ジョアン・リベイロ・デ・バロス

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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の)はリベイロ第二姓(父方の)はデ・バロスです。
ジョアン・リベイロ・デ・バロス
、Museu TAM にある「ジャウー号」

ジョアン・リベイロ・デ・バロスJoão Ribeiro de Barros1900年4月4日 - 1947年7月20日)はブラジルのパイロットである。1927年4月、ブラジル人のクルーで南大西洋横断飛行を行った。

サンパウロのジャウーで生まれた。祖父が設立した中学で学んだ後、サンパウロの高校を卒業し、Faculdade do Largo de São Francisco(現在のサンパウロ大学)で法律を学んだ。1919年にアメリカ合衆国で機械工学を学ぶことに決め、その後1923年にフランスで飛行免許を取り、各国でパイロットのキャリアを積んだ。1926年にイタリアからブラジルまでの大西洋横断飛行の計画を始めた。ブラジル政府に資金援助を求めるが実現不可能だと判断されて、援助は得られなかったが、資産を兄弟に売った資金で航空機を求めてイタリアに渡った。イタリアで中古の水上機、サヴォイア・マルケッティ S.55を購入し、修理して、出身地から、「ジャウー号」と名前をつけた。搭乗した乗組員はArthur Cunha (途中で交代)、João Negrão (副操縦士)、Newton Braga (航法士)Vasco Cinquini(機関士)であった。

1926年10月18日にイタリアを出発し、アフリカ大陸西端の岬、カーボベルデに向かって出発したが、エンジン不調でスペインアリカンテに着水すると、エンジンにクラックが見つかり、修理のために中断を余儀なくされた。修理が終了してもスペイン政府が出発の許可をせず、ブラジル政府との交渉を行わなければならなかった。長い滞留は乗員の健康を害し、副パイロットが交代した。カーボ・ベルデのサンティアゴ島からブラジルへの飛行は1927年4月28日に行われ、13時間の飛行の後、ブラジル沿岸の島、フェルナンド・デ・ノローニャに到着した。その後ブラジル各地を飛行し、歓迎を受けた。フランス、ドイツ、イタリアから勲章を受け、航空のパイオニア、アルベルト・サントス・デュモンから祝電を受けた。

1929年には陸上機によるブラジルからヨーロッパへの無着陸飛行を計画し、フランスでブレゲー機を購入し、渡仏中に没した母親の名前 "Margarida"と名づけて、ブラジルへ持ち帰ったが、観衆が集まり出発する直前に起こった政変で、飛行は禁止され、飛行機は没収された。その後ジョアン・リベイロはブラジルを去り、1932年に立憲革命が起こると、ブラジルに戻った。反政府活動の疑いで政府に逮捕されるが証拠がなく釈放されるなどした。1947年に病没した。