コンゴ共和国

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コンゴ共和国
République du Congo
コンゴ共和国の国旗 コンゴ共和国の国章
国旗 国章
国の標語:Unite, Travail, Progres
(フランス語: 統一、労働、進歩)
国歌コンゴの歌
コンゴ共和国の位置
公用語 フランス語
首都 ブラザヴィル
最大の都市 ブラザヴィル
政府
大統領 ドニ・サスヌゲソ
首相英語版 クレマン・ムアンバ英語版
面積
総計 342,000km262位
水面積率 0.1%
人口
総計(2012年 4,200,000人(???位
人口密度 9人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 4兆8,019[1]CFAフラン
GDP(MER
合計(2008年 107億[1]ドル(119位
GDP(PPP
合計(2008年142億[1]ドル(118位
1人あたり 3,912[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1960年8月15日
通貨 CFAフランXAF
時間帯 UTC (+1)(DST:なし)
ISO 3166-1 CG / COG
ccTLD .cg
国際電話番号 242

コンゴ共和国(コンゴきょうわこく)は、中部アフリカに位置する共和制国家。東にコンゴ民主共和国、北にカメルーン中央アフリカ、西にガボン、南にアンゴラ飛地カビンダと国境を接している。首都はブラザヴィル

二つのコンゴとアンゴラ北部は15世紀頃まではコンゴ王国の一体的な領域だったが、16世紀にポルトガルによる征服を経た後に、19世紀のベルリン会議ベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)とフランス領(現在のコンゴ共和国)とポルトガル領に分けられた。1970年から1991年までの期間はコンゴ人民共和国という国名だった。

国名[編集]

正式名称はフランス語で République du Congo (レピュブリク・デュ・コンゴ)。

公式の英語表記は Republic of the Congo (リパブリク・ァヴ・ザ・コンゴ)。

日本語の表記はコンゴ共和国。「コンゴ」はバントゥー語で「山」を意味する[2]

コンゴ共和国の正式名称は2度の変更を経ている。1960年の独立時には現在と同じコンゴ共和国だったのだが、1969年にマリアン・ングアビ政権の元でコンゴ人民共和国に改称され、1991年に再びコンゴ共和国へと名称が戻された。

1960年から1964年の間、現在のコンゴ民主共和国も「コンゴ共和国」を正式国名としており[3][4][5]、区別のために首都名を付してコンゴ・ブラザヴィル等と呼ばれた。一方、コンゴ民主共和国がザイール共和国と改称していた1971年-1997年の期間はコンゴ(人民)共和国を指す通称として単にコンゴとも呼ばれていた。

フランス領コンゴ

歴史[編集]

ポルトガル人が15世紀に到来したとき、海岸地域はコンゴ王国の統治下にあった。コンゴ王国はポルトガルと盛んに交易を行ったものの、奴隷貿易などで徐々に衰退していった。1550年にコンゴ王国の北部がロアンゴ王国英語版として独立し、1882年まで続いた。

フランス植民地時代[編集]

19世紀後半にはフランスがこの地域に進出し、オゴウェ川流域から進入したピエール・ブラザによって1880年には現在のブラザヴィル周辺のコンゴ川北岸がフランスの勢力圏となり[6]フランス領コンゴが成立した。1885年のベルリン会議によってこの地域の支配権が対外的にも承認され、フランスはコンゴ川に沿ってさらに勢力を拡大していった[7]1905年には中央コンゴに改称されるとともに西部をガボン、北部をウバンギ・シャリおよびチャドに分割し、1910年にはガボンおよびウバンギ・シャリとの連合によって中部コンゴはフランス領赤道アフリカの一部となった[8]。中部コンゴと周辺植民地との境界はしばしば変更されたが、最終的に1946年にオートオゴウェ州がコンゴからガボンに帰属変更され、オゴウェ・コンゴ両河川の分水界が境界となることで領域が固定した[9]。。

フランスの植民地政策は1920年代までは特許会社を通じた収奪的なもので、同化政策はほぼ行われなかった[10]。一方1920年代後半に入ると、社会運動家アンドレ・マツワが原住民友愛協会をパリで組織し、黒人差別反対を唱えて盛んに活動を行った。マツワは1929年に逮捕されてブラザヴィルに送還され、さらにチャドへと流されたが、この運動はやがてマツワニズムとしてマツワをあがめる宗教運動へと変質するとともに、コンゴの民族主義運動のはしりと見なされるようになった[11]。1930年代に入ると植民地政府の手で徐々に開発が進められ、1934年には首府のブラザヴィルと外港のポワントノワール間にコンゴ・オセアン鉄道が開通したものの、経済面や教育面などで開発は非常に遅々としたものにとどまっていた[12]。第二次世界大戦においてはコンゴ植民地はほかの赤道アフリカ植民地と歩調を合わせて自由フランス支持を早期に表明した[13]1946年にはフランス議会に議席を獲得し、また赤道アフリカ大評議会と中央コンゴ領域議会が同時に設置された[14]1958年には国民投票により、フランス共同体内の自治共和国となった[15]。当時、コンゴ政界はフェリックス・チカヤのコンゴ進歩党(PPC)、ムボチ人を主体とするジャック・オパンゴールのアフリカ人社会主義運動(MSA)、そしてラリ族を主体とするフルベール・ユールーのアフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)の三党鼎立の状態にあったが、進歩党は1957年には失速し、MSAとUDDIAの有力二党の選挙戦で1958年にUDDIAが勝利を収め[16]、ユールーが自治共和国の首相となった[17]

独立[編集]

1960年にはコンゴ共和国として正式独立し、大統領には親仏派のフルベール・ユールーが就任した。しかしユールー政権の腐敗および独裁に対する不満が高まり、1963年8月13日には首都ブラザヴィルで人民が蜂起。「8月革命」が起こり、わずか3日間でユールー政権を打倒した。8月16日には穏健左派のアルフォンセ・マサンバ=デバが大統領に就任し、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、「経済開発計画」(1964~1969年)に基く工業化、古い国家機構の改革など、民族民主革命を実行する政策を追求する社会主義路線を歩んだ[18]。しかし党や軍の下級層が急進化してマサンバ=デバ政権と対立するようになり、1968年にはマリアン・ングアビ大尉によるクーデターが勃発してマサンバ=デバは失脚し、ングアビが代わって大統領に就任した。ングアビ政権はさらに左派寄りの立場を鮮明にし、1969年12月には国名を「コンゴ人民共和国」と改め、コンゴ労働党(PCT)を設立して一党独裁制を取るとともに、マルクス=レーニン主義に基づく国造りを進めた[19]

1977年3月にングアビは暗殺され、首謀者とみなされたマサンバ=デバなど数人の要人が軍部に処刑された。政権はジョアキム・ヨンビ=オパンゴが継いだ[20]

サスヌゲソ政権[編集]

1979年にはヨンビ=オパンゴに代わり、ドニ・サスヌゲソが政権の座に就いた。その後1990年代に入ると近隣諸国と同様にコンゴでも民主化要求が強まり、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼上のものにとどめられるようになるとともに、複数政党制が導入され、共産主義を放棄して国名を「コンゴ人民共和国」から独立時の「コンゴ共和国」に戻し、国旗も変更された。1992年の選挙では、北部に基盤を置きサスヌゲソが率いるコンゴ労働党、南部に基盤を置きパスカル・リスバの率いる社会民主主義パン・アフリカン連合(UPADS)、そして中部および首都ブラザヴィルに基盤を置きベルナール・コレラ英語版が率いるコンゴ民主統合発展運動英語版(MCDDI)の有力三党が対決し、UPADSが勝利してリスバが大統領に就任した[21]

しかし各政党はサスヌゲソ派の「コブラ」、リスバ派の「ズールー」、そしてコレラ派の「ニンジャ」といった私兵を抱えて対立を続け、1993年6月にはリスバが連立相手である民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したのを機に衝突が起きてコンゴ共和国内戦英語版が勃発した。1994年1月には停戦が成立し同年8月にはコレラがブラザヴィル市長に就任したものの、各党は私兵を抱えたままであり、不穏な情勢は続いていた[22]1997年6月には戦闘が再開され、サスヌゲソ派とリスバ派の両私兵集団が戦闘と虐殺を繰り広げ、そして9月にリスバがコレラを首相に任命して同盟を組んだことでコレラ派のニンジャも戦闘に加わった。この内戦は結局、10月にサスヌゲソ派がリスバ・コレラ連合を破って首都を制圧し[23]1999年12月には停戦合意が行われたことで終結した[24]

大統領に再度就任したサスヌゲソは権力基盤を固めることに成功し、以後の選挙でも再選を重ねている。一方で私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後コレラの統制下を離れてフレデリック・ビツァング英語版(通称ントゥミ牧師)率いるレジスタンス国民会議のもとで武装闘争を継続し、首都周辺で襲撃を繰り返した。2016年にもブラザヴィルでニンジャとみられる襲撃があり、5人が死亡している[25]。この襲撃は、2017年に両勢力間で和平合意が成立するまで続いた[26]

政治[編集]

コンゴの共和国議会二院制を取っている。コンゴ共和国は複数政党制民主主義を称しているが、与党コンゴ労働党 (Parti Congolais du TravailCongolese Labour Party、PCT)の勢力が非常に強い。大統領のドニ・サスヌゲソは1979年から1992年まで一党制時代の大統領を務め、その後1997年の内戦に勝利して以降再び長期にわたって政権の座にあるが、独裁的な傾向や腐敗が度々指摘されている。2015年には憲法改正によって大統領の三選禁止規定が撤廃され[27]、2016年の大統領選挙でもサスヌゲソが再選されたものの、野党勢力は選挙不正に対して抗議を行っている[28]

このほか野党としては、次のものがある。

  • 社会民主主義パン・アフリカン連合 (Union Panafricaine pour la Démocratie SocialePan-African Union for Social-Democracy、UPADS)
  • コンゴ民主統合発展運動 (Mouvement congolais pour la démocratie et le développement intégralCongolese Movement for Democracy and Integral Development、MCDDI)
  • 民主救済会議 (Convention pour la Démocratie et le SalutConvention for Democracy and Salvation)
  • 統一民主勢力 (Forces Démocratiques UniesUnited Democratic Forces)
  • 民主共和連合 (Union pour la Démocratie et la République-MwindaUnion for Democracy and Republic)
  • 民主改革連合 (Union pour la Renouveau DémocratiqueUnion for Democratic Renewal)
  • 民主開発連合 (民主発展連合、Rassemblement pour la démocratie et le développementRally for Democracy and Development)

このうちUPADSとMCDDIは1997年まで現与党と激しい内戦を繰り広げており、その後も議会内野党となっているが、勢力は大きくない。

地方行政区分[編集]

コンゴ共和国の地域行政区分図

コンゴ共和国は、首都のブラザヴィル (Brazzaville) と10の地方(フランス語:région)に分かれている。括弧内の地名は当該地方の中心都市である。

主要都市[編集]

最大都市は首都のブラザヴィル(都市圏人口189万人、2015年)[29]である。ブラザヴィルは政治機能が集中しているほか、コンゴ川水運の終着点にあたるブラザヴィル港があり、国内北部の物流の結節点ともなっている。これに次ぐ都市は大西洋に面する港湾都市ポワントノワール(都市圏人口97万人、2015年)である[30]。ポワントノワールはコンゴの対外貿易の大半を担う貿易港であり、また沖合の油田地帯の開発拠点ともなっている。コンゴの大都市としてはこの2都市が突出しており、これ以外に国内に人口10万人を超える都市は存在しない。

地理[編集]

地形図

国土の南部にあるシャイユ山地に低い分水界が走っており、これによって水系は二分されている。分水界の南西部は主にクイルー川の水系となっており、丘陵や山地が多く起伏が激しい地形となっているためクイルー川の航行は不能である。海岸部近くにはマヨンベ山地が走り、そこから海岸まではわずかな平野が広がっている。一方分水界より北東はコンゴ川流域となっており、流域南部のバテケ高原からガボン国境にかけては山地が広がるものの、東部は広大なコンゴ盆地の一部であり、高低差の少ない平坦な地形となっている。西部のガボンとの国境はおおむねオゴウェ川流域とコンゴ川流域の分水界に沿ったものになっている[31]。北部はコンゴ川の支流であるウバンギ川が、中部はコンゴ川本流がコンゴ民主共和国との国境をなしている。コンゴ川本流部の南端にはマレボ湖が存在し、コンゴ盆地と急流部の境界となっているほか、マレボ湖北端には首都ブラザヴィルが存在する。また、マレボ湖に浮かぶ中州であるンバモウ島はコンゴ共和国領となっている。

気候は全般的に高温多湿で、首都ブラザヴィルの年平均気温は25℃、年降水量は1473mmである[32]。気候は南部がサバナ気候(Aw)に属し、北上するほど降水量が多くなって、北部は熱帯モンスーン気候(Am)や熱帯雨林気候(Af)の地域が多くなっている。海岸部から国土中部のバテケ高原付近までは、熱帯雨林の広がるマヨンベ・シャイユの両山地以外はサバンナが広がり、北部は熱帯雨林となっている。北東部のコンゴ川とサンガ川の間には広大な浸水林地帯が広がっている[33]。国土北端のヌアバレ=ンドキ国立公園英語版は隣接するカメルーンおよび中央アフリカの国立公園とともに、2012年にサンガ川流域の3か国保護地域として世界遺産に登録された。

経済[編集]

鉱業[編集]

天然ガス、カリ鉱石、亜鉛などの資源も存在するが開発はあまり進んでおらず、GDPの5割以上、輸出額の61.2%(2014年)を原油に頼っている状況である[34]。石油の生産は、ギニア湾に面したクイルー地方に集中しており、他の地域との経済格差も大きい。2018年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟した[35]。2009年にはシャイユ山地のマヨコで鉄鉱石の採掘がはじまった[36]

また1990年代後半は出所不詳のダイヤモンド原石の輸出もみられるようになり、紛争ダイヤモンドの横流し輸出が行われているのではないかとの指摘もなされるようになった。2004年に、紛争ダイヤモンドの流通防止を行うワールド・ダイヤモンド・カウンシルは、現地視察の結果を踏まえ、コンゴ共和国からのダイヤモンドの輸入を控えるよう呼びかけている。

農林業[編集]

自給自足的で、国民の基礎食糧となるキャッサバの生産が盛んに行われている。商品作物はサトウキビラッカセイタバコアブラヤシコーヒーカカオなどがあるが、いずれも独立後の経済開発の失敗によって生産は停滞しており、経済に対し大きな意味は持っていない[37]林業は独立時には主要産業であり、木材は輸出の約60%を占める主力輸出品であったが[38]、その後石油産業の成長によって割合は小さくなり、2014年には輸出の0.9%にまで縮小した[39]。しかし重要な産業であることには変わりなく、かつてはマヨンベ山地が、1960年代以降はコミログ支線沿いのシャイユ山地が主な産地となっている。北部の熱帯雨林の林業開発は進んでいない[40]

交通[編集]

コンゴ最大の港湾は海に面するポワントノワール港であり、周辺諸国を除く輸出入の大半がこの港で行われる。一方、ポワントノワールから内陸に入ると山岳地帯となるため、国内各地との連絡は良好とは言い難い。これを解消するため、1934年にはポワントノワールと首都ブラザビルとを結ぶコンゴ・オセアン鉄道が建設され[41]、1962年には途中のモンベロからガボンとの国境の町ムビンダまでCOMILOG支線が建設された[42]。ムビンダからガボンのモアンダまでは1959年に世界最長のロープウェイであるCOMILOGロープウェイが開通しており、この支線の建設によってモアンダ鉱山のマンガン輸送ルートが確立し、ポワントノワール港の重要取扱品となったが、1986年にトランスガボン鉄道がモアンダまで開通するとマンガンはガボン国内を輸送されることとなり、ロープウェイは廃止された。COMILOG支線も同時に廃止される予定であったが[43]、沿線の木材輸送需要が大きかったため存続することになり、2009年以降は鉄鉱石輸送も加わることとなった[44]。コンゴ・オセアン鉄道にポワントノワール港はコンゴ川水運と鉄道でつながっており、中央アフリカやチャドの外港としての役割も存在するものの、両国のポワントノワール貿易量に対する割合はさほど大きなものではない[45]

ブラザビルはコンゴ川の航行可能部の末端であるマレボ湖に面しており、これより上流の地域とは盛んに水運が行われ、内陸部の交通結節点・集散地となっている。コンゴ川本流のみならず、支流のウバンギ川は中央アフリカの首都バンギまで、サンガ川は国土北端のウェッソを通って中央アフリカのノラまで航行が可能であり、これも重要な輸送ルートとなっている。また、マレボ湖の対岸に位置するコンゴ民主共和国の首都キンシャサとはフェリー便の連絡がある[46]

空運では、ブラザビルのマヤマヤ空港と、ポワントノワール空港の二つの国際空港が存在する。

国際関係[編集]

旧宗主国であるフランスとの関係が強く、2017年にコンゴが受け取った政府開発援助の半分以上がフランス拠出のものであったが、一方で1970年代にマルクス・レーニン主義を取っていたこともあって伝統的に中華人民共和国との関係も深く、巨額の融資を受け取るなど経済的関係も強くなってきている[47]

日本との関係[編集]

  • 在留日本人数 - 8人(2017年7月)[48]
  • 在日コンゴ(共)人数 - 30人(2017年6月)[49]

国民[編集]

コンゴ共和国の人口推移(1961年-2003年

人口[編集]

コンゴ共和国の人口は急増を続けており、独立直後の1962年に82万人だった[50]人口は1986年には179万人[51]、2017年には526万人にまで増加した[52]

民族[編集]

コンゴ共和国の住民の内、コンゴ人が48%、サンガ人英語版が20%、ムボチ人英語版が12%、テケ人英語版が17%となり、ヨーロッパ人やその他(ピグミーは2%[53])が3%となる[54]。コンゴは民族対立の激しい国であり、特にコンゴ人を中心とする北部とムボチ人を中心とする南部の対立が激しい[55]。この民族対立は、1993年から1997年までのコンゴ共和国内戦における要因の一つとなった。

言語[編集]

公用語はフランス語であり、コンゴ語リンガラ語ムヌクツバ語などが話され、その他にも地方諸語が存在する[54]

宗教[編集]

国民の宗教動態は、カトリック教会を中心としたキリスト教が50%、アニミズムが48%、イスラム教が2%である[54]

教育[編集]

学校の子供たち

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は83.8%(男性:89.6%、女性:78.4%)である[54]。2005年にはGDPの1.9%が教育に支出された[54]

主な高等教育機関としてマリアン・ングアビ大学(1971)の名が挙げられる。

保健[編集]

コンゴ共和国における2007年のHIV感染者は推計で79,000人であり[54]、感染率は3.5%である[54]。2010年のコンゴ共和国人の平均寿命は54.54歳(男性:53.27歳、女性:55.84歳)である[54]

文学[編集]

ソニー・ラブ=タンシの『一つ半の生命』(1979)は、発表以降のアフリカ文学全体に多大な影響を及ぼした[56]

スポーツ[編集]

サッカーコンゴ共和国代表アフリカネイションズカップ1972で優勝し、以後もアフリカネイションズカップにおいて数度の本大会出場経験があるが、FIFAワールドカップはすべて予選敗退に終わっており、本大会に出場したことはない。アフリカ U-20ネイションズカップでは2007年にコンゴでアフリカユース選手権2007が開催され、コンゴ共和国が初優勝を決めた。オリンピックにおいては1964年以降コンゴ共和国選手団を出場させているものの、2016年時点でメダルを獲得したことはない。

音楽[編集]

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Jour de l'an
イースターの日曜日の次の月曜日 イースターの月曜日 Lundi de Pâques
5月1日 メーデー Fête du Travail
イースターから40日後の木曜日 キリストの昇天 Ascension 復活したイエズスの昇天
イースターの後の第7日曜日 ペンテコステ Pentecôte (et Lundi de Pentecôte) 聖霊が使徒の間に降臨
6月10日 国民最高会議記念日 Fête de la commémoration de la conférence nationale souveraine
8月15日 国民記念日と聖母の被昇天 Fête Nationale & Assomption
11月1日 諸聖人の日 Toussaint
12月25日 クリスマス Noël イエズス・クリストゥスの生誕

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 本保正紀 (1995), “コンゴ共和国”, 外国地名由来辞典, 能登印刷出版部 
  3. ^ Constitution de la République Démocratique du Congo du 1er août 1964 (1964年8月1日のコンゴ民主共和国憲法)” (フランス語). Global Legal Information Network (1964年). 2012年6月12日閲覧。
  4. ^ Thomas Turner (1993年). “Chapter 4 - Government and Politics: Postindependence Political Development” (英語). A Country Study: Zaire (Former). アメリカ議会図書館. p. 3. 2012年6月12日閲覧。 “Zaire was formally called the Republic of the Congo from independence to August 1, 1964, when it became the Democratic Republic of the Congo.
  5. ^ Burundi–Democratic Republic of the Congo (Zaire) Boundary (PDF)” (英語). International Boundary Study. アメリカ合衆国国務省情報調査局 (1965年4月30日). 2012年6月12日閲覧。 “The name of the Republic of the Congo was officially changed to the Democratic Republic of the Congo on August 1, 1964.
  6. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p48-49 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  7. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p207 ISBN 4254166621
  8. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p63 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  9. ^ 「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p223 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷
  10. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p64-65 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  11. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p98-99 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  12. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p84-8 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  13. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p106-107 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
  14. ^ 「世界現代史15 アフリカ現代史3」p114 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行
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  20. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9
  21. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p208 ISBN 4254166621
  22. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、454-455ページ ISBN 4-7947-0523-9
  23. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、455-457ページ ISBN 4-7947-0523-9
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  42. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p205
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  44. ^ 「世界の鉄道」p345 一般社団法人海外鉄道技術協力協会著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行
  45. ^ 「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p253 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷
  46. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p206
  47. ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congokyo/data.html 「コンゴ共和国基礎データ」日本国外務省 令和2年3月26日 2020年4月15日閲覧
  48. ^ 外務省 コンゴ共和国基礎データ
  49. ^ 外務省 コンゴ共和国基礎データ
  50. ^ 「各国別 世界の現勢Ⅰ」(岩波講座 現代 別巻Ⅰ)p359 1964年9月14日第1刷 岩波書店
  51. ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.156
  52. ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p273 二宮書店 平成30年1月10日発行
  53. ^ Les pygmées du Congo en "danger d'extinction" (フランス語)
  54. ^ a b c d e f g h CIA World Factbook "Congo, Republic of the" 2010年11月8日閲覧。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

座標: 南緯1度26分24秒 東経15度33分22秒 / 南緯1.44度 東経15.556度 / -1.44; 15.556