ゲッティンゲン大学
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ゲッティンゲン大学(独 Georg-August-Universität Göttingen / 英 University of Göttingen)は、ドイツのゲッティンゲンに位置する大学。ドイツに9つあるエクセレントセンターの一つ。ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト、後の英国王ジョージ2世によって1737年に創設された。この創設者の名にちなんで正式名称はゲオルク・アウグスト大学(独 Georg-August-Universität Göttingen)という。
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校風と歴史
北ドイツ最大の州であるニーダーザクセン州を代表する大学で、南ドイツの大学がやや保守色が強いのに対して、地理的にもドイツ中央部に位置するためか、革新から中道寄りの校風。1980年代には緑の党の拠点のひとつでもあった。
この大学を設立したゲオルグ2世は、ハレ大学を見本とする科学尊重の大学として、この大学を創設したとされている。
法学、哲学、数学、物理学において伝統的に実績を有し、特に数学に関しては19世紀の中頃から20世紀の前半にかけて、クラインやヒルベルト、更にはミンコフスキをはじめとする多くの有能な数学者が集り、世界の研究の中心としての役割を果たした。その後も欧州における学術拠点としての機能を持ち続けたので第二次世界大戦中はイギリスとドイツはケンブリッジとゲッティンゲンを爆撃しないという紳士協定を結んでいた。
現在までドイツ最大の40名のノーベル賞受賞者を輩出している。
また、大学図書館は約350万冊の蔵書を誇り、世界に4冊しか現存していないグーテンベルクの聖書、グリム兄弟の草稿、ヒルベルトの書簡など世界的に貴重な資料を保存している。
ドイツ連邦共和国の旧10マルク紙幣にはガウスの肖像画の背景にゲッティンゲン大学の校舎が描かれていた。
1837年にハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件は「ゲッティンゲン七教授事件」(ゲッティンガー・ジーベン)として知られ、大学の自治権の歴史の中で特記すべきものである。7人の教授の中にはグリム兄弟や物理学者ヴェーバーも含まれ、その後、兄弟はベルリン大学に、ヴェーバーはライプツィヒ大学に移ることになる。その後ヴェーバーは1849年に復職した。
なお、後にこれにちなんで、1960年代末のアメリカの大学でヴェトナム戦争反対運動の中でリーダー的存在となったトム・ヘイドン、アビー・ホフマン、ジェリー・ルービンらが「シカゴ・セブン」と呼ばれた。
ゲッティンゲン大学で博士号を取得した人物は(女性も男性も)市庁舎前にあるガチョウ娘リーゼル(Gänseliesel)にキスを贈るという風習がある。この風習は1926年にこれを禁止する法令が制定されたが現在では伝統的行事として取り締まりは行われていない。2004年の放火事件によりリーゼル像は大きく破損したが現在は元の姿に戻っている。
著名人
上述のヴェーバー、グリム兄弟の他にも、数学ではガウス、リーマン、クラインの壺で有名なクライン、ヒルベルト、ゲルハルト・ゲンツェン、ハッセ、ワイル、哲学ではフッサール、物理学ではハイゼンベルク、プランク、法学ではイェーリング、神学ではカール・バルトといった著名な学者がここで教鞭を執った。
また、コッホやフレーベル、ショーペンハウアー、ハイネ、アメリカの物理学者オッペンハイマー、フンボルト、ハーバーマスなどもこの地で学んだ。数学者のクラインが同大学の教授時代、ヒルベルトを招聘した事でも知られる大学である。
ドイツの有力政治家を数多く輩出している。鉄血宰相ビスマルク、シュレーダー第7代連邦首相、ヴァイツゼッカー第6代連邦大統領もゲッティンゲン大学で学問を修めたのである。
日本人では仁科芳雄、本多光太郎、高木貞治などが在籍していた。
ちなみに札幌農学校初代教頭ウィリアム・スミス・クラークもここに留学しており、明治時代の日本人の留学生はゲッティンゲンに「月沈原」という漢字を当てた。
関連項目
外部リンク
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