ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)
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DD-537 ザ・サリヴァンズ | |
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![]() ザ・サリヴァンズ(1962年10月29日) | |
基本情報 | |
建造所 | ベスレヘム造船 |
運用者 |
![]() |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | フレッチャー級駆逐艦 |
モットー |
We Stick Together (我々はいつも一緒だ) |
艦歴 | |
起工 | 1942年10月4日 |
進水 | 1943年4月4日 |
就役 |
1943年9月30日 1951年7月6日(再就役) |
退役 |
1946年1月10日 1965年1月7日(再退役) |
除籍 | 1974年12月1日[1] |
その後 | 博物館船として保存 |
要目 | |
排水量 | 2,100トン |
全長 | 376ft 3in(114.7m) |
最大幅 | 39ft 8in(12.1m) |
吃水 | 17ft 9in(5.4m) |
機関 | 蒸気タービン、2軸推進 60,000shp(45MW) |
最大速力 | 36ノット(67km/h) |
乗員 | 士官・兵員336名 |
兵装 |
竣工時:5インチ単装砲×5基 40mm連装機関砲×5基 20mm単装機関砲×7基 21インチ五連装魚雷発射管×2基 爆雷投下軌条×2基 爆雷投射機×6基 博物館船:5インチ単装砲×4基 3インチ連装速射砲×2基 40mm連装機関砲×2基 20mm連装機関砲×2基 ヘッジホッグ対潜迫撃砲×2基 Mk 32 短魚雷発射管×2基 爆雷投下軌条×1基 |
その他 |
アメリカ合衆国国家歴史登録財(1986年1月14日指定) アメリカ合衆国国定歴史建造物(1986年1月14日指定) |
ザ・サリヴァンズ(USS The Sullivans, DD-537)はアメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級。艦名は、1942年11月の第三次ソロモン海戦における軽巡洋艦ジュノーの沈没により五人兄弟全員が戦死した悲劇で知られるサリヴァン兄弟に因む。本艦はサリヴァン兄弟に因む最初の艦であるとともに、アメリカ海軍艦艇で複数人の名前に由来する最初の艦でもあった。
ザ・サリヴァンズはニューヨーク州バッファローのバッファロー・エリー郡海事軍事公園で博物館船として保存されており、アメリカ合衆国国定歴史建造物とアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
艦歴[編集]
本艦は1942年10月10日にパトナム(Putnam, DD-537)としてカルフォルニア州サンフランシスコのベスレヘム造船で起工後、建造中の1943年2月6日にサリヴァン兄弟に因みザ・サリヴァンズへ改名された。ザ・サリヴァンズは1943年4月4日にサリヴァン兄弟の母であるトーマス・F・サリヴァン(Thomas F. Sullivan)夫人の手により進水し、1943年9月30日にケネス・M・ジェントリー(Kenneth M. Gentry)中佐の指揮の下で就役した[2]。
公試完了後の1943年12月23日、ザ・サリヴァンズはドーチ(USS Dortch, DD-670)とガトリング(USS Gatling, DD-671)とともに真珠湾へ向かい5日後に到着した。ハワイ近海での訓練中だった1944年1月16日にザ・サリヴァンズは第52駆逐戦隊(Destroyer Squadron 52, DesRon 52)に配属され、第58.2任務集団(Task Group 58.2, TG 58.2)とともに真珠湾を出発したザ・サリヴァンズはクェゼリンの戦いに参加するためマーシャル諸島へ向かった[2]。
クェゼリンの戦い[編集]
1月24日から任務集団はクェゼリン環礁のルオット島空襲を開始し、以降2日間ザ・サリヴァンズは空襲を継続する空母エセックス(USS Essex, CV-9)、イントレピッド(USS Intrepid, CV-11)、カボット(USS Cabot, CV-28)を護衛した。その後も2月2日に任務集団がメジュロへ補給に戻るまでの間、クェゼリン環礁周辺での任務を継続した[2]。
トラック島空襲[編集]
2月12日にザ・サリヴァンズは、今度は日本海軍の重要な泊地であるトラック島を空襲する第58.2任務集団を護衛する任務に就く。2月16日に所定の海域に到着後、3隻の空母は艦載機を発進させてトラック島に激しい空襲を加えた(トラック島空襲)。日本海軍艦艇に多大な損害を与えたものの、2月17日に敵機の反撃によりイントレピッドに魚雷が命中、速力が20ノットまで低下し操舵の自由を失った。ザ・サリヴァンズはオーウェン(USS Owen, DD-536)、ステンベル(USS Stembel, DD-644)とともに損傷したイントレピッドをメジュロまで護衛した。2月21日のメジュロ到着後、ザ・サリヴァンズはすぐにハワイへ向かい3月4日に真珠湾に到着、入渠修理を行った[2]。
3月22日、ザ・サリヴァンズはパラオ、ヤップ島、ウォレアイ環礁の空襲に向かう複数の任務集団の護衛に就き、29日の海域到着以降は空母の護衛と度々襲撃してくる日本軍機に対する対空戦闘を行った[2]。
補給のためメジュロに戻った後、ザ・サリヴァンズはホーランジア、タナメラ、ワクデ島への空襲とアイタペへの上陸支援を行う第58.2任務集団を護衛した。続いてザ・サリヴァンズは4月下旬にトラック島への再度の空襲に参加する。4月29日にザ・サリヴァンズらは、低空飛行で接近してきた日本軍機に襲撃された。アメリカ側のレーダーは16マイル先で敵機を発見し、射程内に入ったところでザ・サリヴァンズは5インチ主砲と40mm連装機銃で射撃を開始した。2機は対空砲火で撃墜され、1機は炎上しながらザ・サリヴァンズの前方を横切り左舷側の海面に墜落した[2]。
5月1日にザ・サリヴァンズはポナペ島北西近海に到着、島を砲撃する戦艦アイオワ(USS Iowa, BB-61)らの護衛を担当した。またザ・サリヴァンズはトゥム岬(Tumu Point)へ最大射程から18発の砲弾を発射し、それから日本側の大発3隻が着岸しているのを発見して目標を変更した。しかしながら、ザ・サリヴァンズは間もなく射撃停止の命令を受け取った[2]。
空母ヨークタウン(Yorktown, CV-10)から給油を受けながらザ・サリヴァンズは5月4日にメジュロに到着した。10日後、ザ・サリヴァンズを含む第58.2任務集団は南鳥島とウェーク島への空襲に出撃し、日本側の反撃なしに5月19日から3日間空襲を行った。帰路、ザ・サリヴァンズと姉妹艦らは対潜哨戒を行ったが戦果はなかった[2]。
マリアナ諸島の戦い[編集]

1944年6月6日、ザ・サリヴァンズはサイパン島、テニアン島、グアム島へ空襲を行う空母を護衛するため出発した。6月12日の午後にザ・サリヴァンズのレーダーが敵機を捉え、第58.2任務集団は対空戦闘で1機の撃墜を記録した[2]。
サイパンの戦いでアメリカ軍の上陸準備砲撃が始まった6月13日、ザ・サリヴァンズはその日第58.2任務集団と第58.1任務集団が望める位置に留まり、両部隊間の通信拠点として機能した。また、ザ・サリヴァンズは沖合で撃沈された日本の商船の乗員31名を救助して旗艦重巡洋艦インディアナポリス(USS Indianapolis, CA-35)へ移送した[2]。
日本軍機の空襲を受けた6月19日、ザ・サリヴァンズは対空戦闘で彗星1機を撃墜した。一連の攻撃の仕上げとしてパガン島を抵抗なく空襲した後、ザ・サリヴァンズは整備のために第58.2任務集団とともにエニウェトク環礁へ後退した[2]。
硫黄島砲撃[編集]
6月30日にザ・サリヴァンズは再度サイパン島とテニアン島を空襲する空母の護衛に就いた後、今度は硫黄島に向かうことになった。またこの期間中に、ザ・サリヴァンズは第58.2.4任務隊(Task Unit 58.2.4, TU 58.2.4)の戦闘機管制艦として従事している[2]。
独立記念日(7月4日)、ザ・サリヴァンズを含む第58.2.4任務隊からなる第1砲撃部隊(Bombardment Unit One)は硫黄島西岸の目標を艦砲射撃した。15時からザ・サリヴァンズを含む砲撃部隊は射撃を開始したが、間もなく煙や粉塵により観測困難となった。ザ・サリヴァンズは15時48分から飛行場に3斉射を加え、飛行場の掩体壕に駐機されていた一式陸上攻撃機に命中するのが見えた。この射撃によって航空機5機を破壊し、8機に不確実な損傷を与えたと判断された。それから数分後、ザ・サリヴァンズは1隻の二等輸送艦を砲撃し船尾に火災を生じさせた。この輸送艦はミラー(USS Miller, DD-535)の砲撃で完全に破壊された[2]。
その後も第58.2任務集団に復帰したザ・サリヴァンズは、7月をグアム島やロタ島などマリアナ諸島での空襲の護衛で過ごした。9月、ザ・サリヴァンズはフィリピンの日本軍飛行場を空襲する第38.2任務集団(Task Group 38.2, TG 38.2)のレーダーピケット任務を行った[2]。
サイパン島に後退した9月28日の夜明け頃、戦艦マサチューセッツ(USS Massachusetts, BB-59)に接舷して補給・点検を行おうとしていたザ・サリヴァンズは、マサチューセッツの舷側に激しく衝突してしまい舷側と上部構造物に損傷を負った。短期間の対潜哨戒の後、ザ・サリヴァンズは10月1日にウルシー環礁へ向かった[2]。
駆逐艦母艦ディキシー(USS Dixie, AD-14)に接舷して修理中だったザ・サリヴァンズは災難に見舞われた。泊地を襲った大嵐によってザ・サリヴァンズを含む駆逐艦の群れはディキシーから押し流されてしまった。ザ・サリヴァンズは風下へと流されながらも何とかボイラーの蒸気圧を上げて移動しようとしたが、そのままウールマン(USS Uhlmann, DD-687)と衝突してしまった。多くの小型艇が波に翻弄され、そのうちザ・サリヴァンズはストックハム(USS Stockham, DD-683)の艦載艇が波にのまれる前に4名の乗員を救助している。ザ・サリヴァンズは嵐が弱まった10月4日にウルシーへ戻り、再びディキシーの傍らでオーバーホールを行った[2]。
台湾沖航空戦[編集]
ザ・サリヴァンズは10月6日以降、台湾と沖縄を空襲する空母の護衛を行う。10月12日に多数の日本軍機がレーダーに捉えられ、台湾沖航空戦の火ぶたが切って落とされた。続く6時間、約50 – 60機の日本軍機が空襲を行った。日没から45分あまり経った後、ザ・サリヴァンズは右舷から低空で接近してきた一式陸上攻撃機を発見し、射撃により炎上させた。続く15分間、ザ・サリヴァンズを含む部隊は3機を撃墜した。18時56分から19時54分にかけてザ・サリヴァンズは5機の撃破を報じている。敵機の攻撃に対してザ・サリヴァンズは18ノットから29ノットに加減速を繰り返しながら8度の緊急回避を行いつつ対空射撃を続けた[2]。
空襲の第2波は12日21時5分から始まり、翌13日2時35分まで続いた。日本軍機は照明弾を投下して目標であるアメリカ艦隊を照らす間、レーダーを攪乱するために欺瞞紙(チャフ)を多用するようになった。ザ・サリヴァンズらは照明弾の明かりから艦隊を隠すために煙幕の展開を行ったため、一帯に靄と明かりが不気味な光景を作りだしていた。ザ・サリヴァンズと僚艦は22ノットから25ノットで合計38回の一斉回頭を行いながら、敵機を迎撃できるように砲を臨戦態勢に置き続けた[2]。
13日、空母から発進した艦載機は台湾空襲に成功したものの、重巡洋艦キャンベラ(USS Canberra, CA-70)が一式陸攻の雷撃で損傷したため、ザ・サリヴァンズはキャンベラの援護を行った。翌日、今度は軽巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL-81)が雷撃されて損傷、ザ・サリヴァンズはすぐにヒューストンの護衛に加わり、キャンベラとヒューストンを守りながらウルシーへ後退した。後退中の16日にも激しい空襲を受け、ヒューストンは艦尾部に2度目の雷撃を受ける。ザ・サリヴァンズは発砲を開始し、銀河1機を撃墜した。さらにザ・サリヴァンズとステフェン・ポッター(Stephen Potter, DD-538)は別の銀河を射撃して炎上させ、燃える銀河はそのまま軽巡洋艦サンタフェ(USS Santa Fe, CL-60)の艦首近くの海面に突っ込んだ。 ザ・サリヴァンズはヒューストンから118名を救助し、18日に重巡洋艦ボストン(USS Boston, CA-69)へ移乗させた。ザ・サリヴァンズは損傷したヒューストンに応急修理用の機材を運搬し、負傷者への援助を行った。このヒューストンに対するザ・サリヴァンズによる一連の救援活動の功績により、ラルフ・J・バウム(Ralph J. Baum)中佐は彼にとって初となる銀星章を受章した[2]。
レイテ沖海戦[編集]

10月20日、ザ・サリヴァンズは第38.2任務集団(Task Group 38.2, TG 38.2)に加わり、レイテ沖海戦に参加することになった。24日の夜明け、偵察機がミンドロ島南方で日本艦隊を発見し、任務集団の空母は攻撃のため艦載機を発進させた。同日朝に日本側の空襲を受け、ザ・サリヴァンズは一式戦闘機1機撃墜を記録した[2]。
10月25日に北方から日本艦隊が南下しているのが発見されたため、ザ・サリヴァンズを含む第34任務部隊(Task Force 34, TF 34)が編成され、空母機動部隊第38任務部隊(Task Force 38, TF 38)に従って北を目指した。25日の早朝に日本艦隊から約60マイルの地点から艦載機を発進させ、11時に第34任務部隊は反転した。戦艦アイオワとニュージャージー(USS New Jersey, BB-62)、3隻の軽巡洋艦、そして給油を受けたザ・サリヴァンズを含む駆逐艦8隻は高速攻撃集団第34.5任務集団(Task Group 34.5, TG 34.5)を編成し、3時間にわたって日本艦隊の追撃を行ったが取り逃がした。第34.5任務集団は「愛宕型重巡洋艦」1隻撃沈を主張したが[2]、これは駆逐艦野分の誤認であった[3]。
フィリピンの戦い[編集]
ザ・サリヴァンズらは第38.2任務集団に復帰し、11月中旬を通じて空母の護衛とプレーンガード任務を行った。日本側による数多くの空襲の一つと戦っていた11月19日の夕暮れ時、ザ・サリヴァンズは対空戦闘によって1機の一式陸攻を撃破した。その一式陸攻は煙を吐いてはいたが、しっかり飛びながら水平線の向こうへと消えていった。6日後、ザ・サリヴァンズは日本軍機1機を射撃し、こちらは炎上しながら海面に突っ込んだ。その2日後に任務集団はウルシーに戻った[2]。
第38.2任務集団に復帰したザ・サリヴァンズは12月8日から11日にかけて演習を行った後、マニラやルソン島南部への空襲を行う空母を護衛した。しかし、任務後に給油を受けつつあったザ・サリヴァンズはコブラ台風に遭遇した。12月18日に風速115ノットにも達した激しい暴風に襲われた艦隊は駆逐艦3隻が沈没し数隻が損傷したが、煙突に「幸運のクローバー」を描いていたザ・サリヴァンズは被害を受けなかった。そして12月20日から他の艦から海に投げ出された乗員の捜索活動を始めた。悪天候はなかなか収まらなかったため、空襲は中止となりザ・サリヴァンズはクリスマス・イヴにウルシーへ帰投した[2]。
1944年12月30日、ザ・サリヴァンズはアイオワを護衛してウルシーを出撃、ルソン島の戦いを支援するために台湾を空襲する第38.2任務集団の護衛艦として活動した。年が明けた1945年1月9日、悪天候のため3日遅れで艦隊はバシー海峡を抜けて南シナ海に入った。3日後、艦載機はサイゴンとカムラン湾を空襲した。空襲後すぐにザ・サリヴァンズは戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦14隻とともに第34.5任務集団を構成し、カムラン湾で日本の残存船舶を掃討するために向かったが、狙いに反して船舶の姿は全くなかった。対照的に、空母艦載機は海南島、香港そして台湾を空襲した。ザ・サリヴァンズは任務集団から10マイル前方に進出してレーダーピケット任務に従事した[2]。
硫黄島の戦い[編集]
1月下旬にウルシーで短期間のメンテナンスを行った後、ザ・サリヴァンズを含む第58.2任務集団は日本本土への空襲を行う。2月16日から17日にかけて本州の東京やその周辺の目標を空襲し、さらに18日から21日まで硫黄島の戦いを支援するため硫黄島の地上目標に激しい攻撃を加えた。さらなる東京への4日間の空襲は悪天候により断念された。海域を離れた任務集団は、2月28日午後に沖縄沖で給油を行った。同日、ザ・サリヴァンズは浮遊する機雷1個を発見し破壊した。3月1日の夜明けに艦載機を発進させ、沖縄の日本側拠点へ空襲を行う。任務集団は日本側の反撃を受けることなく速やかにウルシーへ後退した[2]。
ザ・サリヴァンズは12日後、九州と本州南部を空襲する第58.2任務部隊を護衛するために出撃した。3月20日、ザ・サリヴァンズは空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)と並走しながら洋上給油を受けていたが、給油を終えて5分後の11時52分に神風特別攻撃隊による空襲の警報があり乗員達を慌てさせた。14時39分、再びエンタープライズと並走中に警報が起こった。今度はザ・サリヴァンズのFDレーダーにはっきりと捉えられた。ところが、直後に別の敵編隊による空襲が艦隊を揺るがした。ザ・サリヴァンズは増速して他の艦艇から距離を置くと、僚艦とともに対空砲火を始めた。一機の特攻機が弾幕を突破し、空母ハンコック(USS Hancock, CV-19)から給油中だった駆逐艦ハルゼー・パウエル(USS Halsey Powell, DD-686)の艦尾に突入した。損傷したハルゼー・パウエルは操舵不能となり、向きを変えるとハンコックの艦首に接近していった。幸いにも、ハンコックは急転舵で回避に成功した[2]。
ザ・サリヴァンズはすぐにハルゼー・パウエルへ援助のために接近する。減速し11分後に完全に停止したザ・サリヴァンズは内火艇に軍医と薬剤師補を乗せて送り出したが、16時10分に零式艦上戦闘機が接近しつつあるのをレーダーで発見した。内火艇を速やかに揚収したザ・サリヴァンズは、直ちに増速して面舵をとると接近する零戦に40mmと20mmの機銃を発砲した。零戦はザ・サリヴァンズのマストの100フィート上空を通過していったため難を逃れた。5ノットでのろのろと移動するハルゼー・パウエルに付き添いながら、ザ・サリヴァンズはウルシーへ後退した[2]。
ところが問題は続き、3月21日10時46分にザ・サリヴァンズは15マイル先から接近する敵機を捉えた。それは1機の銀河であり、ザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルの5インチ主砲によって撃墜された。12時50分には、ザ・サリヴァンズからの管制の下でヨークタウンから発進した戦闘空中哨戒(CAP)任務のF6F戦闘機が二式複座戦闘機もしくは一〇〇式司令部偵察機と思われる敵機を撃墜している[2]。
3月25日にザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルはウルシーへ到着した。ハルゼー・パウエルは修理を行い、ザ・サリヴァンズはメンテナンスと訓練を実施した[2]。
沖縄の戦い[編集]
沖縄沖で第58任務部隊(Task Force 58, TF 58)と合流したザ・サリヴァンズは、沖縄の戦いの上陸援護を行う空母の護衛に就いた。レーダーピケット任務中の3月15日に空襲を受けたが、1機を撃墜し被害はなかった。ザ・サリヴァンズは以降も本隊から12から15マイルの距離を保ちながらレーダーピケット任務を続けた。4月29日の午後、ザ・サリヴァンズが空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill, CV-17)から給油を受けようとしていたところに空襲警報が行われ、やむなくバンカー・ヒルから離れざるを得なかった。この空襲ではヘイゼルウッド(USS Hazelwood, DD-531)とハガード(USS Haggard, DD-555)に特攻機が突っ込んだが生き残ることができた[2]。
沖縄近海で活動するアメリカ艦隊や揚陸艦艇への攻撃は続き、5月11日にはバンカー・ヒルに特攻機が突入する。ザ・サリヴァンズは炎上するバンカー・ヒルへ救援のために接近し、破壊の酷い区画から炎に追い立てられた166名の乗員を移乗させた。艦艇は第50.8任務集団(Task Group 50.8, TG 50.8)へ移され給油を受けた後、ザ・サリヴァンズは第58.3任務集団(Task Group 58.3, TG 58.3)を護衛して九州への空襲を行った。3日後の朝に行われた空襲のさなか、エンタープライズが特攻機に突入された。混戦の中で艦隊は4機の特攻機を撃墜し、そのうち1機をザ・サリヴァンズが撃墜した。これはザ・サリヴァンズにとって第二次世界大戦で最後の戦闘と戦果になった[2]。
6月1日、ザ・サリヴァンズは休養と整備のためにレイテ島サンペドロ湾に停泊した。6月20日にレイテ島を出発し、エニウェトク環礁と真珠湾を経由しながら西海岸へ向かう。ザ・サリヴァンズは7月9日にカリフォルニア州メア・アイランド海軍造船所へ到着してオーバーホールに入り、そのまま終戦の日を迎えた。ザ・サリヴァンズはオーバーホール完了直後の1946年1月10日にサンディエゴで退役し、太平洋予備役艦隊(Pacific Reserve Fleet)で保管された[2]。
朝鮮戦争[編集]
朝鮮戦争の勃発に伴い、ザ・サリヴァンズは1951年7月6日にアイラ・M・キング(Ira M. King)中佐の指揮の下で再就役した。すぐにパナマ運河経由で母港に指定されたロードアイランド州ニューポートへ向かい、1951年の冬から翌1952年にかけて東海岸とカリブ海で訓練を行った[2]。
1952年9月6日、ザ・サリヴァンズはニューポートを発ち日本へ向かった。パナマ運河、サンディエゴ、真珠湾、ミッドウェー島を経由しながらザ・サリヴァンズは10月10日に佐世保に到着した。だが、翌日には朝鮮半島東岸沖合で第77任務部隊(Task Force 77, TF 77)に合流すべく出港し、北朝鮮軍の補給路遮断や国連軍地上部隊の支援を行う空母の護衛を行った。10月20日まで任務を行ったザ・サリヴァンズは海域を離れ、短期間の整備のために横須賀へ向かった[2]。
沖縄の中城湾を経由し、ザ・サリヴァンズは1952年11月16日に空母の護衛とプレーンガード任務のため第77任務部隊に復帰した。ザ・サリヴァンズはウラジオストクから75マイル以内の距離にある北朝鮮の補給線最北部を攻撃する空母を護衛した。MiG-15戦闘機が任務部隊に接近してきたが、空中戦闘哨戒のF9Fによって2機が撃墜され、1機が撃破された。これは海上における史上初のジェット機同士の空中戦であった[2]。
ザ・サリヴァンズは12月5日に佐世保に戻り、12月4日からは朝鮮半島沿岸で国連軍による海上封鎖に参加した。これは北朝鮮の海上交通阻止と、沿岸部での北朝鮮の補給路遮断や国連軍地上部隊支援を目的とした砲撃任務であった。「G」エリアに到着後、16日にザ・サリヴァンズは城津の重要な鉄道ターミナルや補給廠を確認する。続く数日間、ザ・サリヴァンズは鉄道やトンネル、補給施設を砲撃で破壊するとともに修復を妨害し続けた[2]。
1952年のクリスマスの日、ザ・サリヴァンズは鉄道橋に直撃弾を記録した。返礼にザ・サリヴァンズの周囲には北朝鮮軍の沿岸砲台から約50発の砲弾が降り注いだ。しかし命中弾はなく、至近弾の水柱と砲弾の破片が甲板に降っただけであった。ザ・サリヴァンズの反撃砲火は少なくとも北朝鮮軍の砲1基を破壊した[2]。
その後ザ・サリヴァンズは本国に帰還することになり、1953年1月26日に横須賀を出港した。ザ・サリヴァンズは中城湾、香港、スービック湾、シンガポール、コロンボ、ボンベイ、バーレーン、アデンを経由して紅海に入りスエズ運河を通過、さらにナポリ、カンヌ、ジブラルタルに寄港した後に4月11日ニューポートに到着した[2]。
第6艦隊[編集]
ザ・サリヴァンズは夏の間母港周辺で活動した後、年内の残りの期間を第6艦隊で地中海に展開して過ごした。1954年2月3日にニューポートへ帰還した後、1955年5月まで東海岸やカリブ海で、さらに同年5月から8月までヨーロッパと地中海で活動する[2]。
以降数年間、ザ・サリヴァンズは東海岸と地中海で活動を続けた。1958年夏にはレバノン紛争発生に伴いレバノンへ派遣され、介入のためにベイルートへ上陸するアメリカ海兵隊を支援した。内乱が鎮圧された後、ザ・サリヴァンズは本国に帰還して3ヶ月間の入渠を実施してからキューバのグアンタナモ湾で訓練を行った[2]。
1959年3月、ザ・サリヴァンズは対潜空母レイク・シャンプレイン(USS Lake Champlain, CVS-39)らとハンターキラーグループを構成し、対潜戦訓練を通じた海軍兵学校生徒の訓練航海を行う。その後は地中海へ展開して秋に母港へ帰還するまで活動した[2]。
1960年には母港周辺でしばらく活動した後、フロリダ州キーウェスト沖でアスロック対潜ミサイルの評価試験に参加。この期間中にザ・サリヴァンズはケープ・カナベラル沖合で墜落したKC-97空中給油機の生存者5名の救助活動に参加している[2]。
9月に北大西洋条約機構の演習に参加した後、ザ・サリヴァンズはポルトガルのリスボンを訪問し、速やかに地中海、スエズ運河、紅海を抜けて東パキスタンのカラチに到着した。ザ・サリヴァンズはパキスタン海軍、イラン海軍、イギリス海軍の艦艇とともに10月後半から11月初めにかけて中央条約機構合同演習「ミッドリンクIII」(Midlink III)に参加した。地中海に戻った後、ザ・サリヴァンズは第6艦隊及びフランス海軍と演習を実施し、クリスマスに母港へ帰還した[2]。
1961年1月、ザ・サリヴァンズはニューハンプシャー州ポーツマス沖で原子力潜水艦エイブラハム・リンカーン(USS Abraham Lincoln, SSBN-602)の洋上公試を支援し、その後は南へ向かい「スプリングボード作戦」(Operation Springboard)に参加した。カリブ海ではマルティニークを訪問、3月初めに短期間ニューポートへ戻るが、ザ・サリヴァンズはすぐに西インド諸島へ取って返しプエルトリコのビエケス島で海兵隊の上陸演習に参加した[2]。
1961年4月、ザ・サリヴァンズはフロリダ沖でマーキュリー計画に備えた激しい訓練を行う。ザ・サリヴァンズはフロリダ州メイポート海軍補給基地でレイク・シャンプレインと合流し、所定の海域へ向かった。5月5日、アメリカ人初の宇宙飛行を行ったアラン・シェパード中佐が乗るマーキュリー3号(フリーダム7)が頭上を飛び越えてレイク・シャンプレインの近くに着水し、速やかにヘリコプターで空母の艦上に回収された。任務を終えたザ・サリヴァンズは6月に海軍兵学校生徒の訓練航海を行い、ニューヨークとカナダのノバスコシア州ハリファックスを訪問した[2]。
1961年9月から1962年2月にかけてザ・サリヴァンズはボストン海軍工廠で本格的な整備を実施し、それからすぐに練習艦任務に就くためにグアンタナモ湾へ向かった。そこでザ・サリヴァンズは、士官の卵たちに駆逐艦での任務の基礎を学ぶ教材としての役割を果たした。5月と8月にはカリブ海で駆逐艦学校(Destroyer School)の訓練航海を行った[2]。
1962年10月、キューバ危機の発生に伴い、ザ・サリヴァンズはアメリカ海軍によるキューバの海上封鎖に参加する。最終的にソ連との外交交渉によって緊張状態は緩和されたため、ザ・サリヴァンズはニューポートへ帰還した[2]。
1963年1月7日、ザ・サリヴァンズはニューポートからカリブ海への訓練航海の途上にあった。ニューポートへ帰港後は、駆逐艦学校の近海での任務に従事した。4月10日にボストン沖で原子力潜水艦スレッシャー(USS Thresher, SSN-593)の沈没事故が発生したため、ザ・サリヴァンズは緊急の事故調査活動に加わることになった[2]。
以降は1964年の最初の数か月まで、ザ・サリヴァンズは海軍兵学校生徒の訓練を続けた。4月1日、ザ・サリヴァンズはアメリカ海軍予備員の訓練部隊に移され、母港もニューヨークに変更された。4月13日にニューポートを出港しニューヨークで予備役兵を乗せたザ・サリヴァンズは、主に対潜訓練を行いながら北はハリファックス、セントジョン、シャーロットタウンといったカナダの街から南はフロリダ州パームビーチに至るまで各地を巡航した[2]。
1964年2月10日、オーストラリア海軍の空母メルボルン(HMAS Melbourne, R21)が訓練中に駆逐艦ヴォイジャー(HMAS Voyager, D04)と衝突しヴォイジャーが沈没する事故(メルボルン・ヴォイジャー衝突事故)が発生したため、アメリカ政府によりヴォイジャーの当面の代替としてザ・サリヴァンズとトワイニング(USS Twining, DD-540)を提供する提案がなされた。結局、オーストラリア海軍はイギリス海軍からヴォイジャーと同型のデアリング級駆逐艦ダッチェス(HMS Duchess, D154)を譲渡されたため実現することはなかった[4]。
博物館船として[編集]

1965年1月7日にザ・サリヴァンズはフィラデルフィア海軍造船所で退役し、1970年代まで予備役に置かれた。1974年12月1日に除籍されたザ・サリヴァンズは1977年以降ニューヨーク州バッファローのバッファロー・エリー郡海事軍事公園で博物館船として保存されており[2]、傍らにはミサイル巡洋艦リトルロック(USS Little Rock, CG-4)と潜水艦クローカー(USS Croaker, SS-246)も保存されている[5]。ザ・サリヴァンズは世界に現存する4隻のフレッチャー級駆逐艦の1隻であり[6]、1986年1月14日にアメリカ合衆国国定歴史建造物とアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された[7]。
1995年8月12日には「ザ・サリヴァンズ」の艦名を受け継いだアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦ザ・サリヴァンズ(USS The Sullivans, DDG-68)が進水し、2020年現在も就役中である[8]。
栄典[編集]
ザ・サリヴァンズは第二次世界大戦で9個、朝鮮戦争で2個の従軍星章を受章した[2][9]。
出典[編集]
- ^ “駆逐艦野分”. 近代世界艦船事典. 2019年2月10日閲覧。
- ^ Frame, Tom (2005). The Cruel Legacy: the HMAS Voyager tragedy. Crows Nest, NSW: Allen & Unwin. pp. 21–22. ISBN 1-74115-254-2. OCLC 61213421
- ^ “USS THE SULLIVANS (DD-537)”. HISTORIC NAVAL SHIPS ASSOCIATION. 2019年2月26日閲覧。
- ^ “A World War II Destroyer’s Demise in Mexico”. At War. 2019年2月26日閲覧。
- ^ “THE SULLIVANS (DD 537)”. NAVAL VESSEL REGISTER. 2019年2月26日閲覧。
- ^ “USS THE SULLIVANS (DDG-68)”. www.navsource.org. 2020年5月7日閲覧。
- ^ “USS TheSullivans DD 537”. DESTROYER HISTORY FOUNDATION. 2019年2月10日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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