ゲオルギー・マレンコフ

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ゲオルギー・マレンコフ
Гео́ргий Маленко́в
Georgy Malenkov 1964.jpg

任期 1953年3月5日1953年9月7日[1]

任期 1953年3月6日1955年2月8日
最高会議幹部会議長 ニコライ・シュヴェルニク
クリメント・ヴォロシーロフ

任期 1955年2月9日1957年6月29日
閣僚会議議長 ニコライ・ブルガーニン
任期 1946年8月2日1953年3月5日
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン
任期 1944年5月15日1946年3月15日
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
発電所大臣
任期 1955年2月9日1957年6月29日
閣僚会議議長 ニコライ・ブルガーニン

КПСС.svg ソビエト連邦共産党
中央委員会第二書記
任期 1948年8月31日1952年10月16日
中央委員会書記長 ヨシフ・スターリン

任期 1939年3月22日1946年5月6日
任期 1946年7月1日1953年3月14日

任期 1946年3月18日1957年2月27日

任期 1941年2月21日1946年3月18日

出生 1902年1月13日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国オレンブルク
死去 (1988-01-14) 1988年1月14日(86歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1954–1991).svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
政党 КПСС.svg ソビエト連邦共産党
配偶者 ヴァレリヤ・マレンコワ

ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフロシア語: Георгий Максимилианович Маленковラテン文字表記:Georgy Maximilianovich Malenkov、1902年1月13日ユリウス暦1月8日) - 1988年1月14日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連閣僚会議議長(首相)、同副議長(副首相)、発電所大臣を歴任。内では、書記局員、政治局員、政治局員候補を務めた。ヨシフ・スターリンの重要な側近であり、スターリン死後の6ヶ月間、集団指導体制の中で暫定的にソビエト連邦の最高指導者の地位にあった[注 1]

赤軍政治委員、ソ連共産党中央組織要職を務めた。1939年党中央委員・書記・人事局長。第二次世界大戦中は国家防衛委員会委員を兼ねる。1944年副首相。1946年政治局員となり、スターリンの後継者と目された。1953年スターリンの死で首相となり、フルシチョフヴォロシーロフと共にトロイカ体制を形成。国際協調・党内集団指導制・消費物資増産など新政策を推進したが1955年辞職。1957年反党グループと目されて失脚。

生い立ちから権力の掌握まで[編集]

生い立ち[編集]

マレンコフは、ロシア帝国オレンブルクマケドニア人移民のもとに生まれた。マレンコフの父は、オレンブルクの裕福な農家であり、若かりし頃のマレンコフは時々父の農作物販売の仕事を手伝った。母は鍛冶屋の娘であり、正教会の司祭の孫娘だった。1918年志願して赤軍に加わり、ロシア内戦では政治将校として白軍と対峙した。1920年共産党に入党。その後、軍を本拠とするモスクワ高等専門学校の共産党書記。1925年、モスクワ高等工科学校ロシア語版卒業[2]

スターリンの側近として[編集]

1924年ヨシフ・スターリンの目に留まりソ連共産党中央委員会に引き入れられる。1925年中央委員会組織局で働く。後にスターリン個人の秘書局員となり、1932年その責任者となる。1934年全ソ連邦共産党組織部長。1930年代後半には、ラヴレンチー・ベリヤとともにスターリンの大粛清に加担し、その功で1939年3月、第18回党大会で中央委員会委員党書記局員となり、党幹部要員管理局長として党官僚の人事を統制できるようになった。また、正式な組織局員となった。

1941年2月には政治局員候補となった。その後ベリヤとは政敵になった。1941年6月、独ソ戦が開始されるとマレンコフは、ベリヤ、ヴォロシーロフ、モロトフと共に、スターリンを議長とする国家防衛委員会の委員となった。この委員会は戦時においてソビエト国内の政治、経済を完全に掌握し、マレンコフはソ連の最有力政治家の1人となった。1941年から1943年の間に軍用機の製造監督の任務が与えられた。1943年8月連邦人民委員会議付属のドイツ軍占領解放地区経済復興委員会議長に就任し、レニングラードを除く複数の既に解放された地域の戦災からの復興に尽力した。

スターリンは、マレンコフとベリヤに核ミサイル開発監督の任務を与えた。そして、マレンコフはミサイルプログラムの責任者に任命された。この時マレンコフを補佐したのが、ブレジネフ・アンドロポフ・チェルネンコ政権で国防大臣を務めることになる、若きロケット科学者のドミトリー・ウスチノフであった。

1944年閣僚会議副議長(副首相)に。また、第二次世界大戦後の1946年3月に党政治局員に昇進した。そして党第二書記として党内でスターリンの代理の職務を割り当てられた。しかしマレンコフが監督した航空事業の中で欠陥のある航空機が量産されたことが非難を浴び、1946年3月から8月まで、責任を取らされる形で役職から解任された状態となった。これは政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによる追い落とし工作だったが、ジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。その後、ベリヤはマレンコフの傘下に入り、彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造し、ジダーノフの同調者をすべて強制労働収容所に追放した。

ポスト・スターリン[編集]

戦後、スターリンは自身の老いから表立った活動を控えるようになり、1946年以降彼の死まで僅か3回しか公開演説を行わず、うち2回は数分しか続かなかった。スターリンが作成した文書の量も減少し、次第にスターリンは自身亡き後の国家運営について考えるようになる。この頃、スターリンの公務が激減するに連れて、マレンコフの公務は増加していき、1952年の第19回党大会ではスターリンに代わって中央委員会報告を行った。マレンコフは他のどの共産党員よりもスターリンに対して忠実であり、スターリンによって後継者として認知されたと観測された。このことはマレンコフが1952年1953年タイム誌の表紙を飾ったことからも衆目の一致するところであった。

1952年10月、スターリンは健康状態の悪化によって書記長職を辞任(但し首相職には留まる)。スターリンは依然として党内に対する強い影響力を保持し続けたが、書記局の公務は替わってマレンコフが代行するようになった。

ソ連の首脳として[編集]

権力基盤の確立と集団指導制への道[編集]

1953年3月5日のスターリンの死後、ラヴレンチー・ベリヤによって閣僚会議議長(首相)に祭り上げられ、書記局の名簿筆頭にもリストアップされたマレンコフは、事実上のソ連最高指導者となった。しかし、最初に開かれた非公開の中央委員会会議でマレンコフは「人格崇拝の政策を終わらせ、集団指導体制に移行させる必要がある」と強調し、同月14日に当初重要性が低いと見なされていた書記局の主導権を早くもニキータ・フルシチョフに譲り渡す。翌日、クリメント・ヴォロシーロフは憲法上の国家元首である最高会議幹部会議長に就任し、ここに、マレンコフ・フルシチョフ・ヴォロシーロフの「トロイカ(三頭)体制」が成立した。副首相兼内相となったベリヤは、スターリン批判を展開したが、マレンコフはそれを支持しなかった。この行動はフルシチョフにとっても承認できるものではなく、ベリヤは逮捕され、処刑された。フルシチョフが同年9月7日に共産党の正式な党首たる党中央委員会第一書記に就任したことに伴い、最高指導者の地位がフルシチョフへ移行されたと見られる。

ソ連邦首相として[編集]

マレンコフは2年間閣僚会議議長(首相)の座にあったが、この間、彼の政治活動はクレムリン内の権力闘争と混同された。マレンコフは、忠実なスターリン主義者であり続けたが、「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言して、核兵器の研究開発に反対する立場を表明した。その中でマレンコフは、核兵器の使用に反対する国際平和キャンペーンを展開するなど、外交については平和的な路線をとった。このような西側諸国との平和共存を模索する方針は強硬派から反発を受けることになり、後の首相交代の引き金にもなった。経済については、重工業よりも消費財の生産等の軽工業に再注力することを提唱し、ソビエト国民の生活水準の向上を目標に掲げた。また農業政策については、農民への減税、穀物生産の為にコルホーズへ支給される給付金の増額、そして自作農を奨励する政策を提唱した。これらの政策はマレンコフの首相在任時に決定されたが、財源的な課題もあり、目標を達成させることは困難を極めた。このような政策の失敗に加え、若い世代の政治家の昇進に反発したことも起因して、マレンコフの影響力は次第に低下していくことになる。

失脚[編集]

1955年2月、マレンコフは経済計画に関する意見の対立からフルシチョフによる追い落とし工作に遭い、既に処刑されていたベリヤとの関係性や「権力の濫用」との非難を浴び、首相の辞任を余儀なくされた。次いで新首相に就任したブルガーニン(フルシチョフの腹心)の元でマレンコフは副首相兼発電所大臣となり、事実上の降格人事の様相を呈した。その後、マレンコフの経済計画は放棄され、ソ連は再度重工業重視に舵を切り、1955年に策定された連邦予算で重工業への投資拡大が決定された。1957年6月、マレンコフはフルシチョフに対するクーデターを画策し、ニコライ・ブルガーニンヴャチェスラフ・モロトフラーザリ・カガノーヴィチらもこれに同調。「反党グループ事件」が発生した。しかしこの試みは失敗に終わり、逆に反党分子として批判を浴びる。そして、副首相・発電所大臣を解任され、フルシチョフによって党中央委員会、政治局からも追放された。なお、この事件を以てマレンコフの築き上げた集団指導体制が完全に反故にされ、フルシチョフが名実ともに党・国家の最高実力者となった。

失脚後から晩年まで[編集]

没落と党追放[編集]

その後は、ソビエト連邦内を転々とし、カザフ・ソビエト社会主義共和国ウスチ・カメノゴルスクにあるダム水力発電所の指導者となった後、同じくカザフスタンの炭鉱都市エキバストス(ここの政治犯特別収容所にはアレクサンドル・ソルジェニーツィンが1950年から1953年まで収容されていた)にあるエキバストス第一発電所の所長を務めたが、1961年、マレンコフが59歳の年にエキバストス市党委員会により党籍を剥奪され、共産党を追放される。1968年に引退し、年金生活に入った。

共産党追放後は、権力の喪失と貧しい生活のためにうつ病に悩まされた。しかし後に、自身の失脚を「クレムリンの過酷な権力闘争からの解放」と前向きに捉えるようになったという。モスクワ市内のアパートで年金を受けながら余生を送り、晩年にロシア正教に改宗。80歳を過ぎてからはモスクワのイェロホヴォ大聖堂(w:Elokhovo Cathedral)の教会合唱団に所属していた。また、マレンコフが晩年を過ごしたアパートの隣人は、同じく反党グループとして失脚し、党籍を剥奪されて年金生活に入ったラーザリ・カガノーヴィチであった。

死去[編集]

失脚後は不遇の晩年を過ごしたマレンコフだが、生涯を通じて共産主義者ではあり続けたとされる。1984年、同じく”反党グループ”として失脚したモロトフの復権が承認された際には、時のチェルネンコ書記長に対し、自身の復権も承認するよう要求する手紙を送った。ソ連末期の1988年1月14日、若き指導者ゴルバチョフによるペレストロイカの時代に86歳でひっそりと亡くなった。後任のフルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコよりも長く生きていた。そしてモスクワのクンツェフスキー墓地に埋葬された。ソ連では要職経験者は赤の広場に葬られるのが慣例となっていたが、退いた後に失脚したこともあってフルシチョフと同じくこの場所には埋葬されなかった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ マレンコフの場合、スターリンの死後、後任の閣僚会議議長(首相)に就任し、書記局の名簿にも筆頭に名が記載されていたことから、スターリンの後継者となったことが確実と見做された。しかし、ソ連では多くの場合、共産党の党首が実質的な国の最高指導者になるのに対し、マレンコフは名簿の筆頭にリストアップされたのみであり、正式な党首(書記長ないし第一書記)に就いたわけではなかった。その為、後に書記局の主導権がフルシチョフに譲られたとは言え、フルシチョフが正式に党第一書記に就任し実権を掌握したのは1953年9月のことであり、それまでの間は首相たるマレンコフが暫定的に最高指導者の地位にあった。最も「ソ連最高指導者」という地位は公式のものではなく、その地位は定義によるものであって、ソ連の最高指導者が列挙される場面においては暫定的な意味合いの濃いマレンコフは省かれる場合もある。

出典[編集]

関連項目[編集]

先代:
ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦最高指導者
1953年
次代:
ニキータ・フルシチョフ
先代:
ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦閣僚会議議長(首相)
1953年 - 1955年
次代:
ニコライ・ブルガーニン
先代:
ヨシフ・スターリン
(書記長)
КПСС.svg ソビエト連邦共産党筆頭書記
1953年
次代:
ニキータ・フルシチョフ
(第一書記)