ジェニファー・カプリアティ (Jennifer Capriati , 1976年 3月29日 - )は、アメリカ ・ニューヨーク 市出身の女子プロテニス 選手。パワーテニスを展開するベースライン・プレーヤーで、強力なフォアハンド・ストロークを持ち味とする。WTA ツアーで4大大会 3勝を含むシングルス14勝、ダブルスで1勝を挙げた。
来歴 [ 編集]
1990年 3月、14歳の誕生日の2週間前にプロ転向を認められ、直ちにデビュー戦の大会でいきなり決勝戦に勝ち進んだ。プロ入り3大会目にして、カプリアティは世界ランキング25位に入る。4大大会 初出場となった全仏オープン でも14歳2ヶ月でいきなりベスト4進出を果たし、その年に16歳6ヶ月で大会最年少優勝を飾ったモニカ・セレシュ に 2-6, 2-6 で敗れた。続くウィンブルドン でカプリアティは「第12シード」に選ばれ、「14歳3ヶ月」で4大大会女子シングルスの最年少シード選手の記録を更新した。
その後も天才少女ぶりを発揮し、1991年 に15歳でウィンブルドン と全米オープン の2大会連続でベスト4に進出する。ウィンブルドンでは、前年 に大会史上最多優勝記録「9勝」を樹立した前年優勝者のマルチナ・ナブラチロワ を準々決勝で破り、さらに評価を高めた。1992年 のバルセロナ五輪 で、カプリアティは女子シングルス決勝で第1シードのシュテフィ・グラフ を 3-6, 6-3, 6-4 で破り、16歳の若さで金メダルを獲得した。しかし、燃え尽き症候群 から過ちを犯してしまい、1993年全米オープン の1回戦敗退を最後に長期間テニスから遠ざかる。1994年 5月16日にマリファナ 所持容疑で逮捕されたカプリアティは、一時はテニス選手としての再起を危ぶまれた。
1996年 テニス界に復帰。3年後の1999年 頃からテニス成績も復調し始め、全仏オープン で6年ぶりの4回戦進出を果たす。同年の全米オープン でも4回戦まで勝ち進んだカプリアティは、敗戦後の記者会見で「過去との決別」を宣言し、6年間の歳月を経て燃え尽き症候群から回復した[1] 。2000年 の全豪オープン では準々決勝で杉山愛 を破り、初のベスト4に進出する。この時期、日本人のテニスコーチである中村豊がカプリアティのトレーナーを担当していた。
2001年 の全豪オープン 決勝でマルチナ・ヒンギス を 6-4, 6-3 で破り、少女時代に果たせなかった4大大会 初優勝を実現させる。続く全仏オープン でも決勝でベルギー の18歳、キム・クライシュテルス を 1-6, 6-4, 12-10 で破り、4大大会に2連続優勝を達成する。2001年 10月15日、ヒンギスを抜いて自己最高の世界ランキング1位になった。2002年 の全豪オープン ではヒンギスにマッチ・ポイント4本を握られながらも、そこから逆転して大会2連覇を飾った。それ以後はウィリアムズ姉妹やベルギー勢などの台頭もあり、4大大会の優勝から遠ざかっている。
2003年 は前年オフの目の手術などの影響で全豪オープン に初戦敗退を喫し、大会3連覇を逃す。同年の全米オープン 準決勝でジュスティーヌ・エナン=アーデン に敗れた試合のように(決勝進出まであと2ポイントに迫りながらも逆転負け)、惜しい試合展開で4大大会決勝進出を逃すケースが多くなっていた。燃え尽き症候群からの回復後は、少女時代よりもはるかに強靭なテニスを繰り広げてきた。2004年全米オープン 準決勝では、ロシア のエレーナ・デメンチェワ との対戦で 0-6, 6-2, 6-7(5-7) で敗れ、最終第3セットのタイブレーク を落とした。
この後、カプリアティは長引く肩の故障のため、2004年11月のアメリカ ・フィラデルフィア 大会の2回戦でベラ・ズボナレワ (ロシア )に敗れた試合を最後に試合から遠ざかっている。その後、2005年から2007年までの間に3度肩の手術を受けた[2] 。
カプリアティは2012年に国際テニス殿堂 入りを果たした[3] 。
WTAツアー決勝進出結果 [ 編集]
シングルス: 31回 (14勝17敗) [ 編集]
大会グレード
グランドスラム (3–0)
オリンピック (1-0)
ティア I (2–9)
ティア II (4–6)
ティア III (3–2)
ティア IV & V (1–0)
結果
No.
決勝日
大会
サーフェス
対戦相手
スコア
準優勝
1.
1990年3月5日
ボカラトン
ハード
ガブリエラ・サバティーニ
4–6, 5–7
準優勝
2.
1990年4月2日
ヒルトン・ヘッド
クレー
マルチナ・ナブラチロワ
2–6, 4–6
優勝
1.
1990年10月22日
プエルトリコ
ハード
ジーナ・ガリソン
5–7, 6–4, 6–2
優勝
2.
1991年7月29日
サンディエゴ
ハード
モニカ・セレシュ
4–6, 6–1, 7–6(2)
優勝
3.
1991年8月5日
トロント
ハード
カテリナ・マレーバ
6–2, 6–3
準優勝
3.
1991年11月11日
フィラデルフィア
カーペット (室内)
モニカ・セレシュ
5–7, 1–6
優勝
4.
1992年7月27日
バルセロナ五輪
クレー
シュテフィ・グラフ
3–6, 6–3, 6–4
優勝
5.
1992年8月24日
サンディエゴ
ハード
コンチタ・マルティネス
6–3, 6–2
優勝
6.
1993年1月11日
シドニー
ハード
アンケ・フーバー
6–1, 6–4
準優勝
4.
1993年8月16日
トロント
ハード
シュテフィ・グラフ
1–6, 6–0, 3–6
準優勝
5.
1996年11月3日
シカゴ
カーペット (室内)
ヤナ・ノボトナ
4–6, 6–3, 1–6
準優勝
6.
1997年1月6日
シドニー
ハード
マルチナ・ヒンギス
1–6, 7–5, 1–6
優勝
7.
1999年5月17日
ストラスブール
クレー
エレーナ・リホフツェワ
6–1, 6–3
優勝
8.
1999年11月7日
ケベックシティ
ハード (室内)
チャンダ・ルビン
4–6, 6–1, 6–2
優勝
9.
2000年9月25日
ルクセンブルク
カーペット (室内)
マグダレナ・マレーバ
4–6, 6–1, 6–4
準優勝
7.
2000年11月5日
ケベックシティ
ハード (室内)
チャンダ・ルビン
4–6, 2–6
優勝
10.
2001年1月27日
全豪オープン
ハード
マルチナ・ヒンギス
6–4, 6–3
準優勝
8.
2001年2月19日
オクラホマシティ
ハード (室内)
モニカ・セレシュ
3–6, 7–5, 2–6
準優勝
9.
2001年3月21日
マイアミ
ハード
ビーナス・ウィリアムズ
6–4, 1–6, 6–7(4)
優勝
11.
2001年4月16日
チャールストン
クレー
マルチナ・ヒンギス
6–0, 4–6, 6–4
準優勝
10.
2001年5月7日
ベルリン
クレー
アメリ・モレスモ
4–6, 6–2, 3–6
優勝
12.
2001年5月28日
全仏オープン
クレー
キム・クライシュテルス
1–6, 6–4, 12–10
準優勝
11.
2001年8月13日
トロント
ハード
セリーナ・ウィリアムズ
1–6, 7–6(7), 3–6
優勝
13.
2002年1月26日
全豪オープン
ハード
マルチナ・ヒンギス
4–6, 7–6(6), 6–2
準優勝
12.
2002年2月25日
スコッツデール
ハード
セリーナ・ウィリアムズ
2–6, 6–4, 4–6
準優勝
13.
2002年3月20日
マイアミ
ハード
セリーナ・ウィリアムズ
5–7, 6–7(4)
準優勝
14.
2002年8月12日
モントリオール
ハード
アメリ・モレスモ
4–6, 1–6
準優勝
15.
2003年3月19日
マイアミ
ハード
セリーナ・ウィリアムズ
6–4, 4–6, 1–6
準優勝
16.
2003年7月21日
スタンフォード
ハード
キム・クライシュテルス
6–4, 4–6, 2–6
優勝
14.
2003年8月18日
ニューヘイブン
ハード
リンゼイ・ダベンポート
6–2, 4–0, 途中棄権
準優勝
17.
2004年5月10日
ローマ
クレー
アメリ・モレスモ
6–3, 3–6, 6–7(6)
ダブルス: 2回 (1勝1敗) [ 編集]
4大大会優勝 [ 編集]
4大大会シングルス成績 [ 編集]
略語の説明
W
F
SF
QF
#R
RR
Q#
LQ
A
WG
Z#
PO
SF-B
S
G
NMS
NH
W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加 WG=デビスカップワールドグループ, Z#=デビスカップ地域ゾーン, PO=デビスカッププレーオフ, SF-B=オリンピック銅メダル, S=オリンピック銀メダル, G=オリンピック金メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, NH=開催なし.
脚注 [ 編集]
外部リンク [ 編集]