ジャヤ・シンハヴァルマン3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ジャヤ・シンハヴァルマン3世
जय आनंद ३
チャンパ王
在位 1288年 - 1307年

死去 1307年5月
配偶者 バスカラデーヴィー
  タパシー
  パラメーシュヴァリ(玄珍公主中国語版
王朝 第12王朝
父親 インドラヴァルマン5世
母親 ガウレンドラクシュミー
テンプレートを表示

ジャヤ・シンハヴァルマン3世サンスクリット語: जय सिंहवर्मन ३, ラテン文字転写: Jaya Siṃhavarman III, 生年不詳 - 1307年5月)は、チャンパ王国占城国中国語版)第12王朝の後期第4代国王(在位:1288年 - 1307年)。初名はシュリー・ハリジット・ポー・デーヴァダー・スヴォルチャム語: Sri Harijit Po Devada Svor)。『大越史記全書』では制旻ベトナム語: Chế Mân)、『元史』では補的ベトナム語: Bổ Đích)と記される。

生涯[編集]

インドラヴァルマン5世の長男。王子時代からチャンパの実権を握っていた。1282年11月占城行省中国語版の兵が上陸すると、元に臣従することを潔しとしなかった[1]ハリジットは木城を築いて抵抗した。元の李天祐らが降伏を勧めてきたが、応じなかった。1283年2月13日に元の陳仲達・劉金らに木城を破られると、父王と共に王都ヴィジャヤ英語版を放棄して西北の鴉候山に逃亡した。ハリジットは自分が戦傷死したという虚報を流させて時間を稼ぎ、抵抗を続けた。1284年3月24日に元軍を撤兵に追い込んだ[2]

父王の死後、王位を継承した。1292年ジャワ遠征英語版に向かう元の艦隊がチャンパに寄ろうとしたが、堅固な意思をもってこれを拒否した[3]1301年3月大越太上皇仁宗をチャンパに迎えて[4]約9ヶ月の間歓待した。去り際に仁宗は娘の玄珍公主中国語版との婚約を提案した。ジャヤ・シンハヴァルマン3世には既にジャワマレー語版出身のタパシー[5]という妃がいたがこれを受け入れた[3]

1306年2月、制蒲苔ら百余人を大越に遣使して金銀奇香を献じ、玄珍公主の招聘を要請した。翌1306年6月、玄珍公主(パラメーシュヴァリ[3])を妃に迎えた[2][4]。返礼としてヴヤルベトナム語版(現在のクアンチ省)とウリクベトナム語版(現在のトゥアティエン=フエ省)の二つの地域を大越に割譲した[2][4][6]1307年パーンドゥランガ中国語版にパーンドゥランガ王ポー・クロン・ガライ英語版を記念してポー・クロン・ガライ塔英語版を、現在のダクラク省エアスップ県英語版エアロック社ベトナム語版ヤンプロン塔ベトナム語版をそれぞれ建立し[3]、同年5月に死去した。

出典[編集]

  1. ^ Cœdès, p. 192
  2. ^ a b c 桜井由躬雄、「南シナ海の世界」 『東南アジア史 I 大陸部』、74頁。 
  3. ^ a b c d Cœdès, p. 217
  4. ^ a b c 桜井由躬雄、「亜熱帯のなかの中国文明」 『東南アジア史 I 大陸部』、183頁。 
  5. ^ KELANT2”. 2017年10月9日閲覧。(英語)
  6. ^ レイ・タン・コイ, p. 75

参考資料[編集]

  • George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681. 
  • 『東南アジア史 I 大陸部』石井米雄桜井由躬雄編、山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504。
  • レイ・タン・コイベトナム語版『東南アジア史』石澤良昭訳、白水社文庫クセジュ〉、2000年4月30日、増補新版。ISBN 978-4560058268。
  • 元史』巻二百十 列伝第九十七 外夷三 占城
  • 新元史』巻二百五十三 列伝第一百五十 外国三 占城
  • 大越史記全書』本紀巻之六 陳紀 英宗皇帝
先代:
インドラヴァルマン5世
チャンパ王
第12王朝後期第4代:
1288年 - 1307年
次代:
ジャヤ・シンハヴァルマン4世