コンスタンティヌス1世

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コンスタンティヌス1世
Constantinus I
ローマ皇帝
0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (2).JPG
コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵)
在位 306年7月25日 - 312年10月29日(西方副帝)
312年10月29日 - 324年9月19日(西方正帝)
324年9月19日 - 337年5月22日(全ローマの皇帝)

全名 ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス
(Gaius Flavius Valerius Constantinus)
出生 270年頃、2月27日
モエシア属州ナイッスス
(現セルビアの旗 セルビアニシュ
死去 (337-05-22) 337年5月22日(65歳没)
ニコメディア
(現トルコの旗 トルコイズミット
配偶者 ミネルウィナ英語版
  ファウスタ英語版マクシミアヌスの娘)
子女 クリスプス
コンスタンティヌス2世
コンスタンティウス2世
コンスタンス1世
コンスタンティナ英語版ハンニバリアヌス妃のちガッルス妃)
ヘレナ英語版ユリアヌス妃)
ファウスタ
王朝 コンスタンティヌス朝
父親 コンスタンティウス・クロルス
母親 ヘレナ
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アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)

ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス古典ラテン語Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス270年代前半の2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国皇帝(在位:306年 - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことなどから「大帝」と称される。

ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会東方諸教会東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。

1950年ギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。

概略[編集]

ディオクレティアヌスの時代に西の副帝を務め、後に正帝(在位305年 - 306年)となったコンスタンティウス・クロルスの子として生まれたコンスタンティヌス1世は、312年に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。

330年には帝国東方の交易都市であるギリシア人の植民都市ビュザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現イスタンブール)に遷都した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌス1世は官僚制を整備し、属州における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス)を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った[1]。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だったエクィテス(騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった元老院を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった[2]

宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、ネロ以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であった地中海世界全域へ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。

コンスタンティヌス1世時代の軍事の特徴としては、プラエトリアニ(近衛軍団)を解体して、コミタテンセス(野戦機動軍)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは軍人皇帝時代より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。[3]また、コンスタンティヌス1世はプラエトリアニの隊長であった近衛長官(プラエフェクトゥス・プラエトリオ)は称号は残したものの軍権を排除し文官職へ転換させた。

コンスタンティヌス1世自身は、キリスト教徒が多いビテュニア生まれのヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は325年にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である第1ニカイア公会議を開かせ、この会議でアタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端とされた。

コンスタンティノープルを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、彼と同じ名(ギリシア語形:コンスタンティノス)を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる[誰?]

生涯[編集]

出自[編集]

コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッスス(現:セルビアニシュ)に生まれた[4][5]。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ[4][5]。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである[4]。主にアウレリウス・ウィクトルやエウセビオスが残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる[5]。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性も十分にある[6]

父親はローマの将軍コンスタンティウス・クロルスであり、母親はその最初の妻ヘレナである[7]。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自をクラウディウス・ゴティクス帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い[7]。コンスタンティウスはまた、貴族出身ともされるが恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう[4]ビテュニアのドレパナ(小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも[4]ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる[8]。彼女はコンスタンティウスが西ローマ帝国の皇帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した[9]。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。

コンスタンティヌスが生まれた当時、ローマ帝国は一般に3世紀の危機と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主にバルカン半島の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち(軍人皇帝)が次々と即位していた[10][11][12]。父コンスタンティウスの出世もまたこの歴史的な経緯の中に位置付けられる[10]。この混乱はコンスタンティヌスが極若い頃に皇帝として即位したディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)によって収拾され、彼は293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治(テトラルキア)体制を確立した[13]

皇帝即位以前のキャリア[編集]

ヨークにあるコンスタンティヌス1世の青銅像

テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)[13]。この人事は西方の正帝マクシミアヌスよりも、東方の正帝でありテトラルキアの事実上の主催者であるディオクレティアヌスの意向によるところが大きかったと言われている[13]。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していたカラウシウス英語版からブーローニュを奪還しアッレクトゥス英語版支配下のブリテン島も再征服した[14]

父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともに、コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降20年余りの間父親と会うことはなかった[15][16]。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう[15][16]。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた[17]。ディオクレティアヌスがいつ、どこへ赴いたのかは、彼自身が発布した勅法の末尾書きの研究によって概ね明らかにされている[17]

コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭にシルミウム(現:セルビアスレムスカ・ミトロヴィツァ)で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って293年6月末に再びシルミウムに戻り、その翌年にはシンギドゥヌム(現:セルビア領ベオグラード)からドナウ川沿いに黒海へと赴き、ビュザンティオンを経て皇帝のお気に入りの住処であったニコメディアに行って越冬した[18]。295年5月にシリアダマスカスに移動し、296年にはドミティウス・ドミティアヌス英語版の反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍し、8ヶ月の包囲の後アレクサンドリアを陥落させた[18]。297年の夏、サーサーン朝の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、副帝ガレリウスの活躍もあってサーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した[18]。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した[18]。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる[18]。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた[19]

ガレリウスの頭像

303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした[20]。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した[20]。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:ミラノ)で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した[21]。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子マクセンティウスを任命しようとしたという記録もある(ラクタンティウス[20][22][23]。しかし実際にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス(セウェルス2世)とマクシミヌス・ダイアという二人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた[24]。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した[25]

その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう一人の正帝ガレリウスはこれを拒否した[26]。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう[26][27][28]。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望みサルマタイとの戦いに派遣していたという[27]。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという[28]

コンスタンティヌスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人討伐の場であるブリタンニアに進発するため、ブーローニュにいたコンスタンティウスと合流した[28]。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:ヨーク)でコンスタンティウスは急死した[28]。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝(アウグストゥス)として歓呼した[29]。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している[27]

西方におけるテトラルキアの破綻[編集]

コンスタンティヌス1世はブリタンニアで推戴を受けた305年7月25日をその後の即位記念日として扱っていたが、ローマ帝国の公式文書においてはそうではなかった[30]。コンスタンティヌス1世はガレリウスに自分の正帝(アウグストゥス)即位承認を要求したが、ガレリウスはこの僭称行為を認めなかった[31]。しかし、コンスタンティヌス1世が現地の軍団を掌握している現状を鑑みて現状を追認するのが賢明であると判断し、コンスタンティヌス1世を副帝(カエサル)として承認した[31]。そしてそれまで副帝であったセウェルス2世を正帝とし、コンスタンティヌス1世はその下位であるとされた[31]

その3ヶ月後、セウェルス2世がイタリアと更にはローマ市において課税査定を行い近衛兵の解体を宣言すると、イタリアの軍団は反乱を起こし、退位したマクシミアヌスの息子マクセンティウスが皇帝に担ぎ上げられた[31]。彼はコンスタンティヌス1世と同じようにガレリウスの承認を求めたが、マクセンティウスに対してはガレリウスは頑として譲らず、セウェルス2世に対してマクセンティウス討伐の命令を出した[31]。正帝(アウグストゥス)を自称したマクセンティウスはイタリアを迅速に支配下に収め、更にアフリカの属州も支配下に置き、また退位した父マクシミアヌスをもう一人の正帝として復位させる宣言を行った[32][33]。306年末か307年初頭にマクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の支援を求めてガリアへ向かった[32][34]

マクセンティウスの胸像

この老マクシミアヌスはかつて娘のテオドラをコンスタンティウス・クロルスに嫁がせていたため、コンスタンティヌス1世にとっては義理の祖父にあたる人物でもあった[34]。当時コンスタンティヌス1世は、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻って「フランク人」を攻撃して打ち破り、ライン川に橋を架けて「フランク人」の一派ブルクテリ族の根拠地を荒らすなどの勝利を収めていた[30]。マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世にも自分の娘フラウィア・マクシミア・ファウスタとの結婚を持ちかけ、正帝位を差し出した[32]。ファウスタはマクセンティウスの妹であり当時7歳であった。この時コンスタンティヌス1世は深刻な決断を迫られていたと見られる。コンスタンティヌス1世は疑問の余地のなく正統な、かつ最も上位の正帝であるガレリウスから正式に副帝の地位を承認されていた[32]。しかし同時にガレリウスの自分に対する心証が良好ではないことを自覚してもいた[32]。一方のマクシミアヌスとマクセンティウスは明らかに僭称者であったが、それでもマクシミアヌスもかつてはディオクレティアヌス帝によって認められていた正帝の地位にあった人物であり、その行動は成功しているようにも思われたためである[32]。結局コンスタンティヌス1世はマクシミアヌスの申し出にのり、307年3月31日にファウスタと結婚した[32]。彼には既に息子クリスプスを産んでいた妻ミネルウィナ英語版がいたが、既に死別していたか、あるいはかつて父コンスタンティウスが行ったのと同じように離縁したと考えられる[34][注釈 1]

このコンスタンティヌス1世の判断は当面において的中し、セウェルス2世はマクセンティウスに敗退してラヴェンナで降伏した[32][38]。その後ガレリウスが自らマクシミアヌスとマクセンティウス討伐に乗り出したが、この討伐も同じように失敗に終わり、ガレリウスはイタリアからの撤退に追い込まれた[39][38]。しかし、ガレリウスの脅威が去ると間もなくこの親子は権力を巡って反目するようになり、308年4月にはマクシミアヌスは軍に向かって息子マクセンティウスを非難する演説を行い、その地位を奪おうとした[39][37]。しかし兵士たちはマクシミアヌスよりもマクセンティウスの方を支持し、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の下へ逃亡を余儀なくされた[39]。コンスタンティヌス1世は今度は義父マクシミアヌスにつくか、既にイタリア・アフリカ・ヒスパニアを手中に収めていたマクセンティウスにつくかの決断を再び迫られ、マクシミアヌスに組することを決定した[39]

ここまでの経過で、ディオクレティアヌスが用意したテトラルキア体制はローマ帝国の東方では正帝ガレリウスと副帝マクシミヌス・ダイアによって維持されていたが、西方では全く形骸化しつつあった[40]。西方に副帝は一人もいなかった一方で、コンスタンティヌス1世、マクシミアヌス、マクセンティウスという3人の自称正帝が並び立っており、308年には北アフリカでマクセンティウスに対する反乱指導者となったルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス英語版がこの列に加わった[40]。コンスタンティヌス1世は同年の時点でガリアとブリタンニアを支配下に置いており、マクセンティウスはイタリアとシチリアを支配し、ドミティウス・アレクサンドロスが北アフリカを抑えていた[40]。マクシミアヌスには根拠地が無かった[40]

マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒[編集]

正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、パンノニアカルヌントゥムに隠棲していたディオクレティアヌスとかつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた[38]。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、変わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した[39][41]。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された[41]。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世はガレリウスの正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であったウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス が就任することになった[39][41][38]。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された[42][41]

しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスは示したが、これを受け入れることは無かった[42]。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一度名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した[42][38]。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した[43]。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止し両者とも正帝であることを宣言した[43][42]

こうしてガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた[42]。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た[42]。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスのアルルで3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った[44]。コロニア(現:ケルン)でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した[44]。マクシミアヌスはマッサリア(マルセイユ)に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった[44][45]

マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した[46]。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した[46]

311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった[46][43]。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた[46]。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ[46]。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした[46]。後世の歴史家ゾシモスはこの時、コンスタンティヌス1世がゲルマン人ケルト人などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す[46][47]。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている[46][47]。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスはラエティア(現:スイス南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った[48][47]。セグシオ(現:スーザ)を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:トリノ)近郊、プレシャ、ヴェローナなど各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った[48][47]

やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した[49]。こうしてティベレ川沿いで両者は戦い、コンスタンティヌス1世が完勝を収め、マクセンティウスを戦死させた[50][51]。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた[50]。ローマ元老院はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた[51]。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる[51]

改宗[編集]

312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた[52]。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている[52][53]。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある[54]。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである[54][55]

少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった[55]。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世がカルタゴ司教カエキリアヌスに当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なるカトリックの宗教の奉仕者のうちの指定された者たち」に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている[56]

313年2月、メディオラヌムでコンスタンティヌス1世とリキニウスが会談し、311年に約束されていたコンスタンティヌス1世の異母妹コンスタンティアとリキニウスの結婚が正式に執り行われた[57][58]。この2人の皇帝は(当時まだマクシミヌス・ダイアの支配下にある)ビュテニアとパレスティナの総督に対してセルディカ勅令(311年にガレリウスが発布していたキリスト教徒迫害を停止させる寛容令)の履行を指示する通達を出した[54]。これは(ランソンによれば不正確にも)『ミラノ勅令』と呼ばれており、後世本来持っていた以上の重要性を与えられることになる[59]

ただし、これらの点が指摘されてもなおコンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗が行われたのかはっきりとはわからない。彼はコインに不敗太陽神(ソル英語版)の図像を残していたし、公的に宗教的な文言を用いる際にはキリスト教徒にも異教徒にも都合よく解釈可能な曖昧な表現を採用していた[60]。前述の通りジョーンズは312年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れたことは間違いないと断言するが、ランソンは315年の段階でもまだ彼はキリスト教徒ではなく、彼の宗教はキリスト教とソル信仰が融合した初期段階のものであったとも推測できるとしている[61]。これらの歴史家たちの間では、どのような思考・振る舞いをしていればキリスト教徒と見做しうるのか、という観点においても相違がある。

リキニウスとの戦い[編集]

衝突と和平[編集]

リキニウス(左)とコンスタンティヌス1世(右)

同じころ、マクシミヌス・ダイアはこの同盟の矛先が自分に向かうのを確信してボスポラス海峡を渡りビュザンティオンを攻略した[62]。この報せを受けたリキニウスは会談を中断してただちにイタリアからバルカンへ渡り、3万の軍勢でハドリアノポリス(アドリアノープル)へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面を封鎖した[62]。間もなくリキニウスはマクシミヌス・ダイアを打ち破り、彼をアナトリアへと追い払い、更に追撃して自殺へと追い込んだ[63]。一方のコンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻に対処すべくアルプスを越えて北上し、これを撃退した[64]

こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世の支配下に入り、東半がリキニウスの支配下に入った。だが、共通の敵を失った両正帝は間もなく対立を始めた。切っ掛けは新たに副帝(カエサル)としてバッシアヌス英語版を任命するというコンスタンティヌス1世の提案であった。コンスタンティヌス1世は彼に自分の異母妹アナスタシア英語版を嫁がせていた[64]。この任免の詳細を巡って両者は対立し武力衝突に至った[64][65][注釈 2]

コンスタンティヌス1世は314年の晩夏[64]、または316年の秋[66][65]、リキニウスの領土への侵攻を開始し、10月8日に初戦となったイリュリアのキバラエ(現:クロアチアヴィンコヴツィ戦い英語版で数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた[64]。リキニウスはドナウ川を下ってシルミウムへと逃れ、更に自軍をハドリアノポリスへと集結させた[67]。その間、第2モエシア属州のドゥクス(Dux:公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていたウァレリウス・ウァレンス英語版を(恐らくその忠誠を繋ぎとめるために)正帝に任命した[67][65][66]。そしてハドリアノポリス近郊で2度目の戦闘が行われた[65]。その勝敗は史料上はっきりしないが、この戦いの後、両者は和平条件を巡る交渉を行った[67]。だが、使節を通した交渉は失敗し戦闘が再開された[67]。2度目の戦闘がアルダ川流域で行われたが、衝突後に両軍は敵を見失い、コンスタンティヌス1世はリキニウスが東のビュザンティオンに退却したと見て進軍し、一方のリキニウスは北西のベロイアへ移動したために双方が後方連絡線を遮断された[67]。317年3月1日[65][68]、セルディカで再び和平交渉が行われ今度は和平合意が成立した[65][68](ジョーンズの採用する編年では和平は315年は成立したとされている[67])。合意では領土的にはコンスタンティヌス1世が大幅な拡大に成功し、トラキアを除くバルカン半島のほぼ全域がコンスタンティヌス1世の支配下に入る事となった[67]。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位されて処刑され、コンスタンティヌス1世の長子クリスプス(13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子小コンスタンティヌス(当時出生直後)、そしてリキニウス2世(1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた[69][68][注釈 3]。以降、321年または323年までの6年間、この和平は維持された[69][65]

リキニウスの死[編集]

比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと[69]、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続け、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと[69]、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入したゴート人を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと[69][70]、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと[65][70][71]などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと一神教的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大なユピテル神の別側面であるとみなしたと考えられる[71]。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神(ソル英語版)の図像が姿を消した[72]。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった[71]。324年には両者は再び武力衝突に至った[71]。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の司教たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという[72]

コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた[注釈 4]。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は314年7月3日にハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した[73]。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した(ハドリアノポリスの戦い英語版[74][70]

リキニウスはビュザンティオンで諸局長官英語版Magister officiorum)のセクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス英語版を共同皇帝に擁立した[74]。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた[74]。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じていた。そしてリキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め(ヘレスポントスの海戦)、これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアのクリュソポリス(現:トルコ領ユスキュダル、イスタンブルの対岸)へと後退した。314年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた[74]。敗北したリキニウスは更にニコメディアに逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた[74][75]。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後テッサロニキに送ったが、しばらく後に処刑した[74][75]。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう[74]。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家エウセビオスがこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる[76]

単独の皇帝として[編集]

コンスタンティウス2世像

324年という年はコンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である[75]。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独のローマ皇帝となった[75]。彼は未だ7歳であった息子のコンスタンティウス2世を副帝に据え、新たな体制の構築に乗り出した[75]

帝国の政治・経済・文化の重心が東方へ移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオンに着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称することを決めた[77]。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式が執り行われた[78]。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行政改革を引き継ぎ、中央政府組織を整備した[68]元首制期の皇帝は個人的な友人・同僚たちの助言集団を持ったが、これは次第に公的なものとなり、3世紀の危機を経てディオクレティアヌスの時代には枢密院(consistorium[79])と呼ばれるようになった[80]。コンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織に仕立て上げ[81]、また、軍制改革を行い、大規模な常備野戦軍を組織した[82]。これはコミタテンセス(comitatenses、野戦機動軍)と呼ばれる[82]。この結果、行政機関の文民部門と軍事部門の分離が進行した[82]。財政面では純度の安定したソリドゥス金貨を発行したことが特筆される[83]。従来からソリドゥスと呼ばれる金貨は発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな基準でこれを発行した。この新貨幣はノミスマと呼ばれ、その後帝国の標準貨幣として流通することになる[83]

宗教面ではキリスト教の教義上の分裂の収拾を試みた。コンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会が被った損失の回復を行い、教会の庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義の差異が生じており、復活祭の日付もバラバラであった[77]。そして彼が皇帝となった時には、アレクサンドリア司教アレクサンドロスと司祭アリウス (アレイオス)との間の論争に端を発して、東方の属州全域の司教たちを巻き込んだ分裂が生じていた[84]。コンスタンティヌス1世はこれに介入し、教義の細部に拘泥せず和解するよう促した[85]。しかし、このアリウス派と反アリウス派の対立が容易に解決する段階にないことが明らかとなると、325年5月20日にニカイア(ニケア)に数百名の司教を招集し、ニカイア公会議(第1回全教会会議)を開催した[86][77][87]。コンスタンティヌス1世自らも議論に加わり、妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派の排除が決定されると共に、他の各司教に共通の信条(ニカイア信条)を受け入れるよう圧力が加えられ、それが結論とされた[88]。同時にローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの教会の首位性の確認や、群小異端の禁止などが行われた[88]。しかしその後もコンスタンティヌス1世はアリウス派との妥協を模索し、アリウスの教会への復帰を認めた[89]

クリスプス処刑とファウスタの変死[編集]

326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した[90]。この謎の事件について知ることができることは限られている[91]。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに注意深く無視されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである[91]。はっきりしていることは、この年に十分その有能さ認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)[91][90]

残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たという[90][91]。そしてこれに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、結果としてファウスタも殺害されたのだという[91][90]。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている[91]

326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えているや、あるいはソレントの碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠のために、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない[92][90][注釈 5]

対外遠征と死[編集]

コンスタンティヌス1世死亡時のローマ帝国

330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった[95]。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ[96]。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たにコメスcomes、伯、総監)の身分に昇進させた[97]。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た[97]。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった[97]。このような風潮については教会史家エウセビオスすら批判的な見解を述べている[97]

内政面においては333年に息子のコンスタンス1世を、335年に甥のダルマティウス英語版を副帝に任命した[95][98]。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、ファウスタとの間の息子コンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンス1世の3名が副帝となり、ダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった[95][98]。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう[95]。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した[98]。コンスタンティヌス1世が このような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している[99]

対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共にライン川方面でアレマン人と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川でゴート人を降伏させた。334年にはダキア方面でサルマタイを破った[100]。東方ではアルメニア王ティグラネス5世がサーサーン朝シャープール2世によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した[99]。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥のハンニバリアヌスをアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世死後のこととなる[99][95]。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼がキリストと同じようにヨルダン川洗礼を受ける計画が立てられた[101]。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった[102]。神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は亡くなる少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[注釈 6]。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にアンキュロナで死亡した[102]

コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された[102][103]。伝統的な異教的葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された[102]。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者」として列聖された[103]。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた[104]

後継者[編集]

コンスタンティヌス1世の死後、激しい権力闘争が行われた。コンスタンティノープルの軍団はコンスタンティヌス1世の息子以外に皇帝たるべき人物はいないと主張して暴動を起こし、コンスタンティヌス1世の兄弟フラウィウス・ダルマティウス英語版とその息子である副帝ダルマティウスおよびアルメニア王ハンニバリアヌスを殺害した[105]。またコンスタンティヌス1世の別の兄弟ユリウス・コンスタンティウスも殺害され、他にオプタトゥス・オリエント近衛長官アブラビウスなども処刑された[105]。3ヶ月にわたるこの混乱の空位期間の後、コンスタンティヌス1世とファウスタの間の息子、コンスタンティヌス2世コンスタンティウス2世コンスタンス1世が337年9月9日に揃って自らを正帝と宣言した[105][106]

後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・ヒスパニアの帝国西方を支配し、残りの2名はダルマティウスの支配地も分割してコンスタンティウス2世がトラキア・ポンティカ・アジア(アシアナ)、オリエンス(シリア・エジプト)を、コンスタンス1世がパンノニアイタリアアフリカダキア(ドナウ川流域)・マケドニアを支配することになった[105]。一応コンスタンティヌス2世が帝国全土に対する権威を保有していたが、この体制は長続きしなかった[105][106]。340年、コンスタンティヌス2世は自らの権威を愚弄したとして弟コンスタンス1世の支配するイタリアへ侵攻したがアクィレイアで敗北して死亡した[107][108]。これによってコンスタンス1世がその遺領も掌中に収め、帝国全土の3分の2を支配するに至った[107][108]。その後10年余りの詳細な経過は不明であるが、コンスタンス1世の支配地ではブリタニアやアフリカで紛争が絶えず、他方のコンスタンティウス2世もサーサーン朝との間に勃発した戦争に忙殺されていた[107]。そして350年1月、皇帝領伯マルケリヌスゲルマン人の血を引く将軍マグネンティウスによる陰謀によってコンスタンス1世が殺害され、マグネンティウスが皇帝を称した[107]。同年3月1日にはイリュリクムでコンスタンス1世配下の歩兵軍司令官であったヴェトラニオも皇帝を称し、コンスタンティヌス1世の甥であったネポティアヌスもローマ市を占領して皇帝を名乗った[107]

ネポティアヌスは間もなくマグネンティウスによって滅ぼされ、マグネンティウスとヴェトラニオは共にコンスタンティウス2世に正式な正帝としての承認を求めた[107]。マグネンティウスは和解を演出するためにマルケリヌスを使者としてコンスタンティヌス1世の娘コンスタンティナ英語版との結婚、およびコンスタンティウス2世に自身の娘を嫁がせることを提案した[109]。コンスタンティウス2世はマグネンティウスの地位を断固として認めず、またヴェトラニオは退位と引き換えに年金を得ることで合意し、皇帝を退いた[107][108]。コンスタンティウス2世は甥のコンスタンティウス・ガッルスを副帝にして東方を任せ、マグネンティウスも兄弟のデケンティウスを副帝にしてガリア統治を委任し、両者は互いにバルカン半島へと進軍した[107][108]。351年9月28日、ムルサの戦いでコンスタンティウス2世が勝利を収めた[107][108]。マグネンティウスはイタリアを経てガリアへ引いたが、353年の夏、モンス=セレウクスの戦いで敗れコンスタンティウス2世が帝国を再統一した[107][108]

その他の子孫[編集]

コンスタンティヌス1世には2人の娘がいた。一人は先述のコンスタンティナ英語版(307年以後から317年以前 - 354年)であり、もう一人はユリアヌス帝の妻となったヘレナである。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、ガリアの地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝ハンニバリアヌスと結婚、337年にハンニバリアヌスがコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害したマグネンティウスと連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していた。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命したコンスタンティウス・ガッルスと再婚させられた。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることを分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略によりポーラで処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無いヨウィアヌスが選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した[要出典]

その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだウァレンティニアヌス1世の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、ウァレンティニアヌス2世、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラはテオドシウス1世の後妻となり、グラティアヌス、ガッラ・プラキディア、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄グラティアヌスと結婚。男子を儲けたが、この男子の消息は不明である[要出典]

政策[編集]

建設活動[編集]

コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)建設[編集]

324年、彼はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオン(ビュザンティウム)に自らの名前を与えコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称した[77]。この都市は海陸が交叉する地理上の要衝であり、ドナウ川の国境とアジアの国境の双方へ睨みを利かせる拠点として優れていたことに加え、ローマ帝国の政治・経済・文化の重心が東方へと移っていたことがこの選択に繋がった[78]。母なる都市ローマを模して7つの丘が定められ14区が接地され、元老院や聖堂、広場(フォルム)、宮殿やその他の公共施設が建設された[78]。工事の完了を待たず、330年5月11日には落成式が執り行われた[78]

コンスタンティノープル建設はコンスタンティヌス1世の政策の中でも後世の歴史に最も大きな影響を残したものの1つであるが、現代から見れば奇妙なことに同時代の記録者たちはコンスタンティノープルの建設にほとんど注意を払っていない[110]。この都市は「新たなるローマ」として建設されたと後世の記録は伝えるが、このような認識は建設当時には無かったとも言われている[111]。これは当時属州の都市に皇帝が名前を付けることはあり触れたことであったためであろう[110]。皇帝が都市に自分の名前を与えるのは、初代アウグストゥスの頃から繰り返されてきたことであり、ローマ帝国の領内は皇帝の名を与えられた都市がひしめいていた[110]。また、ローマ帝国の重心が東に移っていることも周知のことで、コンスタンティヌス1世の姿勢は特に特殊なものではなく、既にディオクレティアヌスやガレリウスといった上位の正帝がニコメディアを中心に、東方に拠点を構えて滞在し続ける状況は何十年も継続していた[110]。当時ローマは首都長官の管理下に置かれ、公式にも、また感情の上でも、帝国の人々にとって首都であったが、行政の中心としての役割を果たさなくなって久しく、実質的な行政府は前線で外敵と(そしてしばしば内戦を)戦う皇帝たちに付随して移動していた[110]。皇帝がローマ市に立ち寄ることは滅多になく、平時にはそれぞれの任地の都市に建設した宮殿に居住しており、コンスタンティヌス1世も西の正帝であった頃はトリーアに住み、イリュリクムを平定した後にはセルディカ(現:ブルガリア領ソフィア)を「我がローマ」と言ったと伝えられる[110]

上記のようにコンスタンティヌス1世が実際にコンスタンティノープルを「新たなローマ」として建設したのかは定かではないが、しかし一般的な都市よりは特別な存在に仕立て上げられたことも事実であった[112]。新都市建設にあたっては惜しみない費用がかけられ、建築部材や装飾用の美術品を求めて各地の異教の神殿から略奪が行われた[112]。その市域は既存のビュザンティオンの3.5倍にも拡張され、都市を囲う城壁や宮殿も用意された[113][114]。ローマ市よりは明確に格下であったにせよ、一般的な属州都市よりは高い法的地位が与えられ、ビュザンティオンの都市参事会を改組して元老院が置かれた[112]。ローマの元老院議員は爵位としてクラーリッシムスだったのに対しコンスタンティノープルの元老院は格下のクラールスとされた[112][115]。両都市の位置付けが法的に対等となるのはコンスタンティウス2世の治世である[115]

コンスタンティヌス1世自身が真実この都市をどのように位置づけていたかを窺い知ることができる史料はほとんど残されていない。「神の命令によって」行動した結果であるとしている勅法は存在するが、これは単に敬虔さを示す修辞としての要素が強いであろう[116]。異教に汚されることのない、聖別されたキリスト教の都市として神に捧げられたものであったとする見解もあるが[116]、コンスタンティノープルにおいてテュケー(幸運)や不敗太陽神(ソル英語版)崇拝などの伝統的要素が完全に排除されたわけでもなかった[117]。ただし、実際がどうであれ、後世成立する東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1453年にオスマン帝国に征服されるまで、この都市を舞台にして「ローマ帝国」は継続した。そしてこの都市は正教会の総本山でありキリスト教世界の中心の一つとして機能した。

ローマ[編集]

コンスタンティヌス1世の凱旋門

ローマ皇帝として、コンスタンティヌス1世は真の首都ローマでも活発な建設活動を行った。ローマ市に入場した後、当然のことながら彼は自身の皇帝としての威光を建造物で示そうとした。315年にはコンスタンティヌスの凱旋門が建設された[118][119]。セプティミウス・セウェルス凱旋門を模したこの凱旋門はローマ世界最大の凱旋門であり、過去の建造物から転用された浮彫彫刻で装飾された[118]。まずマクセンティウスを破ってローマに入場した後、マクセンティウスが建造を始め、ほぼ完成していたバシリカをコンスタンティヌスのバシリカと改名して集会や謁見に用いた[120][119]

これ以外にも、ローマでキリスト教建築を大々的に設置した。コンスタンティヌス1世が首都で本格的に新しく建設した最初の建物は救世主のバシリカと呼ばれる大聖堂である[121]。これはかつてラテラヌス家が所有していた大邸宅の跡地に建てられたもので、312年から建設が始められローマの大司教座教会堂とされ、現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となった[121]。また、母ヘレナがエルサレムで取得した聖遺物を奉納するためにヘレナの邸宅であったパラティウム・セッソリアヌムを改築して聖堂とした。これは現在のサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂の前身となっている[121]。上記はローマの城壁内に建造されたものであるが、城壁外にもバシリカ・アポストロルム(使徒聖堂、現:サン・セバスチアーノ教会英語版)、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ペトリ・イン・ウァティカノ(サン・ピエトロ大聖堂)などを建造した[122]

こうしたキリスト教建築は城壁外の、郊外の地でより活発に行われた。帝国の首都ローマは異教の牙城で、伝統的祭祀の中心であり、それ故に少なくとも入城当初のコンスタンティヌス1世は伝統的なユピテル神への配慮を見せていた。このため、新たなキリスト教建築はローマ市民の反応を見ながら進められ、また目立たない場所での実施が中心になったためである[123]。郊外が選ばれたもう一つの理由には、ローマ市の中心部は既に数世紀に渡る建築活動で建設された公共建造物がひしめいており、必要な用地を容易に確保できなかったことがある[124]。既存の建造物の転用には様々な困難があり、また市民の反発を受ける可能性も無視できなかった[124]。これらのことが、新たな都市コンスタンティノープルへの「遷都」を決定付けた理由の1つであるという見解もある[125]

トリーア[編集]

コンスタンティヌス1世によって建造されたトリーアの公衆浴場(テルマエ

306年に副帝に即位して以来、西方の皇帝としてコンスタンティヌス1世が拠点としていたトリーアでは、お膝元として大規模な整備が行われた[126]。皇帝や皇后、息子クリスプスの住居や、浴場、円形闘技場、大掛かりなバシリカも建造され、バシリカにはお湯を流して温める床暖房も供えられていた[126]。コンスタンティヌス1世の宮殿アウラ・パラティナは、後にフランク王国カール1世(大帝)がアーヘンの宮殿を建造する際の参考にされたとも言われる。[127]。トリーア近郊には夏用のウィラも建造された[126]

その他の都市[編集]

複数の町がコンスタンティヌス1世によって再建され、彼やその家族の名を与えられたと伝わる。そのような都市には現在のフランスにあるオータン(フラウィア・アエドゥオルム)、現在のアルジェリアにあるキルタ(コンスタンティナ、現:コンスタンティーヌ)などがある[128]。また、コンスタンティヌス1世は323年から324年にかけて現在のギリシアにあるテッサロニキに滞在した際、この町を非常に気に入り、巨大な教会や港湾、浴場など数多くの建物を建てたという[128]

行政改革[編集]

コンスタンティヌス1世は多岐にわたる制度改革を実施した[99]。一連の改革によって構築された政府機構は後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の政府の原型となり、「初期ビザンツの中央政府組織はほぼ彼の時代に形造られた」(尚樹啓太郎)とも評される[99]。一連の改革はディオクレティアヌスが行っていた帝国の再編を継承したものでもあり、また軍事部門の再編と行政の再編を通じて国政を組織化し分担することで帝国の統一を維持しようとしたものであった[80]

官職の整備[編集]

ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う寝室Cubiculum)があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(Praepositus Sacri Cubiculi)とその補佐役である執事長(Castrensis sacri palatii)が置かれてこの組織を管理した[129]

旧来からの枢密院(consistorium[注釈 7])では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった[80]。文武官の長は伯(総監、comes)の地位を与えられそのメンバーとなった[130]。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った[130]

また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(Praefectus praetorio、正帝1名に対し2名が置かれた)の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持し、皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた[131][132][133]。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった[131]。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(magister militum)を設置し、職務内容を主として地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ[134][133]

枢密院の構成員となる高官職としては次のような役職が置かれた。コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(Rationaris summarum[注釈 8])を恩賜伯英語版Comes sacrarum largitionum[注釈 9])に、皇帝領長官(Rationaris rei privatae[注釈 10])を皇帝領伯(Comes rei privatae[注釈 11])に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた[135]。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を統括する諸局長官英語版Magister officiorum[注釈 12])を置いた。この役職は各官庁を統括した他、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている[133][135]。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった[133]

経済政策[編集]

コンスタンティヌス1世のコイン。

財政・経済面におけるコンスタンティヌス1世の特筆すべき事業はソリドゥス金貨の発行であった[136]。ソリドゥスと呼ばれる金貨はディオクレティアヌス時代には既に発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな標準規格でこれを発行し、信用度の高い共通通過として確立した[136]。初の発行はまだ統一する前の309年にトリーアで発行したもので、その後支配領域の拡大と共に各地で発行するようになった[136]。これはギリシア語でノミスマと呼ばれ、更にソリドゥスの2分の1であるセミシス、3分の1であるトレセミシスがあった[136]

信用度の高い貨幣の流通はローマ経済に重大な影響を与え、また税制の改革にも繋がった。徴税や軍団への支給は当時なお物納・現物支給を主としていたが、貨幣の流通とともにコンスタンティヌス1世は新たな5年税を導入した[136]。これは商人や金融業者に5年毎に金貨(後に銀貨も加えられた)による納税を定めたもので、これはローマ帝国の財政が5世紀以降金貨によって運営されるようになるその端緒となり、軍団への支給や臨時の恩典の支出にも金貨が用いられるようになっていった[136]

ローマ帝国のノミスマは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代の1030年代まで高純度を保ち続け、最も信頼される標準貨幣として地中海世界で使用され続けることになる[136][137]

コンスタンティヌス1世とキリスト教[編集]

コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教徒皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。

5世紀の歴史家ソゾメノス英語版によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。

伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字[注釈 13]とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。

のちに「コンスタンティヌスの寄進状」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。

なお、コンスタンティヌス1世を正教会は「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している[138]

コンスタンティヌス1世の功罪[編集]

名君として称揚されることの多いコンスタンティヌス1世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。例えば降伏したリキニウスとその息子リキニウス2世や、リキニウスとの戦いの中で優れた才覚を示し、兵士たちに絶大な人気のあった長男クリスプスをローマ再統一後に突如幽閉して殺したことなどは、エウセビオスなど古代のほとんどのキリスト教歴史学者からは無視される傾向にある。

「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の封建制の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い宦官もはびこるようになる。

またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したことも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「カエサルのものはカエサルに」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における儒教のような役割を果たしたとされる。

コンスタンティヌス1世は第1ニケーア公会議でアタナシウス派アリウス派のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、彼自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。

ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。

年譜[編集]

  • 272年 - 誕生。当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。
  • 292年 - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となったガレリウス(在位:305年 - 311年)に従軍する。
  • 306年 - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:305年 - 306年)のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下セウェルスが西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。
  • 312年 - イタリア北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城、西方の正帝となる。
    • この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(ギリシア語でキリストを意味する Χ と Ρ の組み文字であるラバルムという説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦いに勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。
  • 313年 - ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。
  • 324年 - 東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。
  • 325年 - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。
  • 330年 - ローマからバルカン半島のビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と改称。
  • 337年 - 小アジアニコメディア洗礼を受け、その直後に死去。

史料[編集]

コンスタンティヌス1世の時代についての史料は現在かなりの量が残されている[139][140]。ただし、これらには後世付加された伝説に彩られていたり、キリスト教的・反キリスト教的な潤色と脚色が加えられたりしているものが多数含まれ、一貫性と信頼性に欠けるために取り扱いには細心の注意が必要である[140]

4世紀のローマ皇帝についての主たる情報源はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史(Res Gestae)』[注釈 14]であるが、これはコンスタンティヌス1世の時代を取り扱った巻が散逸し現存していない[140]。比較的同時代に近い情報源は、4世紀半ばのアウレリウス・ウィクトルやエウトロピウスの著作、4世紀末の著者不明の『皇帝伝要約英語版Epitome de Caesaribus)』、5世紀末のゾシモスらの残した作品などである[140]。異教徒であるゾシモスはコンスタンティヌス1世に対する敵意を露わにしている[141]。またその他のギリシア人作家の作品の中からも断片的な情報を拾い集めることが可能である[140]

教会史家たちは多くの記録を残しており、エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯英語版Vita Constantini)』をコンスタンティヌス1世の死の直後に著述した。ただしこの著作については長らく真贋が論争されている[140][142]。他にヒエロニムスの『年代記』やアクィレイアのルフィヌス英語版フィロストルギオス英語版キュジコスのゲラシオス英語版キュロスのテオドレトスコンスタンティノープルのソクラテスソゾメノス英語版らが記した『教会史』の記録がコンスタンティヌス1世への言及を残している[140][141]。彼ら教会史家は参照した典拠から長文の引用を行う習慣を発達させており、このおかげでコンスタンティヌス1世時代の文書が保存されている[139]。この他、神学者アウグスティヌスも多数の引用を残している[141]。307年から321年の間の頌歌や、『テオドシウス法典』、コインのような考古学的遺物、コンスタンティヌス1世像などからも情報が得られる[140]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする[35]。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する[32]。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である[34]。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する[36]。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない[37]
  2. ^ バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する[64]。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする[66]。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する[65]
  3. ^ この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の執政官(コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする[69]。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。
  4. ^ ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人とフリュギアカッパドキアから動員した騎兵15,000を集めたとされる[73]。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世がガレー船200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった[73]。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している[70]。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている[70]
  5. ^ クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日にアクィレリアで発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている[93]。更に仲介役を担った奴隷で口を封じられるべきであるともされている[93]。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している[93]。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった[94]
  6. ^ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)。
  7. ^ ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(consiliumと呼ばれており、consistoriumと呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている[130]。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、consistoriumの日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。
  8. ^ 大清水の訳では財産管理官[135]
  9. ^ 大清水の訳では帝室財務総監[135]
  10. ^ 大清水の訳では帝室財産管理官[135]
  11. ^ 大清水の訳からは帝室財産総監となる[135]
  12. ^ 大清水の訳では官房長官[135]
  13. ^ シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。
  14. ^ 和訳タイトル:『ローマ帝政の歴史』

出典[編集]

  1. ^ 「古代ローマを知る事典」p118 長谷川岳男・樋脇博敏著 東京堂出版 2004年10月1日初版発行
  2. ^ 『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267
  3. ^ エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日
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関連項目[編集]

参考文献[編集]

外国語文献[編集]

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日本語文献[編集]

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  • 加藤磨珠枝、益田朋幸 『中世1 キリスト教美術の誕生とビザンティン世界』 中央公論新社〈西洋美術の歴史〉、2016年12月。ISBN 978-4-12-403592-6。
  • 木村凌二 「11 地中海手国の変貌」『ギリシアとローマ』 中央公論社〈世界の歴史 5〉、1997年10月、411-435頁。ISBN 978-4-12-403405-9。
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年2月。ISBN 978-4-486-01431-7。
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会、2005年5月。ISBN 978-4-486-01667-0。(主に役職の原語名の確認に使用)
  • 豊田浩志 『キリスト教の興隆とローマ帝国』 南窓社〈キリスト教歴史双書 10〉、1994年2月。ISBN 978-4-8165-0130-2。
  • 芳賀京子、芳賀満 『古代1 ギリシアとローマ、美の曙光』 中央公論新社〈西洋美術の歴史〉、2017年1月。ISBN 978-4-12-403591-9。
  • ジャック・ブウサール 『シャルルマーニュの時代』 井上泰男訳、平凡社〈世界大学選書〉、1973年8月。
  • ヤーコプ・ブルクハルト 『コンスタンティヌス大帝の時代 衰微する古典世界からキリスト教中世へ』 新井靖一訳、筑摩書房、2003年3月。ISBN 978-4-480-84714-0。
  • A.H.M.ジョーンズ 『ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯』 戸田聡訳、教文館、2008年12月。ISBN 978-4-7642-7284-2。
  • エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史 3』 中野好夫訳、筑摩書房、1996年2月。ISBN 978-4-480-08263-3。
  • クリス・スカー 『ローマ皇帝歴代誌』 青柳正規訳、創元社、1998年11月。ISBN 978-4-422-21511-2。
  • ポール・ヴェーヌ 『私たちの世界がキリスト教になったとき-コンスタンティヌスという男』 西永良成ほか訳、岩波書店、2010年
  • 大澤武男 『コンスタンティヌス ユーロの夜明け』 講談社、2006年
  • ベルトラン・ランソン 『コンスタンティヌス その生涯と治世』 大清水裕訳、白水社〈文庫クセジュ 967〉、2012年3月。ISBN 978-4-560-50967-8。
  • ベルナール・レミィ 『ディオクレティアヌスと四帝統治』 大清水裕訳、白水社文庫クセジュ 948〉、2010年7月。ISBN 978-4-560-50948-7。
  • ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ 870〉、2003年12月。ISBN 978-4-560-05870-1。
  • ポール・ヴェーヌ 『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』 西永良成訳、岩波書店、2010年9月。ISBN 978-4-00-025774-9。
  • E.R.ドッズ 『ギリシァ人と非理性』 岩田靖夫・水野一訳、みすず書房、初版1972年、復刊2007年ほか
  • E.R.ドッズ 『不安の時代における異教とキリスト教』 井谷嘉男訳、日本基督教団出版局、1981年
  • ピーター・ブラウン 『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』
     宮島直機訳、刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年、改訂新版2006年
  • ピーター・ブラウン 『古代末期の形成』 足立広明訳、慶應義塾大学出版会、2006年
  • ピーター・ブラウン 『古代から中世へ』 後藤篤子編訳、山川出版社〈YAMAKAWA LECTURES〉、2006年
先代:
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス
ローマ西方副帝
306年 - 312年
次代:
なし
先代:
マクセンティウス
ローマ西方正帝
312年 - 324年
次代:
コンスタンティヌス朝
先代:
リキニウス(東方正帝)
ローマ皇帝
324年 - 337年
次代:
コンスタンティウス2世
コンスタンティヌス2世
コンスタンス1世