コシャン (義王)

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コシャンモンゴル語: Qošang, ? - ?)は、モンゴル帝国大元ウルス)の皇族の一人。第5代皇帝クビライ・カーンの孫の威順王コンチェク・ブカの息子で、ウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)の側近としてボロト・テムル暗殺などに従事した事で知られる。『元史』などの漢文史料における表記は和尚

概要[編集]

コシャンの祖父のトガンは「鎮南王」という王号が示すように南方の鎮撫を委ねられた皇族であり、その息子達も主にマンジ(旧南宋領)を主な活躍の場としていたが、コシャンのみはウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)の側近として一族を離れ活動していた。コシャンはウカート・カーンの側近として信頼されており、「義王」に封ぜられて常にウカート・カーンの側近くにあって行動をともにしていたという。

1364年至正24年)、かねてより河南軍閥のココ・テムルと朝廷における主導権争いをしていた山西軍閥のボロト・テムルは首都の大都を軍事占領し、自らは中書右丞相(中書省の長)を称して朝廷を掌握した。しかし、カーンを軽視して独裁的に権力を振るうボロト・テムルに対する反発は根強く、コシャンはしばしばボロト・テムルを取り除くようウカート・カーンに奏上していた。

その後、遂にウカート・カーンよりボロト・テムル討伐の密旨を受けたコシャンは儒士の徐士本と組み、実行犯として上都馬・金ノカイ(那海)・バヤンダル(伯顔達児)・テグスブカ(帖古思不花)・火你忽都・洪宝宝・黄カラバト(哈剌八禿)・龍従雲らを集め、ボロト・テムル暗殺計画を立てた。

1365年(至正25年)7月、ボロト・テムルが上奏のために延春閣に至った時、かねてからの計画通りまずバヤンダルがボロト・テムルの頭に切りつけ、また上都馬らが取り囲んで滅多刺しにしたことでボロト・テムルは殺された。

しかし、ボロト・テムルをめぐる内乱によって大元ウルスの統制力は更に低下し、1368年(至正28年)には江南一帯を平定した朱元璋明朝を建国し、大都攻略のために大軍勢を派遣する事態となった。ここに至ってウカート・カーンは大都に籠城せずモンゴル高原に撤退することを決定し、大都の残留部隊司令官にコシャンの叔父淮王テムル・ブカを任命し、コシャンも大都に残留し叔父を補佐することになった。大都の陥落時にテムル・ブカは戦死し、コシャンは逃れたと伝えられているが、その後の活動については記録がない。

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鎮南王トガン家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣伝「[至正]二十五年……威順王子和尚、受帝密旨、与徐士本謀、結勇士上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪宝宝等、陰図刺之。七月乙酉、値禿堅帖木児遣人来告上都之捷、孛羅帖木児起入奏、行至延春閣李樹下、伯顔達児自衆中奮出、斫孛羅帖木児、中其脳、上都馬及金那海等競前斫死」
  2. ^ 『元史』巻117列伝4寛徹普化伝,「寛徹普化、世祖之孫、鎮南王脱歓子也。……其子曰和尚者、封義王、侍従順帝左右、多著労效、帝出入常与倶。至正二十四年、孛羅帖木児称兵犯闕、遂為中書右丞相、総握国柄、恣為淫虐。和尚心忿其無君、数為帝言之。受密旨、与儒士徐士本謀、交結勇士上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪宝宝・黄哈剌八禿・龍従雲、陰図刺孛羅帖木児。帝期以事済、放鴿鈴為号、徐士本掌之。明年七月、孛羅帖木児入奏事、行至延春閣李樹下、伯顔達児自衆中奮出、斫孛羅帖木児、中其脳、上都馬等競前斫死之。詳見『孛羅帖木児伝』。二十八年、順帝将北奔、詔淮王帖木児不花監国、而以和尚佐之、及京城将破、即先遁、不知所之」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 野口周一「元代後半期の王号授与について」『史学』56号、1986年
  • 元史』巻117列伝4
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻105列伝87