボウイ競馬場の高額賞金競走であったジョン・B・キャンベルハンデキャップ(12ハロン)にも優勝した後、3ヶ月の休養を挟んだ[c 17]。休養明け初戦は、以前使ったのと同じ手段で一般戦に出走しようと、アケダクトのナッソーカウンティハンデキャップ(9ハロン)に登録だけしていたが、今回はそのまま登録を取り消すことができずに出走する羽目になった[c 22]。しかし、レースでは132ポンドの斤量ながら1馬身半差で勝ち、さらに続くサバーバンハンデキャップでも133ポンドを積んだうえで優勝した。サラトガで2度目のホイットニーステークス優勝を手にすると、再びアケダクトに戻ってアケダクトステークス(9ハロン)でクリムゾンサタンを破って勝利を挙げた[c 22]。また、1963年のクラシック戦線からもケルソに挑む馬が現れていたが、プリークネスステークス優勝馬のキャンディスポッツがアケダクトステークスで4着になるのが関の山であった[c 23]

久々の定量戦となった9月28日のウッドワードステークスでは、ネヴァーベンドやクリムゾンサタンを破って同競走3連覇を達成した[c 22]。この競走では種牡馬から競走馬に復帰していたキャリーバックも出走していたが、4着に敗れている[11][c 19]。続くジョッキークラブゴールドカップでも終始先頭に立ったたま優勝、同競走4連覇の大記録を打ち立てた[c 22]

11月11日、ケルソはこの年もワシントンDCインターナショナルに出走、ここでは芝路線の強豪モンゴなどが集まっていた。スタート直後に飛び出したのはモンゴ、それとアイルランドのクリスマスアイランドで、ケルソはそれらの後ろ中団に控えた。4ハロンほどでケルソは2番手に進出し、モンゴを1馬身ほど前において進んでいった。残り5ハロンの標識付近でモンゴはよれて、ケルソの進路を一瞬妨害したが、ほどなくモンゴは体勢を戻し、ケルソを半馬身差で破った[12]。競走後、ヴァレンズエラはモンゴがよれてケルソにぶつかってきたと抗議、審議が行われたが、15分後に着順通りとの裁定が下った[12][c 24]

11月26日、同年の年度代表馬投票において、ケルソはデイリー・レーシング・フォーム紙とモーニング・テレグラフ紙の記者36名全員の支持を受けて4度目の年度代表馬に選出された[13]。またこの年の獲得賞金は569,762ドルで、最優秀古牡馬にも選出された[c 25]

ケルソとガンボウ(7歳時・1964年)[編集]

この年、ケルソは5月の西海岸ハリウッドパーク競馬場より始動した。しかし5月23日のロサンゼルスハンデキャップ(7ハロン)では9頭立ての8着、6月6日のカリフォルニアンステークスでも6着と凡走が続いた[c 26][c 27]。しかし東部に戻ると一転して調子を取り戻し、アケダクトに戻って初戦のストレートフェイスハンデキャップ(9ハロン)に勝利している[c 26]。続く7月4日のサバーバンハンデキャップでは130ポンドを積み、14ポンド軽いアイアンペグという馬を捉えきれず2着に敗れた。

7月18日のモンマスハンデキャップで、ケルソは同年のライバルとなるガンボウと顔合わせ、またモンゴとの再戦となった。この競走ではまたしてもモンゴに逃げ切りを許してしまい、ケルソはクビ差2着、ガンボウはそこから4馬身半離れた3着であった。続くブルックリンハンデキャップでは、ケルソは中団にもまれて動けず5着に終わり、一方でガンボウは2着に12馬身もの差をつけて優勝した。次走に選ばれたのはサラトガ競馬場での芝コースの一般戦(9ハロン)で、バックストレッチで先頭に立って、そのまま2着に2馬身半差でゴール、初めて芝競走で勝ちを手にした[14]

9月7日のアケダクトハンデキャップ(アケダクト 9ハロン)の日には、好天のなか65,066人の観衆が競馬場に詰め掛けていた[4]。この日の1番人気はガンボウで単勝1.55倍、対してケルソは単勝3.2倍のオッズであった[4]。スタートが切られて先頭に立ったのはガンボウで、ケルソはこれを2番手で追う形で道中を進めていった。残り2ハロンの標識のところでケルソがガンボウに肉薄すると、スタンドを埋め尽くした観衆から「ゴー・ケルソ! 奴を捕まえろケリー!」の大合唱が巻き起こった。直線に入っても歓声は鳴りやまず、ケルソがガンボウを3/4馬身差で破ったあとも、姿が見えなくなるまで歓声が続いていたという[4]

この時点でのケルソの総獲得賞金は1,711,132ドルで、これは賞金王ラウンドテーブルの記録1,749,869ドルにあと一歩迫るものであった[c 28]。次走である10月3日のウッドワードステークスの1着賞金は70,330ドルで、ここを勝てば新たな賞金王となるはずであった。当日のアケダクトには前走同様にケルソを慕うファンが51,000人も集まり、単勝1.25倍の絶大な支持を受けていた[15]。しかし、ガンボウの調教師エディ・ネロイも作戦を練っており、それはとにかくゲートを早く出て先頭に立ち、追いつかれたら外から抜くように誘導し、そのうえでペースを上げていくというものであった。ガンボウ鞍上のウォーリー・ブラムは指示通りに展開を進め、ケルソはこの作戦は見事にはまった。外側を回らされながらケルソは先頭に立ち、最後の直線でガンボウが抜き返しにかかった。両者は接戦の末にほぼ同時に入線し、写真判定の末にきわどいハナ差でガンボウに軍配が上がった[15][c 28]。競走後のインタビューでは、ブラムは「標識の時点でケルソは自分の半馬身前にいて、俺はもう終わったと思っていた」と語り、またヴァレンズエラは「ケルソが内側に刺さって、2回ほど(ガンボウと)ぶつかっていた。あれが原因かも」と語っている[15]

続く10月31日に迎えたジョッキークラブゴールドカップにおいて、ケルソは単勝1.4倍の断然人気を集め、それに応えるかのように2着ローマンブラザーを5馬身半引き離して優勝、3分19秒20の16ハロンアメリカレコードで4連覇を飾り、また晴れて歴代第1位の賞金王となった[c 28][c 27]

11月11日、この年のワシントンDCインターナショナルには日本からのリユウフオーレル[注 12]ソヴィエト連邦代表のアニリンなど6頭が参戦し、アメリカ代表として4度目の挑戦となるケルソ、そしてガンボウが登録された[c 24][16]。37,800人の観客によるオッズはケルソが単勝2.2倍、ガンボウは2.5倍と人気を分け合い、外国馬はアニリンが3番人気で16倍と大きく水をあけられていた[16]。スタートが切られるとガンボウが飛び出し、ケルソはそれを4馬身離れて追いかけた。その差はまもなく詰まり、バックストレッチに差し掛かるとケルソとガンボウは並んで走っていた。ケルソがガンボウの外に付けつつコーナーを回り、ガンボウと鞍上のブラムがその圧迫から逃げようと外に持ち出そうとすると、ケルソとヴァレンズエラは内側に切れ込んで、ガンボウをラチに押し付ける格好となった。そこからケルソがスパートをかけ、ガンボウとの差を徐々に広げていくと、ゴールに飛び込んだ時にはその差は4馬身半差まで開いていた[c 24][c 29]。また、この時のタイムは2分23秒80で、芝12ハロンの全米レコードであった[1]。競走後にブラムは進路妨害があったと申し立てたが、この訴えは却下された[c 29]

12月8日に同年の年度代表選考が行われ、投票者177名のうち119票をケルソが獲得、5年連続の年度代表馬に選出された[17][c 29]

晩年(8-9歳・1965-1966年)[編集]

デュポンは4度目のワシントンDCインターナショナルの勝利の後、同年でケルソを引退させる方針を発表したが、これにハンフォード調教師は「ケルソは競馬場を恋しがっている」と引退に反発していた[18]。ケルソは夏に入ってから競走馬として復帰するが、春のうちはローレル競馬場やキーンランド競馬場チャーチルダウンズ競馬場やデラウェアパーク競馬場などで、チャリティーイベントなどに参加していた[18]。6月にモンマス競馬場の一般戦(6ハロン)で復帰するが3着、その後デラウェアパーク競馬場のダイアモンドステートハンデキャップで優勝した[c 29]

ブルックリンハンデキャップでは132ポンドを背負い出走、5頭立ての最後尾から追いかける競馬になった。しかし、最後まで11ポンド軽いピアスターとローマンブラザーを捉えることができず、1着ピアスターから4馬身離された3着に敗れた[18][19]。8月7日のホイットニーステークスではケルソ130ポンドに対して、前走で勝ったピアスターに127ポンドが課されていた。ハンフォード調教師はあえて先頭に立たず、コース取りで他馬に外側を回らせる作戦を立案していた。スタートが切られると軽ハンデのマリシアス[注 13]とクルーマン[注 14]の2頭が先行争い、続いてすぐ後ろにピアスター、そのまたすぐ後ろにケルソがコースの内側につけてバックストレッチまで進んでいった。ヴァレンズエラは残り5ハロンの標識時点で鞭を入れたが、ケルソはなかなか動かず、動き出したのは残り3ハロンの標識に差し掛かってからだった。クルーマンが脱落し、ピアスターも力尽き、マリシアスが独走するなかでケルソの猛追が始まり、残り1ハロンで3馬身差まで詰め寄ると、ゴールに並んで入線、写真判定でケルソがハナ差勝利した[19]

しかし翌戦のアケダクトステークスでは前走で2着だったマリシアスが優勝し、ケルソはそこから9馬身離された4着と大敗した。9月22日のスタイミーハンデキャップはケルソの最後の勝鞍となった競走で、相手に恵まれたこともあって8馬身差の圧勝を見せた[c 29]。しかし、このあと目に怪我を負い、長らく休養をしている[20]

1966年、ケルソは9歳でも現役続行を予定していたが、2月13日の追い切りの際に、右前脚の球節に微細なヒビが入っていたことが発覚した。これは大事には至らないと判断され、様子見として3月2日にハイアリアパークの一般戦に出走させてみたところ、精彩を欠く走りで4着に敗退した[c 30]。順調であればドンハンデキャップに登録される予定であったが、精密検査の結果、軽微と思われていたヒビは思った以上に大きいことが判かり、これ以上の競走生活は無理と判断、3月10日に引退が発表された[c 30][3]

通算成績63戦39勝、獲得賞金は1,977,896ドルであった。競走そのものの賞金が上がり続けるなかでもこの記録は簡単には破られず、15年後にアファームドによってようやく塗り替えられた[c 31]。競走馬を引退した翌年の1967年アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はケルソの殿堂入りを発表した[3]

競走成績表[編集]

  • 当時はグレード制未導入。
  • 斤量はポンド表記。
  • 距離欄の単位はハロン。Dはダート、Tは芝を表す。
  • 競走名の略記はS=ステークス、H=ハンデキャップ、C=カップ、GC=ゴールドカップ、国際=インターナショナルを表す。
  • 競走成績表の出典はDRFの特設ページ[4]に付随するpdfファイルを参照のこと。
出走日 競馬場 競走名 距離 馬場 着順 騎手 斤量 オッズ タイム 着差 1着(2着)馬
1959.09.04 アトランティックシティ 未勝利戦 D6f 稍重 1着 J. Block 120 2.90 1:13.80 1 1/4 (Crafty Master)
1959.09.14 アトランティックシティ アローワンス D6f 2着 J. Block 117 5.40 1:11.40 1 1/2 Dress Up
1959.09.23 アトランティックシティ アローワンス D6f 2着 W. Blum 117 2.90 1:23.00 3/4 Windy Sands
1960.06.22 モンマス アローワンス D6f 1着 W. Hartack 117 2.00 1:10.00 10 (Burnt Clover)
1960.07.16 アケダクト アローワンス D8f 1着 W. Blum 117 2.30 1:34.20 12 (Double Dly)
1960.07.23 アーリントンパーク アーリントンクラシック D8f 8着 S. Brooks 117 4.90 1:36.20 7 1/2 T. V. Lark
1960.08.03 モンマス チョイスS D8.5f 1着 W. Hartack 114 4.90 1:41.20 7 (Careless John)
1960.09.03 アケダクト ジェロームH D8f 1着 E. Arcaro 121 3.65 1:34.80 アタマ (Careless John)
1960.09.14 アケダクト ディスカヴァリーH D9f 1着 E. Arcaro 124 2.20 1:48.40 1 1/4 (Careless John)
1960.09.28 ベルモントパーク ローレンスリアライゼーション D13f 1着 E. Arcaro 120 1.50 2:40.80 4 1/2 (Tompion)
1960.10.15 ホーソーン ホーソーンGC D10f 1着 E. Arcaro 117 3.20 2:02.00 6 (Heroshogala)
1960.10.29 アケダクト ジョッキークラブGC D16f 不良 1着 E. Arcaro 119 1.80 3:19.40 3 1/2 (Don Poggio)
1961.05.19 アケダクト アローワンス D7f 1着 E. Arcaro 124 1.35 1:24.00 1 1/2 (Gyro)
1961.05.30 アケダクト メトロポリタンH D8f 1着 E. Arcaro 130 2.05 1:35.60 クビ (All Hands)
1961.06.17 ベルモントパーク ホイットニーS D9f 1着 E. Arcaro 130 1.45 1:48.00 アタマ (Our Hope)
1961.07.04 アケダクト サバーバンH D10f 1着 E. Arcaro 133 1.60 2:02.00 5 (Nickel Boy)
1961.07.22 アケダクト ブルックリンH D10f 1着 E. Arcaro 136 1.50 2:01.60 1 1/4 (Divine Comedy)
1961.09.04 アーリントンパーク ワシントンパークH D8f 稍重 4着 E. Arcaro 132 1.70 1:34.60 5 3/4 Chief of Chiefs
1961.09.30 ベルモントパーク ウッドワードS D10f 1着 E. Arcaro 126 1.50 2:00.00 8 (Divine Comedy)
1961.10.21 アケダクト ジョッキークラブGC D16f 1着 E. Arcaro 124 1.10 3:25.80 5 (Hillsborough)
1961.11.11 ローレル ワシントンDC国際 T12f 稍重 2着 E. Arcaro 126 1.40 2:26.20 3/4 T. V. Lark
1962.05.30 アケダクト メトロポリタンH D8f 6着 W. Shoemaker 130 1.60 1:33.60 8 1/4 Carry Back
1962.06.16 ベルモントパーク アローワンス D8f 1着 W. Shoemaker 117 1.25 1:35.60 2 1/4 (Garwol)
1962.07.04 アケダクト サバーバンH D10f 2着 W. Shoemaker 132 1.65 2:00.60 2 1/2 Beau Purple
1962.07.14 モンマス モンマスH D10f 2着 W. Shoemaker 130 1.80 2:00.40 3 Carry Back
1962.08.22 サラトガ アローワンス T8.5f 稍重 1着 I. Valenzuela 124 1.25 1:41.80 1 1/2 (Call The Witness)
1962.09.08 アトランティックシティ アローワンス T8.5f 稍重 4着 D. Pierce 113 1.40 1:43.20 1 3/4 Call The Witness
1962.09.19 アケダクト スタイミーH D10f 1着 I. Valenzuela 128 2.25 2:00.80 2 1/2 (Polylad)
1962.09.29 アケダクト ウッドワードS D10f 稍重 1着 I. Valenzuela 126 1.90 2:03.20 4 1/2 (Jaipur)
1962.10.20 ベルモントパーク ジョッキークラブGC D16f 1着 I. Valenzuela 124 1.25 3:19.80 10 (Guadalcanal)
1962.10.27 ベルモントパーク マンノウォーS T12f 2着 I. Valenzuela 126 2.05 2:28.60 2 Beau Purple
1962.11.12 ローレル ワシントンDC国際 T12f 2着 I. Valenzuela 126 3.10 2:28.20 1 1/2 Match II
1962.12.01 グレーヴセンド ガヴァナーズプレート D12f 1着 I. Valenzuela 129 1.40 2:30.20 5 (Bass Clef)
1963.01.30 ハイアリアパーク パームビーチH D7f 4着 I. Valenzuela 128 3.45 1:22.80 5 1/2 Ridan
1963.02.09 ハイアリアパーク セミノールH D9f 1着 I. Valenzuela 128 3.35 1:48.80 2 3/4 (Ridan)
1963.02.23 ハイアリアパーク ワイドナーH D10f 2着 I. Valenzuela 131 1.45 2:01.80 2 1/4 Beau Purple
1963.03.16 ガルフストリームパーク ガルフストリームパークH D10f 1着 I. Valenzuela 130 1.20 2:03.20 3 1/4 (Sensitivo)
1963.03.23 ボウイ J・B・キャンベルH D8.5f 1着 I. Valenzuela 131 1.80 1:43.00 3/4 (Crimson Satan)
1963.06.19 アケダクト ナッソーカウンティH D9f 1着 I. Valenzuela 132 1.30 1:48.80 1 1/2 (Lanvin)
1963.07.04 アケダクト サバーバンH D10f 1着 I. Valenzuela 133 1.45 2:01.80 1 1/4 (Saidam)
1963.08.03 サラトガ ホイットニーS D9f 1着 I. Valenzuela 130 1.35 1:50.40 2 1/2 (Saidam)
1963.09.02 アケダクト アケダクトS D9f 1着 I. Valenzuela 134 1.70 1:49.80 5 1/2 (Crimson Satan)
1963.09.28 アケダクト ウッドワードS D10f 1着 I. Valenzuela 126 1.25 2:00.80 3 1/2 (Never Bend)
1963.10.19 アケダクト ジョッキークラブGC D16f 1着 I. Valenzuela 124 1.15 3:22.00 4 (Guadalcanal)
1963.11.11 ローレル ワシントンDC国際 T12f 稍重 2着 I. Valenzuela 126 1.50 2:27.40 1/2 Mongo
1964.03.23 ハリウッドパーク ロサンゼルスH D7f 8着 I. Valenzuela 130 2.70 1:21.40 9 1/4 Cyrano
1964.06.06 ハリウッドパーク カリフォルニアンS D8.5f 6着 I. Valenzuela 127 2.40 1:41.60 8 Mustard Plaster
1964.06.25 アケダクト ハンデキャップ戦 D9f 1着 I. Valenzuela 136 1.55 1:50.00 1 1/4 (Tropical Breeze)
1964.07.04 アケダクト サバーバンH D10f 2着 I. Valenzuela 131 2.35 2:01.80 アタマ Iron Peg
1964.07.18 モンマス モンマスH D10f 2着 I. Valenzuela 130 1.60 2:01.80 クビ Mongo
1964.07.25 アケダクト ブルックリンH D10f 5着 I. Valenzuela 130 1.85 1:59.60 14 Gun Bow
1964.08.27 サラトガ アローワンス T9f 1着 I. Valenzuela 118 1.30 1:46.60 2 1/2 (Knightsboro)
1964.09.07 アケダクト アケダクトS D9f 1着 I. Valenzuela 128 3.20 1:48.60 3/4 (Gun Bow)
1964.10.03 アケダクト ウッドワードS D10f 稍重 2着 I. Valenzuela 126 1.95 2:02.40 ハナ Gun Bow
1964.10.31 アケダクト ジョッキークラブGC D16f 1着 I. Valenzuela 124 1.45 3:19.20 5 1/2 (Roman Brother)
1964.11.11 ローレル ワシントンDC国際 T12f 1着 I. Valenzuela 126 2.20 2:23.80 4 1/2 (Gun Bow)
1965.06.29 モンマス アローワンス D6f 3着 W. Boland 122 1.50 1:11.20 1/2 Cachto
1965.07.10 デラウェアパーク ダイアモンドステートH D8.5f 1着 I. Valenzuela 130 1.30 1:42.40 3 1/4 (Kilmoray)
1965.07.24 アケダクト ブルックリンH D10f 3着 I. Valenzuela 132 2.20 2:00.60 4 Pia Star
1965.08.07 サラトガ ホイットニーS D9f 1着 I. Valenzuela 130 2.20 1:49.80 ハナ (Malicious)
1965.09.06 アケダクト アケダクトS D9f 4着 I. Valenzuela 130 2.00 1:49.00 9 Malicious
1965.09.22 アケダクト スタイミーH D10f 1着 I. Valenzuela 128 1.30 2:02.80 8 (Ky. Pioneer)
1966.03.02 ハイアリアパーク アローワンス D6f 4着 W. Boland 113 4.30 1:10.00 4 1/2 Davus II

引退後[編集]

競走馬引退後、ケルソは故郷のウッドストック牧場で余生を過ごしていた[3]。その後はデュポンの乗り馬としてともに野を駆けまわるなどしており、特に飛越が上手いことから「障害馬としても成功していたことだろう」と言われていた[c 32]。また生来の素直さで人々から愛され、様々な催しにも招待されるなどしていた[c 30]

最後に公衆の場に姿を現したのは1983年10月15日で、同日のジョッキークラブゴールドカップの誘導馬をフォアゴーとともに務めていた[1]。その翌日10月16日に激しい疝痛を起こして死亡、26歳であった[3][1]。遺骸はウッドストック牧場に埋葬された[1][21]

ケルソが亡くなる前の1980年に、ベルモントパーク競馬場はケルソの名を冠した「ケルソハンデキャップ」という16ハロンの競走を創設していたが、2年後の1982年に廃止された。その後、1984年にベルモントパークはブライトンビーチハンデキャップを改称し、再び「ケルソハンデキャップ(現ケルソステークス)」を創設している[1]

エピソード[編集]

  • ケルソはチョコレートサンデーが好物だったという[c 30][1]。また馬房の柱に吊るしていたラジオの音楽に聴き入っていたというエピソードも残っている[c 30]
  • ヴァレンズエラによれば、ケルソは自分に拍手が送られていることを理解していて、入場行進時にいつもスタンド前で立ち止まって聞き入っていたという[4]
  • ケルソは馬場の良し悪しを問わず活躍したが、ヴァレンズエラによればダートなら不良馬場が得意で、一方で芝では稍重くらいがベストだと語っていた[5]

評価[編集]

主な勝鞍[編集]

1959年(2歳) 3戦1勝 $3,380
特になし
1960年(3歳) 9戦8勝 $293,310
チョイスステークス、ジェロームハンデキャップ、ディスカヴァリーハンデキャップ、ローレンスリアライゼーションステークス、ホーソーンゴールドカップ、ジョッキークラブゴールドカップ
1961年(4歳) 9戦7勝 $425,565
ニューヨークハンデキャップ三冠メトロポリタンハンデキャップサバーバンハンデキャップブルックリンハンデキャップ)、ホイットニーステークスウッドワードステークス、ジョッキークラブゴールドカップ(連覇)
1962年(5歳) 12戦6勝 $289,685
スタイミーハンデキャップ、ウッドワードステークス(連覇)、ジョッキークラブゴールドカップ(3連覇)、ガヴァナーズプレート
1963年(6歳) 12戦9勝 $569,762
セミノールハンデキャップ、ガルフストリームパークハンデキャップ、ジョン・B・キャンベルハンデキャップ、ナッソーカウンティステークス、ホイットニーステークス、アケダクトステークス、ウッドワードステークス(3連覇)、ジョッキークラブゴールドカップ(4連覇)
1964年(7歳) 11戦5勝 $311,660
アケダクトステークス(連覇)、ジョッキークラブゴールドカップ(5連覇)、ワシントンDCインターナショナル
1965年(8歳) 6戦3勝 $84,034
ダイアモンドステートハンデキャップ、ホイットニーステークス、スタイミーハンデキャップ
1966年(9歳) 1戦0勝 $500
特になし

年度代表馬[編集]

  • 1960-1964年 - 年度代表馬(5年連続)
  • 1960年 - 最優秀3歳牡馬
  • 1961-1964年 - 最優秀古牡馬(4年連続)

表彰[編集]

各評価の出典:[3][1]

血統表[編集]

ケルソ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ハイペリオン系
[§ 2]

Your Host
1947 栗毛 アメリカ
父の父
Alibhai
1938 栗毛 イギリス
Hyperion Gainsborough
Selene
Teresina Tracery
Blue Tit
父の母
Boudoir
1938 芦毛 アイルランド
Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Kampala Clarissimus
La Soupe

Maid of Flight
1951 青鹿毛 アメリカ
Count Fleet
1940 青鹿毛 アメリカ
Reigh Count Sunreigh
Contessina
Quickly Haste
Stephanie
母の母
Maidoduntreath
1939 青鹿毛 アメリカ
Man O' War Fair Play
Mahubah
Maid Victorian Victorian
Black Betty
母系(F-No.) (FN:20) [§ 3]
5代内の近親交配 Gainsborough 4x5=9.38% Rock Sand 5x5=6.25% [§ 4]
出典
  1. ^ [22][c 33]
  2. ^ [23]
  3. ^ [22]
  4. ^ [22][23]

ユアホストは西海岸でサンタアニタダービーなどに優勝した実力馬であった。4歳時に予後不良ものの大怪我をしたとき、陣営が治療か安楽死かで処置を考えあぐねていた際、痛みを我慢してじっと立って待っていたという。関係者もこれを見て手術を決行、種牡馬として生き永らえた。デュポンはこのエピソードに感動し、ユアホストの種牡馬シンジケート株を購入した[c 3][5]

半妹の孫に日本持込馬として走り新潟記念関屋記念各3着などの成績を残し、種牡馬としてナムラモノノフ・テイエムオオアラシと2頭の中央重賞勝ち馬の父となったセクレファスターがいる。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6. 
  • 山野浩一『伝説の名馬 PartI』中央競馬ピーアール・センター、1993年。ISBN 4-924426-37-7。
  • 原田俊治『世界の名馬 : セントサイモンからケルソまで』サラブレッド血統センター、1970年。
  • 栗山求『血統史たらればなし』エンターブレイン、2016年。ISBN 978-4-04-734112-8。
  • 『競馬【世界制覇】読本』宝島社別冊宝島 競馬読本シリーズ〉、1999年。ISBN 4-7966-9427-7。
  1. ^ 原田 p.377
  2. ^ a b c d 原田 p.378
  3. ^ a b c 山野 p.163
  4. ^ a b c d 山野 p.164
  5. ^ a b 原田 p.375
  6. ^ a b c d Robertson p.550
  7. ^ 原田 p.380
  8. ^ a b c d e f g h 山野 p.165
  9. ^ a b c 原田 p.381
  10. ^ a b c 山野 p.166
  11. ^ a b c d e f g Robertson p.551
  12. ^ 山野 p.167
  13. ^ a b c d e Robertson p.552
  14. ^ a b 原田 p.383
  15. ^ a b c d e f g Robertson p.557
  16. ^ a b c d e Robertson p.558
  17. ^ a b c 山野 p.168
  18. ^ Robertson p.559
  19. ^ a b c d e f Robertson p.560
  20. ^ 栗山 p.166
  21. ^ a b Robertson p.564
  22. ^ a b c d e Robertson p.573
  23. ^ Robertson p.570
  24. ^ a b c 原田 p.385
  25. ^ Robertson p.574
  26. ^ a b 山野 p.169
  27. ^ a b 原田 p.382
  28. ^ a b c 競馬読本 p.92
  29. ^ a b c d e 山野 p.170
  30. ^ a b c d e 原田 p.386
  31. ^ 競馬読本 p.93
  32. ^ 山野 p.171
  33. ^ 山野 p.162

注釈[編集]

  1. ^ このときメイドオブフライトは、アンビオリックスという種牡馬と翌シーズンの交配するために滞在していた(原田 p.377)。
  2. ^ 去勢することによってホルモンの分泌を促して、成長を促進するという考え方に基づくものである(山野 p.164)。ただし実際にどれだけ効果があるかは不明瞭で、心肺機能などまで向上するものではないと考えられている(栗山 p.165)。また、活躍したケルソを騸馬にしたことが後年「アメリカ競馬史上最大の悲劇」などと非難された(原田 p.379)。
  3. ^ ドレスアップDress Up)は父カーレッド、母父ブルーラークスパーの牡馬。ステークス競走では入着どまりであったが、後に種牡馬入り、その後日本に輸出されている。大井競馬場の雄・カウンテスアップの母父でもある(JBISサーチ)。
  4. ^ 当時はグレード制未導入。
  5. ^ トンピオンTompion)は、父トムフール、母父カウントフリートの牡馬で、C・V・ホイットニーの所有馬であった。2歳時にホープフルステークスを勝ち、3歳春にはサンタアニタダービーブルーグラスステークスを勝ってケンタッキーダービーに出走するも4着に敗れている。その後トラヴァーズステークスやバーナードバルークハンデキャップ、マリブステークスなどに優勝している(Robertson p.547-548)。後に種牡馬となり、後年は日本にも輸出された。主な産駒にフランス2000ギニー優勝馬ブルートムなどがいる(JBISサーチ)。
  6. ^ マサチューセッツハンデキャップに出走した場合、132ポンドが積まれる予定だったという(Robertson p.557)。
  7. ^ ジャイプールJaipur)は1959年生の牡馬で、父ナスルーラ、母の父エイトサーティクリムゾンサタンサーゲイロードなどと同期で、これらを破りながらベルモントステークスやトラヴァーズステークスなどに勝ち、のちに1962年の最優秀3歳牡馬に選ばれている。ケルソが勝った1963年2月のセミノールハンデキャップで4着になったのを最後に引退している(Robertson p.558, 565)。
  8. ^ 船橋競馬から中央競馬に転入した日本馬で、4歳時に天皇賞 (秋)を制した。5歳時に日本初のワシントンDC国際出走馬となり、同競走では10着に終わった(競馬読本 p.114-115)。
  9. ^ 後の1戦も含めて、ケルソの1962年の獲得賞金は289,685ドル(racingmuseum.com)。
  10. ^ プルーヴイットProve it)は1957年生の牡馬で、父エンデヴァーII、母の父カーレッド。西海岸を中心に活動し、サンタアニタハンデキャップなどの競走で優勝していた。1962年はワシントンパークハンデキャップやハリウッドゴールドカップなどで13戦6勝を挙げ、348,750ドルを稼いでいた(Robertson p.560)。
  11. ^ リダンRidan)は1959年生の牡馬で、父ナスルーラ、母の父ゴールドブリッジ。同父で同じクレイボーンファーム生産のナディア(Nadir)を逆さ読みにしたのが名前の由来。フロリダダービーブルーグラスステークスなどに優勝したが、クラシックはプリークネス2着だけで無冠に終わった(Robertson p.564)。
  12. ^ 中央競馬所属の日本馬。4歳時より本格化し、宝塚記念と天皇賞(秋)、有馬記念を勝って年度代表となった。5歳時にワシントンDCインターナショナルに挑戦したが、出走前から右前肢に不安が発生し、最下位8着に敗れている(競馬読本 p.115)。
  13. ^ マリシアスMalicious)は、1961年生の牡馬。2歳時に分割競走となったハリウッドジュヴェナイルチャンピオンシップに優勝している(Robertson p.572)。
  14. ^ クルーマンCrewman)は、1960年生の牡馬。ネヴァーベンドやキャンディスポッツ、シャトーゲイと同期で、1963年のトラヴァーズステークスでこの3頭を破っている。しかし1964年は勝ち星がなく、この競走でもハンデ111ポンドの低評価であった(Sports Illustrated 1965年8月16日)。

出典[編集]

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  2. ^ a b c Horse Profile for Kelso”. Equibase. 2019年4月19日閲覧。
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