コレジオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動

コレジオポルトガル語: collegio、学林)は、聖職者育成のための神学校(最高学府)である。コレジヨともいう。狭義では、イエズス会によって1581年天正9年)に豊後国府内(現大分県大分市)に設置されたものを指す。その施設は島原の加津佐(現長崎県南島原市)を経て、熊本の天草(現熊本県天草市)、その後長崎に移転した。

現在は、旧長崎大司教館に設けられたカトリック長崎大司教区が運営する司祭を目指す神学生の寄宿学習施設「長崎コレジオ」として名を残している。

概要[編集]

天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)伊東は右上、中浦は右下、千々石は左上、原は左下

府内・加津佐コレジオ[編集]

1579年に巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、当時の日本地区の責任者であったフランシスコ・カブラルの方針を改めて、日本人聖職者育成のため各地に教育施設の設置を進めた。府内のコレジオは、1580年(天正8年)に有馬(現長崎県南島原市)と安土(現滋賀県近江八幡市安土町)に設立されたセミナリヨ、同年に臼杵(現大分県臼杵市)に設立されたノビシャド(修練院のこと)とともに、その一環として設けられたものである。

当時、府内はキリスト教の有力な庇護者であった大友義鎮(大友宗麟)の本拠地であり(ただし、宗麟は1576年(天正4年)に家督を息子の大友義統に譲り、臼杵の丹生島城に居を移して二元統治を行っている)、日本におけるキリスト教布教の拠点として、宣教師が滞在し、数多くの信者を抱えていた。

府内に開設されたコレジオでは、聖職者育成と一般教養の両方の教育が行われ、キリシタン改宗した士族や宣教師を志す日本人・外国人に対して、キリスト教、ラテン語、音楽、数学などの講義が行われた。また、養方軒パウロなどにより外国人宣教師のための日本語の講義も行われたという。ポルトガル王国出身の宣教師・通訳で、日本に関する重要な著作を遺したジョアン・ロドリゲスは、臼杵のノビシャドを経て、府内のコレジオで学んだとされる。

しかし、府内は1586年(天正14年)に島津家久による焼き討ちに遭い、壊滅(豊薩合戦)。コレジオは、その後、1590年(天正18年)に島原の加津佐に移った。加津佐では日本初となる活版印刷機(グーテンベルク印刷機)を導入。以降、コレジオではキリシタン版の出版が行われた。

天草コレジオ[編集]

コレジオは1591年5月、さらに奥まったところに潜伏するために、加津佐から天草に移動した。この時の移動には、有力キリスト教徒領主等の勧めがあった。折からインディア副王への秀吉の返書を、少しでも教会に対して穏やかな内容に修正してもらう交渉をしていた最中であった。[1]「天草国人一揆(天正の天草合戦)」(1589年)で小西行長と加藤清正の連合軍に敗れた天草久種が、講和し、小西の家臣団に組み込まれた後、領地を安堵された。[2]天草コレジオは、天草氏が提供した家屋とイエズス会が所有していたカザを基に作られ、大村の修練院も同地に移された。[3]

コレジオが天草にあったのは1597年(慶長2年)9月または10月まで存在した。[4]天正遣欧少年使節の伊東マンシオ、原マルティニョ、中浦ジュリアン千々石ミゲルなどもそこで勉強した。

グーテンベルク式の金属活字印刷機で羅葡日対訳辞書や『平家物語』、『エソポのファブラス』(『イソップ物語』)、など文学書や信心書など12種類が刊行された。[5]その内、『平家物語』(ブリティッシュ・ミュージアム蔵)は序文の「読誦(どくしょう)の人に対して書す」から作者はイルマン・不干・ハビアン(ファビアン)[6]とされる。口語の対話体に編集され、一つの異本とされる。外国人宣教師などに、日本の歴史や日本語を習得させるために作成されたものという。[7]

天草コレジオの院長(レイトル)はカステリア人のパードレ・フランシスコ・カルデロン[8]そして1596年には副院長だったポルトガル人でパードレ・ディオゴ・デ・メスキタ[9]が就任した。1591年10月6日時点で、天草コレジオ居住者はパードレ・イルマン合わせて約60人。同宿・従僕合わせて60人以上で、合計120人を超える規模だった。(修練院所属の修練者も含まれる。)コレジオと修練院が同じ建物で教室、個室、共同部屋などがあった。また、用務部屋には食糧倉庫、調理・食堂などがあり、そして印刷所があった。[10]

教育内容はラテン語(含古典学)や良心問題、「要綱」(ラテン語の原文または主要部分の邦訳書)、日本語の学文(文字と文書体、日本の書籍)などを学んだ。[11]

サン・フェリペ号事件を契機に始まった迫害への対策で、1597年(慶長2年)10月頃、天草コレジオを取り壊して、印刷機と共に長崎(トドス・オス・サントス)に移動した。[12]

天草コレジオ跡地論争について・研究史[編集]

天草でのコレジオの位置については、本渡、河浦など諸説あり、論争が続いてきた。[13]

天草伊豆守種元の本戸(本渡)城下やその周辺にあったとするこれまでの説に対し、1958年に今村義孝氏が新聞に、また鶴田倉造氏が熊本史学に「天草学林河内浦説の提唱」を発表し、論争に火がついた。[14]それによるとルイス・フロイスの『日本史』など外国文献から当時、宣教師たちが指す天草は本渡ではなく、河内浦(河浦)であって「天草コレジオ」は河内浦に天草久種(ドン・ジョアン)が誘致したとする説だ。

1985年には本渡町本戸馬場の河内山ため池から十字架を刻んだ石碑が見つかる。天草郷土資料館の錦戸宏館長がコレジオ跡地ではないかと新聞に発表した。[15]錦戸館長によると、 (1)『天草郡資料』の天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。[16] (2)1590年の日本イエズス会第2回総協議会で「天草の全諸島の中央に位置する本渡の城下に本拠を置く」との決定事項がある。[17] このことから、天草久種小西行長の家臣団に組み込まれた後、河浦から本渡に中心が移り、本渡にコレジオができたのではないかと主張した。

河浦説の候補地だった中学校校庭は洪水被害が頻繁に起こり、ここは不適だと撤回。その後、河内浦古城山の天満宮境内[18]や一町田の安養寺(真宗)ではないかと推定。安養寺は1990年、寺社再建のため境内を整地したところ、河内浦城から出土したものと同じ中世の土師器や青磁、白磁の破片などが出土したが、キリシタン遺物は出なかった。[19]また墓地に島原・天草の乱後のものだが1667(寛文7)年没と刻まれたキリシタン様式の墓碑と推定される青木源太夫の墓もある。[20]

一方、本渡説の候補地は、本渡町の丸尾ヶ丘[21]や本渡町本戸馬場の河内山ため池付近(西の久保公園)[22]などがある。東向寺出土とされていた天草郷土資料館旧蔵「コレジオの鐘」は同館の調査によると、東京国立文化財研究所の化学的分析で、鉛同位体比測定し、東アジア以外で作られたとの結果が出たが、製作年代が不明のため、イギリスの国立博物館でビクトリア&アルバート博物館に鑑定を依頼したところ19世紀のもので、1840年~1860年に作られた青銅の鋳物であり、天草コレジオとは一切、関係がないことが分かった。後に錦戸氏も東向寺出土を否定している。[23]

本渡町の丸尾ヶ丘と河浦支所横の公園(旧河浦中学校校庭)には、それぞれ天草コレジオ跡をうたう記念碑が建てられているが、天草市は「コレジオはここ、という公式見解は持っていない」との立場だ。[24]

しかし、2001年6月、長崎市にある日本二十六聖人記念館の結城了悟元館長が発行した冊子『天草コレジョ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父[25]の記事の訳文を示し、河浦(河内浦)にコレジオがあったとして「疑問の余地がない」と発表。しかし出典先に記事はなく、原文の公開を求めても「史料を提供してくれた友人が亡くなり、連絡が取れない」との理由で、史料は公開されないまま2008年、結城氏は亡くなる。[26]

その11年後、地元の研究家らで作る天草キリシタン研究会(浜崎献作会長)が2019年11月から調査したところ、その古文書は大英図書館(英国)に所蔵されていることを突き止めた。東京大学史料編纂所の記録によると1988年頃にはすでに大英博物館ではなく、大英図書館が所蔵していたことが分かった。[27]写真を入手し、慶應義塾大学高瀬弘一郎名誉教授に解読を依頼。2020年2月9日、西日本新聞に発表した。同氏の訳によると「天草の内のカワチノウラ(河内浦)という地では彼らは慰められた。そこは迫害の時に、永年にわたりコレジオがひっそりと存在した地であった。」と書かれている。所在地について現在の熊本県天草市河浦にあったことを示す史料で、具体的な地名について言及した文書の原本が確認されたのは初めてとなる。[28]

さらに同会は翌3月にオーストリアウイーンにあるオーストリア国立図書館で新史料を発見。2020年4月20日、天草テレビで、さらに5月11日に西日本新聞で発表した。この史料はイエズス会宣教師のルイス・ピニェイロが1617年にスペインマドリッドで出版したスペイン語の書物「われわれの聖信仰が日本諸王国において得た成果の報告」。巻末にはイエズス会のパードレたちが日本に所有していたカザ(修院)、レジデンシア(駐在所)、および迫害で失われたもの、その移動についての一覧の中に「肥後国、河内浦」には「コレジオ」があったと書かれている。 一方、本渡は栖本、久玉、大矢野と同様にレジデンシアがあったことが書かれており、本渡にコレジオがあったとは書かれていない。[29]高瀬弘一郎名誉教授は「天草コレジオが河内浦に所在した証拠の一つになる。跡地論争に関してはもはや議論の余地はない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年度イエズス会年報』とルイス・ピニェイロの著書この2つの史料は河浦説を決定づけ、60年以上続いた跡地論争に終止符を打った。[30]

また、1959年7月『熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表した天草キリシタン史研究家で熊本県宇城市の鶴田倉造氏が2020年4月22日午前4時6分、老衰のため熊本市内の病院で死去した。享年97歳だった。天草テレビは「面会した家族が証拠発見の知らせを伝えると、指でピースサインをした後『ありがとう・・』と微かな声で喜びを伝えた。そして2つ目の証拠が発見されたことを伝える天草テレビの番組が公開された2日後、結果を見届けたように息を引き取った。」と伝えている。[31]

今後はこれを裏付ける国内史料や考古学の遺物や遺跡発見が課題となる。

脚注[編集]

  1. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 353頁。
  2. ^ 『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。737頁。
  3. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁。
  4. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁。
  5. ^ 公教要理〜1、信心書〜6、文学〜3、語学書〜2。この内国字、国文のもので現存は1。今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。131~157頁。
  6. ^ Ir.Unguio Fabiam,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.290. イルマン・うんぎょ・ハビアンIr.Unguio Fabiam 日本人、ラテン語を少し理解する。教師、日本語を教えている。高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 228頁。
  7. ^ 今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。141頁。
  8. ^ P.Francisco Calderón,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.288.
  9. ^ P.Diogo de Misquita,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p288. 1596年2月15日付け長崎発、ディオゴ・デ・メスキタのイエズス会総長宛書簡に、「私に関しては、現在セミナリオの聖務にあるパードレ・フランシスコ・カルデロンに代わって、このコレジオのすべての事柄が私に任されていることに対して(後略)」高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 321頁
  10. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁
  11. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁
  12. ^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 354頁
  13. ^ 鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年10月1日発行。西日本新聞 「天草コレジオ謎のまま?跡地の所在 かつて大論争 合併で下火 郷土史家危機感」(2019年12月14日朝刊、18日夕刊)天草テレビ ウェブサイト「天草コレジオはどこに? 60年以上も論争 決定的な証拠見つからず」
  14. ^ 「天草学林は河浦にあった、外国文献から推論」熊本日日新聞1958年12月3日より3回。鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」『熊本史学』第17号、1959年7月。鶴田倉造「天草キリシタン史の問題-天草殿ドン・ミゲル及びドン・ジョアンは誰か」『キリシタン文化研究会報』第7年第2号、1963年10月。
  15. ^ 天草毎日新聞「池の底から十字架の標識出現!天草学林跡かコレジョ本渡説浮上」1985年12月25日。毎日新聞「コレジオ跡地論争に終止符?十字架刻んだ石碑本渡で発見」1986年1月3日。読売新聞「歴史ロマン探る現地調査 十字架刻んだ石」1986年2月5日。
  16. ^ 『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。737頁。
  17. ^ 日本イエズス会第2回総協議会 「日本イエズス会第2回総協議会議事録と決裁」キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第16輯、吉川弘文館、1976年、283頁。
  18. ^ 鶴田文史「天草学林所在地論の真実」『河浦町郷土史第7輯』河浦町教育委員会、1995年、78〜81頁。
  19. ^ 川崎富人『川嵜家由緒書』イナガキ印刷、2001年、16頁。
  20. ^ 鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。63頁。
  21. ^ 梅住栄太郎「天草学林史蹟参考地 丸尾ヶ丘に就いて」鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年。17〜24頁。
  22. ^ 天草毎日新聞「池の底から十字架の標識出現!天草学林跡かコレジョ本渡説浮上」1985年12月25日。毎日新聞「コレジオ跡地論争に終止符?十字架刻んだ石碑本渡で発見」1986年1月3日。読売新聞「歴史ロマン探る現地調査 十字架刻んだ石」1986年2月5日。錦戸宏「天草学林と小西行長 本渡説の消えない理由」天草毎日新聞1995年1月1日。
  23. ^ 天草テレビ ウェブサイト「ニュース&トピックス 天草郷土資料館所蔵『コレジオの鐘』について」(Anthony North,Victoria and Albert Museum,3 August 1998.)
  24. ^ 西日本新聞 「天草コレジオ謎のまま?跡地の所在 かつて大論争 合併で下火 郷土史家危機感」(2019年12月14日朝刊、18日夕刊)
  25. ^ ロドリゲス神父は1560年、ポルトガルに生まれ、イエズス会に入り司祭として88年に来日。翌年、現在の長崎県大村市や92年、南島原市の八良尾にあったセミナリオで布教し、1603年に日本管区の代表としてローマに派遣された。P.Francisco Rodrigues S.J.,c.1560-1606 Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes, 1549-1654 pp.293,1283,414-415。 キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第24輯 1984年 チースリク「マトス神父回想録」(40)86頁。
  26. ^ 結城了悟『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』日本二十六聖人記念館、2001年6月29日発行。44頁に、「天草では迫害の時、長い間コレジオがひっそりと置かれていた河内浦という町に、(後略)」この原文の出典先として48頁に、「British Museum,Add.Mss.9857」と記述されているが、そこに同文はない。
  27. ^ フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年度イエズス会年報』1601年9月30日付の古文書に書かれている。しかし、結城了悟『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』日本二十六聖人記念館、2001年6月29日発行、48頁の出典先は誤り。大英博物館(British Museum)ではなく、大英図書館(British Library)が所蔵している。また、フォリオ数も誤りで、9857ではなく9859が正しい。結城氏の『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』(日本二十六聖人記念館)は2001年6月29日発行なので、この時点ではすでに大英博物館にはない訳で、結城氏自身、実はこの原文を見ていなかったのではないかという疑問が残るが、亡くなられた今となっては確かめようがない。
  28. ^ 西日本新聞 「天草コレジオ 謎に光 河浦示す古文書 英国に キリシタン最高学府所在地論争60年超」(2020年2月9日朝刊 社会面)天草テレビ ウェブサイト「天草コレジオは河浦に!跡地論争に終止符か 大英図書館に場所を示す古文書」(2020年2月19日)
  29. ^ スペイン語で出版された後、翌年にフランス語版がパリで出版され、オーストリア国立図書館のほかフランスのリヨン市立図書館などが所蔵している。Luys Pinheyro, "Relacion del sucesso que tuvo nuestra santa Fe en los reynos del Japon, desde el ano de 612 hasta el de 615 imperenado Cubosama"Viuda de Alonso Martin de Balboa, 1617.P514. 天草テレビ ウェブサイト「新史料再び発見!オーストリア国立図書館に所蔵/河浦に天草コレジオ」(2020年2月20日)
  30. ^ 天草テレビ ウェブサイト「新史料再び発見!オーストリア国立図書館に所蔵/河浦に天草コレジオ」(2020年2月20日)西日本新聞「『河浦にコレジオ』新資料 天草の研究会 再び確認 イエズス会の古書に記述」(2020年5月11日朝刊・熊本県版)、朝日新聞「天草コレジオ『肥後国、河内浦に』 現在の河浦町 郷土史家らの論争幕 17世紀イエズス会の史料に記述 天草キリシタン研究会調査」(2020年6月4日朝刊・熊本県版)
  31. ^ 天草テレビ ウェブサイト「鶴田倉造氏が死去 天草コレジオ河内浦説を提唱 関係者から惜しむ声」(2020年2月22日)西日本新聞 「河浦説提唱の鶴田さん『ありがとう』笑顔で逝く」(2020年5月11日朝刊)

参考文献[編集]

  • 高瀬弘一郎『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年。
  • Schütte,Monumenta historica Japoniae I
  • 今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。
  • 鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年。
  • 鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」『熊本史学』、1958年。
  • 『キリシタン文化研究会報』7-2、1963年。
  • 『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類
  • キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第16輯、吉川弘文館、1976年。
  • 鶴田文史『河浦町郷土史第7輯』河浦町教育委員会、1995年。
  • 川崎富人『川嵜家由緒書』イナガキ印刷、2001年。
  • 鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。

関連項目[編集]

  • 天草コレジヨ館 - 熊本県天草市河浦町にあり、グーテンベルク印刷機の複製、古い楽器、その他の資料がある。