コンラート・ヘンライン

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コンラート・ヘンライン。1938年9月23日、ズデーテンラント

コンラート・エルンスト・エドゥアルト・ヘンライン (Konrad Ernst Eduard Henlein1898年5月6日 - 1945年5月10日) は、チェコスロヴァキア及びナチス・ドイツの政治家。ズデーテン・ドイツ人の指導者的存在だった人物。

略歴[編集]

当時オーストリア・ハンガリー帝国領(現在はチェコ共和国領)だったライヒェンブルクのマテルスドルフの出身(ヴラティスラヴィツェ・ナド・ニソウ(en:Vratislavice nad Nisou))。母にはチェコ人の血も流れていた。ヤブロネツ・ナド・ニソウの商業学校で学ぶ。第一次世界大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍したが、イタリア軍の捕虜となった。オーストリアの敗戦後、故郷はチェコスロヴァキアとしてオーストリアから独立した。チェコスロヴァキアへ帰国して銀行で事務員として働いた。ズデーテン・ドイツ人による政治活動に参加するようになる。

1933年にはズデーテン・ドイツ郷土戦線(略称SHF 、ドイツ語:Sudetendeutsche Heimatfront 、チェコ語:Sudetoněmecká vlastenecká fronta) を立ち上げた。同組織は1935年にズデーテン・ドイツ人党(略称SdP 、ドイツ語:Sudetendeutsche Partei 、チェコ語:Sudetoněmecká strana)となった。当初ヘンラインは、チェコスロヴァキア残留派でアドルフ・ヒトラーやドイツを支持してはおらず、批判もしていた。しかし党首代理であるカール・ヘルマン・フランクにより修正を求められ、1937年頃にはドイツとの統一論者となり、党の意見もドイツとの統一とした。党は「一つの民族、一つの国家、一つの指導者」("Ein Volk, ein Reich, ein Führer!")をスローガンとするようになった。1938年9月のミュンヘン会談を受けてズデーテンラントはドイツに編入されることが決まり、1938年11月5日にはヘンライン達のズデーテン・ドイツ人党もナチス党に吸収された。ヘンラインには親衛隊中将位と国会議員の職が与えられた。1939年にチェコの残りの部分もドイツのベーメン・メーレン保護領と化し、1939年3月から4月にかけてその民政長官に任じられた。しかし同地の権力は親衛隊及び警察高級指導者に任じられたカール・ヘルマン・フランクが握るところが大きかった。さらに1939年5月にはナチ党のズデーテンラント大管区指導者となる。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までこの地位を保持した。

1945年5月にアメリカ軍に逮捕された。拘禁先のピルゼンで眼鏡の破片で静脈を切って自殺した。ピルゼン中央墓地の無名墓地に葬られた。

キャリア[編集]

親衛隊の階級[編集]

受章[編集]