ケルト人
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ケルト人(ケルトじん、英語: Celt, Kelt [ˈkɛlt], Celt では [ˈsɛlt] とも)は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。もともとはケルトとは古代ローマでは未知の人という意味であり民族を示す言葉ではない。
現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。
古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。
ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などに言語が現存している。
大陸のケルト[編集]
ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代~青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されている。紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻した。
やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献である。やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。
島のケルト[編集]
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマの支配を受け、この地方はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリアに侵入すると、ローマ帝国はブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。
しかし、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域であると言われていたが、実は、ローマと直接交流していた形跡が見つかっている。
ギリシャ人とローマ人は、大陸のケルト人を「背が高く金髪あるいは赤みのかかった髪で肌が白い」と表現していた。しかし、現代の島のケルト人はどちらかというと背が低く浅黒い肌の人が多い。これは大陸のケルトと島のケルトが同じ文化と言語を共有しているものの生物学的には同一ではないことを示している[1]。
「島のケルト」は存在するか[編集]
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上記の通り、ローマ征服までのブリテン島の先住民は初めからケルト系に属すか、「大陸のケルト」から文化的な影響を受けたケルト系住民であるという従来の定説に対し、考古学の研究成果などからその妥当性が問われつつある。[要出典]
通俗的に「島のケルト」として扱われるアイルランド、スコットランド、ウェールズ、あるいはフランスのブルターニュ地方の人々や文化に対して「ケルト」という言葉が適用されるようになったのは、近代以降であり、前近代の諸文献においては、これらの地域に対して「ケルト」という言葉も概念も不在であった[2]。
第一に行われる批判は大陸のケルトとの血縁関係が存在しないという点である。遺伝子研究によって飛躍的な進歩を遂げた現代の考古学は「島のケルト」と称されていた人々が、ガリア北部や沿岸部のどの部族からも遠い遺伝子を持つこと、そしてむしろイベリア人からの影響が存在していることをつきとめた。[要出典] これは少なくとも彼ら「島のケルト」に「大陸のケルト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という事実を示している。根拠の一つであった貨幣鋳造の普及に関しても、ケルト人がもたらしたとされる他の文化の渡来時期と明らかに食い違うことが判明している。「大陸のケルト」の移民がなかったということが真実だとするなら、なぜケルトの鉄器文化の継承があったのかについては、次の批判と密接に関連している。
第二の批判は、ブリテン島の鉄器文明と大陸のケルト鉄器文明(ラ・テーヌ文明)は異なるとするものである。一例を挙げれば、ケルト美術と称される装飾品文化はブリテン島ではさほど見られず、ラ・テーヌ文明の埋葬法とも全く違う手法で遺体を葬っていたことが分かっている。[要出典]これ以外にも家屋の形状など建築に関する部分など至る所に相違点があり、とても「大陸のケルト」とブリテンの文明を同一視することはできないとされる。こうした論に立つ学者は、これまでの学者達は文明の発達を単一の源のみに求め、ブリテン島で独自に発達したという可能性を恣意的に排除していたと批判している。[要出典]ちなみに、アイルランドについても僅かな関連性のみでラ・テーヌ文化の流入を決定付けていたことが分かり、アイルランド南部に至ってはラ・テーヌ文化の渡来は痕跡すら見られない。
近年ではこれらの批判に加え、ラ・テーヌ文明と「ケルト」がさほど関連していなかったという学説や、そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。[要出典]こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されているが、それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。
ケルトと宗教[編集]
当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。 初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。 ドルイドの予言の儀式では人身供犠が行われていることを、多くの古典古代の著述家たちが記述している[3]。ドルイドの教義では現世と来世は連続的であるとされ、ケルト人は輪廻転生と霊魂の不滅を信じていた[4]。ポンポニウス・メラやユリウス・カエサルは、ケルト人の戦いにおける勇敢さや人命への軽視とケルト人の死生観を結びつけて考えた。
また、アイルランドには人頭崇拝の風習があった。人の頭部は魂の住処となる神性を帯びた部位であり、独自に存在し得るものと考えた[5]。敵の首級を所有することでその人物の人格や魂を支配できると信じ、戦争で得られた首級は門などの晴れがましい場所に飾られたり、神殿への供物や家宝として扱われた。ケルト芸術には人頭のモチーフが多くみられ、アイルランドではキリスト教改宗後も教会や聖所の装飾に多くの人頭があしらわれている。
ブリテン島では、4世紀にはキリスト教が根づいた。その後、ヴァイキングの侵入やノルマン・コンクエストの影響で、ケルト人キリスト教はしだいに一時衰退した。
アイルランドでは、6世紀末~8世紀初めにキリスト教化する方針が取られた。アイルランドでのキリスト教は、9~10世紀のヴァイキングの侵入によって衰退した。
ケルトの文化[編集]
儀式を行うのはドルイドであったかもしれないがよく分かっていない。
碑文などの言記表記をする際に後にギリシア語やラテン語を参考にして、アイルランド独自のオガム文字が生まれた。これは4世紀から7世紀頃まで碑文等に表記をする際に使用されたが、基本的には文字を持たない文化であった。後世にアイルランドがキリスト教化すると、オガム文字はラテン文字に取って代わられた。
アイルランドのそれまでの文化はキリスト教と融合した。(各項を参照。)
現代のケルト系諸言語[編集]
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ケルト語派の言語が話される国はアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
しかし近年、様々なケルト語再生運動がそれらの言語の衰退を止めることを目的として行われている。この再生運動の有効例として、ウェールズにおいてウェールズ語を教える学校が政府から公金を受け、その学校数が増えて来たということが挙げられる。
現存するケルト語派の言語とそれぞれの話者人口は、以下の通りである。
- アイルランド語(母語人数:〜30,000人;よく話せる人数:〜100,000人)
- スコットランド・ゲール語(母語人数:〜45,000人)
- ウェールズ語(母語人数:〜200,000人)
- マン島語
- コーンウォール語
- ブルトン語(母語人数:〜750,000人)
遺伝子[編集]
ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。ハプログループR-S116はイタリック語派とも関連しており、イタロ・ケルト語派仮説を支持するものである。
脚注[編集]
参考文献[編集]
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- ベルンハルト マイヤー 平島直一郎、鶴岡真弓 訳『ケルト事典』 創元社 ISBN 4422230042
- 鶴岡真弓、村松一男 『図説 ケルトの歴史―文化・美術・神話をよむ』ふくろうの本 河出書房新社 ISBN 4309726143
- クリスチアーヌ エリュエール 田辺希久子、松田廸子、湯川史子 訳『ケルト人』蘇えるヨーロッパ「幻の民」 「知の再発見」双書 創元社 ISBN 4422210858
- フランソワーズ ベック、エレーヌ シュー 遠藤ゆかり、鶴岡真弓 訳『ケルト文明とローマ帝国』 「知の再発見」双書 創元社 ISBN 4422211749
- 中央大学人文科学研究所 編『ケルト口承文化の水脈』中央大学人文科学研究所研究叢書38 ISBN 4-8057-5327-7
- ジョン ヘイウッド 井村君江、倉嶋雅人 訳 『ケルト歴史地図』 東京書籍 ISBN 4487797381
- 鶴岡真弓 『ケルト/装飾的思考』 筑摩書房 ISBN 4480871349 同文庫版(ちくま学芸文庫) ISBN 4480080945
- ヴァンセスラス・クルータ 鶴岡真弓訳 『ケルト人』 白水社(文庫クセジュ) ISBN 4560057206
- T.G.E.パウエル 笹田公明 訳『ケルト人の世界』 東京書籍 ISBN 4487760895
- 田中美穂 『「島のケルト」再考』(史学雑誌 111編10号、56~78頁)
- 月川, 和雄「ドルイドとは誰か」『ケルトの宗教 ドルイディズム』中沢新一、岩波書店、1997年。ISBN 4000006452。
- カンリフ, バリー『図説 ケルト文化誌』蔵持不三也訳、原書房、1998年。ISBN 456203145X。
関連項目[編集]
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