ジュリアおたあ

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ジュリア おたあ(生没年不明)は、安土桃山時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して小西家の猶子となった。

生涯[編集]

出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮両班の娘ともいわれるが、生没年や実名、家系などの仔細は不明である。「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は日本名を示す[1]

文禄の役において、朝鮮征伐軍により平壌近郊で保護されたのち、キリシタン大名小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。のちに関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、駿府城大奥に召し上げられ、家康の側室付きの侍女として仕えた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷しキリスト教の教理書を読み、他の侍女たちをキリスト教信仰に導いたとされる。

しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、伊豆諸島伊豆大島在島30日で新島に、さらに15日後に神津島へと流された[2]。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。また、3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順の求めを断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間と再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。

1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。その後の消息および最期については不明だが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎が、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が出た。以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ、1972年には韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らがおたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。しかしその後、上述の「日本発信」が発見されたため石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管されることになった。

なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。

登場作品[編集]

音楽
小説
  • 『サラン 哀しみを越えて』(荒山徹文藝春秋、単行本版 2005年5月刊 ISBN 4163239405)
    • 同社より文庫化の際に『サラン・故郷忘じたく候』と改題。文庫版 2008年6月刊 ISBN 4167717859
映画
漫画
  • 『春霞の乱』(1990年河村恵利秋田書店 プリンセスコミックス『枕草子』に同時収録。1990年8月刊 ISBN 4253074006)

脚注[編集]

  1. ^ ジュリアについては、日本管区長フランシスコ・パシェコの1622年2月15日付書簡追伸に「Vota Julia」と記載されている。パシェコ神父は「おたあ」を「ヴォタ」と聞き誤って「Vota」と表記したと考えられ、漢字の「太田」を宛てることは難しい。五野井 2017, pp. 307
  2. ^ 五野井 2017, pp. 308

出典[編集]

  • 五野井隆史『キリシタン信仰史の研究』吉川弘文館、2017年、305-308頁。ISBN 9784642034791 。

関連項目[編集]