コルホーズ

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コルホーズでキャベツの取入れ(1938年)
ソ連郵便の切手のコルホーズニツァ(コルホーズの女性労働者)1958年

コルホーズロシア語: колхоз英語: kolkhoz)とは、ソビエト連邦集団農場のことである。全て国有だったソフホーズと違い、半官半民で協同組合に近い。ロシア語の «коллективное хозяйство»コレクティーヴノエ・ハジャイストヴァ の略で「共同経営」「集団農場」といった意味である。農業に限らず、漁業コルホーズ、林業コルホーズなどもある。

国有地を無料で使用して耕作を行った。主な農機具・家畜等は共有。労働者は組合員としてコルホーズで農作業を行い賃金を得る。生産物は政府に売却する。組合組織による経営であった。各個人の住宅に付属した小規模農地で野菜の栽培、家畜の飼育が可能で、個人で生産した生産物は自由な販売を認められていた。

歴史[編集]

1926年から農作物、特に穀物の調達危機が発生しており、これがコルホーズ移行への原因となった。

コルホーズへの移行の原因は、ネップ期の間に大きく開いた工業製品と食糧農作物の価格差という意見が中心であるが、この評価は西洋史学とソヴィエト史学では見解が異なる。西洋史学の場合、農民には経済的自由が与えられていたため良心的な値段がつけられていたが、工場等は国家の所有であったために、不当に人民から搾取する高値がつけられたというものである。一方ソヴィエト史学においては、ソヴィエト政府が帝政期の借金を踏み倒したために外国資本が流入しなかったことから工業の発展が遅れ、鉄鋼および電力が不足していたことから高値になるほかなかったという立場を取る。いずれにせよ、工業製品と農作物の間の価格差は、工業製品を手に入れたい農民にとって、農産物の価格高騰を望む大きな動機になっていた。これが国内の食糧不足を引き起こし、調達危機を招いたのである。

1928年ソ連政府が発表した第一次五ヶ年計画の中核に、農業の集団化が据えられていた。ネップにより復活した農産物の投機的売買の撲滅を促進し、農業を集団化することが目的で、この五ヶ年計画中にソビエト全土でコルホーズを組織するキャンペーンが行われた。

土地を個人所有する自作農である富農は労働を義務化されていなかったが、自発的労働の名において労働に従事した。

この急速な集団化に対する反対行動や騒擾により、1930年代前半に多くの事件が発生し逮捕が行われたが、開拓地などに設立されたソフホーズ(国営農場)とともにソビエト農業の基本構造となった。

第二次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団農場による農業の集団化を実行した。一方、1960年代以降、工業化と流通の非効率により2億人を超えたソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。

1991年にソビエト連邦が解体されると、コルホーズの存在意義が問われるようになった。ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。その一方、共同体意識が強く残るロシア連邦の農村などでは従来のコルホーズが形を変えながら維持されているとの指摘もある[誰?]

現在のコルホーズ[編集]

もともと、コレクティーヴノエ・ハジャイストヴァ(集団の経済活動)の略語であるコルホーズは、かつては農業だけでなく漁業林業などにも広く使われ、現在でもその名で経済活動が行われている所もある。

ロシアおよびウクライナでは、かつてのコルホーズは解体しているが、ロシアでは2007年のデータで農産物の内の穀物ヒマワリの種、鶏卵の大部分がコルホーズを引きずる農業企業で生産され、農民経営(自営農)、住民副業(ダーチャでのジャガイモ野菜などの栽培が多い)での生産は少ないことが報告されている[1]

漁業では、カムチャツカ地方の「レーニン漁業コルホーズ」設立85周年の祝賀式典が2014年にあったと伝えられている[2]。林業では、もとソビエト連邦に属した国々では、過去の林業コルホーズの状態を脱した状態、脱しえない状態の両方がある[3]

もとソビエト連邦に属したベラルーシでは、いまだにコルホーズ、ソフホーズ主体の農業を継続しており、ソ連期と比較してその傾向はむしろ強められているとも報告されている[4][5][6]

関連項目[編集]

脚注[編集]