ジョン・ガビンズ

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ジョン・ハリントン・ガビンズ
生誕 (1852-01-24) 1852年1月24日
インド
死没 1929年2月23日(1929-02-23)(77歳)
エジンバラスコットランド
国籍 イギリス
職業 外交官、学者

ジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harington Gubbins、1852年1月24日 - 1929年2月23日)は、イギリスの外交官、学者。日本の英国公使館・領事館に長く勤務した。

教育[編集]

ガビンズはパブリックスクールハーロー校を卒業、ケンブリッジ大学に進学できたはずであったが、家庭の財政的理由でそれを断念した。

経歴[編集]

インドアグラの高等裁判所判事だった父親マーチンと母ハリエットの子として生まれる[1]。4人の兄と1人の姉妹がいた[1]。父マーチンは、ジョンが11歳のときに精神的な病から自殺した[1]。ハーロー校卒業後、経済的理由から大学進学は諦め、外国領事館の日本語・中国語通訳者募集に応募し、19歳で在日英国公使館の通訳研修生に合格[1]アルジャーノン・ミットフォードの退職後、1871年明治4年に英国公使館付き通訳生として来日した[2]。その後、1875年(明治8年)4月に2等補佐官[3]1882年(明治15年)1等補佐官、1888年(明治21年)日本語書記官補と順調に昇進を続け、1889年(明治22年)6月1日に通訳としての最高位である日本語書記官に昇進した(アーネスト・サトウウィリアム・アストンに続く三代目)。この間東京副領事代行や横浜代理領事なども務める。

1886年(明治19年)5月から翌年にかけては、各国合同の条約改正会議に参加した。1894年(明治27年)2月から7月まで、英国外務省において駐英公使青木周蔵[4]と、英国外相キンバレーの交渉を補佐し、7月16日日英通商航海条約の調印に成功した。翌年7月の追加協約へ向けての関税委員会の英国代表となる。条約改正問題の解決に対する功労により1898年聖マイケル・聖ジョージ勲章に叙せられ、1902年(明治35年)駐日公使官(1905年大使館に昇格)書記官待遇を与えられる。1900年5月から翌年11月まで駐大韓帝国臨時代理公使。1909年外交官を引退。引退後は、かつての上司であるアーネスト・サトウと親交を結んだ。

正規の大学教育を受けていなかったにも関わらず、日英関係に貢献した業績から、ガビンズはオックスフォード大学ベリオール・カレッジから名誉修士号を授与され、ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)で、1909年から1912年まで極東学と日本語の講義を行ったが、生徒不足から講座は3年で閉鎖された。

家族[編集]

ガビンズは工部省御雇いのコリン・アレクサンダー・マクヴェイン夫妻と親しくしており[5]、夫妻が帰国しスコットランドマル島に隠居すると、自身も一時帰国した際にマル島を訪問し夫妻家族と旧交を温めた。日本生まれの長女ヘレン・ブロディは24歳になっており、二人は恋に落ち、ガビンズ41歳の1893年に英国で結婚した[1]。ガビンズ夫妻は東京で4人の子をもうけ、子供たちはマル島のマクヴェイン夫妻のもとで育てられた[6]。その一人に、後に特殊作戦執行部 (Special Operations Executive, SOE)部長をとなるコリン・マクヴェイン・ガビンズ (Colin McVean Gubbins少将がいる。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

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  • Ian Nish (1997). “John Harrington Gubbins, 1852-1929【chap. 8】”. Britain and Japan: Biographical Portraits. vol. 2, Ian Nish ed.. Japan Library. 

アーネスト・サトウからガビンズへの私信、1908-27年、UK Public Record Office (PRO 30/33 11/8, 11/9 and 11/10).

  • 朝日日本歴史人物事典
  • 萩原延壽著『遠い崖9 アーネスト・サトウ日記抄』朝日新聞社、2008年。ISBN 978-4022615510。
  • 萩原延壽著『遠い崖11 アーネスト・サトウ日記抄』朝日新聞社、2008年。ISBN 978-4022615534。
  • McVean Archives,  (National Library of Scotland.

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Gubbins & SOEPeter Wilkinson, Joan Astley, Pen and Sword, Nov 8, 2010
  2. ^ 同時に3人の通訳生が来日しているが、来日1年後の進捗を、アーネスト・サトウは「ガビンズはものになりそうです」と評している(萩原 9、pg339。原資料はサトウからウィリアム・アストンへの私信)。
  3. ^ 1874年(明治7年)の8月に、ガビンズら3人の通訳生はサトウによる昇進試験を受けたが、合格したのはガビンズのみであった(1660点満点で1343点)。即日上級通訳生に昇進し、さらに8ヶ月後に2等補佐官に昇進した(萩原 11、pg160-163。原資料は1874年10月28日付けのハリー・パークス公使からダービー外相への報告および付属のサトウの覚書)
  4. ^ 青木の秘書は、かつて駐日英国公使館の通訳であったアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。但し、ガビンズが来日した時点では、シーボルトはすでに公使館を退職し、日本政府に雇用されていた。
  5. ^ McVean Diary 1873-75、McVean Archives (National Library of Scotland).
  6. ^ Photo Collection, McVean Archives (National Library of Scotland).