ジンギスカン (グループ)

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ジンギスカン
Dschinghis Khan
Dschinghis Khan band.jpg
基本情報
別名 Genghis Khan (別表記)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツミュンヘン
ジャンル ディスコポップ・ミュージック
活動期間 1979年1985年2005年2007年-
レーベル Jupiter Records
公式サイト dschinghis-khan.com
2009年ライヴ

ジンギスカンドイツ語: Dschinghis Khan)は、1979年から1985年にかけて活躍した西ドイツ音楽グループ。

概要[編集]

1979年にデビューした西ドイツのミュンヘン出身の男女6人組(後に5人組となる)の音楽アーティストグループ。『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットし、1979年にはドイツの映画Sunnyboy und SugarbabyでDschinghisKhanとして出演しパフォーマンスしたりもしている。


1985年に解散したが、2005年12月にスティーヴの尽力で再結成され、1985年から20年ぶりにDschinghisKhanの活動を再開させることが報道された。1994年11月12日に43歳の若さで他界していたルイスと、社長業で議員を目指してた事もあり逮捕されかねなかった事で参加を見合わせたレスリーを除くオリジナルメンバー4人にシュテファン、エプル、ダニエルのゲストダンサー3人を加えたメンバーによる初のライブが12月17日モスクワオリンピックアリーナで行われた。ちなみにスティーヴはこの時既に末期肺癌であり、メンバーも周知の上で再結成し歌い踊っている。

翌年の2006年5月7日にスティーヴが63歳で他界し、残ったオリジナルメンバーのエディナ・ヘンリエッテ・ヴォルフガングの3人が話し合った末に翌2007年からは新たに7人からなる「遺産(The Legacy)」というバックダンス&コーラス集団[1]を加え活動を続けている。その後の2014年以降、ヴォルフガングがパフォーマーを引退しており、オリジナルメンバーはエディナとヘンリエッテの2人のみとなっている。

エディナとヘンリエッテは2018年3月25日[2]にラルフ・ジーゲルと再度長期契約を結んだ。

2018年より、本家DschinghisKhanとヴォルフガング{_シュテファンのDschinghisKhanに別れて活動しており、ヴォルフガング・シュテファン側については本家も把握出来ておらず分裂状態である。 ヴォルフガング・シュテファン側は2019年のDschinghisKhan40周年には各国ライブ(日本含)を行う予定で進んでいる(本家側は知らない)。

グループ名[編集]

グループ名は、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーン」のドイツ語表記のジンギス・カン(Dschinghis Khan)に由来する。このグループ名は英語圏でもドイツ語表記のままで受け入れられている。しかし、日本版CDでは契約の関係から、英語表記に由来するジンギスカン(Genghis Khan)が用いられている。

2005年の復活の後に開設された公式Webサイトは『ジンギス・カンとジンギスカンの遺産 (Dschinghis Khan & The Legacy of Genghis Khan)』と名乗り、1979年以来のオリジナル・メンバーを『ジンギス・カン (Dschinghis Khan)』、2007年に招集したバックダンス&コーラス集団を『ジンギスカンの遺産 (The Legacy of Genghis Khan)』と呼び、サイト内の情報を分類・整理している。

しかし、2018年4月6日[3]よりヴォルフガング・ハイヒェルが本家とは別に "Dschinghis Khan" を名乗り、シュテファンと組んで活動している。2019年に40周年記念ライブで日本含む各国を回りたいと語っていたが、ファンの質問メールに本家側は「ヴォルフガング・シュテファンとは全く活動していないし、40周年記念ライブについても知らない」と答えており、実質Dschinghis Khanは分裂状態となっている。

結成[編集]

1979年、西ドイツの音楽プロデューサー、ラルフ・ジーゲル (de:Ralph Siegel)と、経済学者であったベルント・マイヌンガー (de:Bernd Meinunger)が、当時人気を博していた西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』 (Rasputin) をモデルとして『ジンギスカン』という楽曲を作った。それをヨーロッパポップ・ミュージック登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に応募するために6人のメンバーが集められ、結成したのがこのグループである。

6人のうちルイスは企画当初からメンバーとなることが決まっており、彼を除く5人はオーディションで選ばれた。1979年のユーロビジョン、ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わりグランプリはならなかった。

歌と振付の練習では、プロダンサーのルイスとヘンリエッテはダンスの素養があったのでそうでもなかったが、他のメンバー4人は大苦戦していた。17日間、朝から晩まで練習を続けた。 そして、ヴォルフガングとヘンリエッテ以外のメンバーは全くの初対面であったので、お互いをよく知り合う為に、練習の合間に一緒に散歩に出たり、買い物にも全員揃って出かけたりしてコミュニケーションをとっていた(色んなところに出かけたりもしている)。

楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、後にはグループのメンバーも作詞や作曲を手掛け ようになった他、スティーヴ・ベンダーはジンギスカンと目指せモスクワの英訳も担当していた。

メンバー[編集]

オリジナルメンバー[編集]

ルイス・ヘンドリック・ポトギター (Louis Hendrik Potgieter/1951年4月4日 - 1994年11月12日) No 1 白 43歳没
南アフリカプレトリア出身のドイツ系ブール人。身長184cm(体重は公表していない)、髪と目の色は茶色。名前のドイツ語読みはルイ・ヘンリック・ポトギター(ポットギターと読まれることもある)。また、パトリック・ベイリー (Patrick Bailey) の別名でも知られる。喫煙者。好きな食べ物はフライドポテトとインド料理と野菜、好きな飲み物は紅茶(家では)とビール。話せる言語はアフリカーンス語(南アフリカの言葉)、英語、聞き取りは出来るものの上手くは話せず英語訛りが強いがドイツ語。
建築会社の販売ディレクターの父ルイ・ヨハネス・マテウス・ポトギターと元秘書の母親アンナ・ズザンナ・ポトギターとの間に6人兄弟の2番目として生を受けた。兄のヨハン、妹のアンネリーゼ、カレン(軍務に初めて合格した女性)、エルナ、タラナが居る。
ヨハネスブルグバレエグラフィックアートを修めた後、1975年に渡欧。結成前までミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場でソロのダンサーとして活躍していた。上記のとおり、企画当初から唯一メンバーとなることが決まっており、オーディションを受けていないのはルイスだけである。基本的には冠を付け、動きやすいながら王族的な衣装という出で立ちだが、Rom以降の後年に行くにつれて周りと変わらない衣装になっている(ルイ曰く、普段は扮装をしていないのでバレないのが他のメンバーより有利とのこと)。番組などで名を呼ばれる場合はドイツ語読みでルイと呼ばれることが多い。基本的にはダンスのみの担当(ルイによれば契約に関して金銭面を含め他のメンバーとの差は無かった)で、一部の曲のボーカルでは他メンバーの補佐的な役割で曲によっては共に歌う感じ(ロッキング・サンのみソロ有り)であったが、1981年のスティーヴ脱退以降は本格的にボーカルも担当するようになり、低音を担当した(男性陣内では一番低音)。「めざせモスクワ」の低音パートではスティーヴのポジションで歌っている。ドイツ国内のテレビドラマ「derrick」にも悪役と思しき役で出演していた(途中で撃ち殺される)。解散後はジンギスカン・ファミリーのキーボード担当として、レスリー、ヘンリエッテらと共に短期間の活動を経た後、南アフリカに帰国。帰国後はホテルの支配人を務めていた。1994年11月12日、ポートエリザベスにてエイズによる合併症によって死去、43歳没。ルイスの死はスティーヴが2005年に再結成するためにメンバー探しに奔走した際に発覚した。当時80代の母親に看取られ、ガリガリに痩せ細って亡くなったという。
エディナ(イダイナ)・ポップ (Edina Pop/1941年2月4日 - ) No 2 黄 78歳
ハンガリーブダペスト出身、今現在はハンガリー系ドイツ人。本名はケーシュマールキ・マリカ(hu:Késmárky Marika)。身長171cm、53kg(DschinghisKhan当時)、髪色はダークブロンド、目の色は茶色+緑。好きな食べ物は辛くて酸味のあるエキゾティックなもの、好きな飲み物はワインとたまにトロピカルカクテル。話せる言語はハンガリー語、英語、ドイツ語。
洋服屋や車掌、給油係をしていた父ケーシュマールキ・カルマンと主婦の母ケーシュマールキ・マリカとの間に生まれた。ダンス教師をしているケーシュマールキ・カルマンという兄弟がいる。
エディナの本名である「マリカ」という名前はエディナの出生当時前後にハンガリーで大流行りした名前で、ハンガリーの60代以上の女性はかなりの確率で名前が「マリカ」となっている。
音楽学校卒業後から高級ホテルやコンサート、テレビなどを舞台に歌手活動をこなし、1969年西ドイツに進出。1970年Bei jedem Kuss (直訳:どの口づけの時にも)でデビューを果たし、1972年のユーロビジョンのドイツ予選では Meine Liebe ich will dir geben (直訳:あなたに捧げたいわたしの愛)で7位を獲得する。私生活では1971年にドイツ人俳優ギュンター・シュトル(de:Günther Stoll))と結婚しているが、1977年に死別。ジンギスカン解散後もドイツで音楽活動をしている。DschinghisKhan当時の着ている服は、典型的な女性の格好でスカートを履くというスタイルが定番だった。DschinghisKhan時代には2ヶ月休みの際に彼女の考えで動物園に行ったりしていた。再結成時は髪がショートになっている。近視で、ジンギスカン加入前は眼鏡がトレードマークだったが、DschinghisKhan加入後は外した姿になっていたが、彼女によるとメンバーを含めた周りが助けてくれていたので事故が起きることは無かったとのこと。日本語盤アルバムのパッケージに記されているメンバーのプロフィールでは、彼女の名前が DEINA POP と誤記されている。ドイツ語を話すと北欧(ハンガリー)訛りが強い。同じハンガリー出身のレスリーや年代の近いスティーヴとは親しい間柄だった。スティーヴの娘メラニーによれば、スティーヴ・ベンダーの闘病時は常にスティーヴの体調を気にかけていた。その為メラニーからは感謝されている。再結成でのトークによると、他のメンバー曰く電話病(電話で話すのが大好き)らしく、本人は電話代がかさむと話し、スティーヴにEメールを教わっていた。
ヘンリエッテ・パオリーネ・シュトローベル(ハイヒェル) (Henriette Pauline Strobel-Heichel/1953年11月13日 - ) No 3 赤 65歳
オランダアムステルダム出身。身長171cm、52kg(DschinghisKhan当時)、髪色はブロンドと銅色の間、目の色は緑+灰+青。好きな食べ物は東洋料理やエビ料理、ラムの腿肉、好きな飲み物は生オレンジジュース(たまにスパークリングワインで割る)。話せる言語はオランダ語、英語、ドイツ語、スイスドイツ語。趣味はダイビング
歯科医の父ヘルムート・カール・シュトローベルと元秘書の母親カタリーナ・ヤネッテ・シュトローベルの間に長女として生を受ける。セールスマネージャーの兄ヘルバート・パウル・シュトローベルがいる。
アムステルフェーンの女学校を卒業後、西ドイツのオーバーストドルフ歯科助手(ちなみに彼女の実家は歯科医である)、マヌカン美容師フィギュアスケートの個人レッスンを受ける。フィギュアスケートではセーターを脱ぎながら滑って居た時に右足から転び、張られた線に引っかかって両足と片くるぶしを骨折、リハビリを経て滑ったが再度怪我をした事でフィギュアスケートを辞めている。結成前はマヌカンをしており、1976年にメンバーのヴォルフガンクと結婚。ジーゲルの「もう1人女性がほしい」という話にヴォルフガングが「ヘンリエッテはどうか」と提案、歌も上手かったため合格し、ジンギスカンに加入(ヴォルフガングにジンギスカン加入についての事を言われた時、ヘンリエッテ本人は断ったものの、結局ヴォルフガングにラルフ・ジーゲルの元にひっぱられ、大恥をかかないように精一杯歌った)。ヘンリエッテ自身は自分の歌声が酷い(上手くない)と思っていたようだが、たまに歌っているのを聴いていた夫のヴォルフガングは良い声だと評価していた。ジンギスカン活動時はハイヒェル姓であったが、解散後1986年に離婚。その後は友人と共にスペインマヨルカ島でファッション関係の仕事をしていた。
再結成後はシュトローベル姓で活動、髪型も一つ結びやストレート等変化している。男性風の服(ズボン系)や身体にぴったりした服を着ることが多かったが、曲によっては上記のエディナ・ポップの服と似た服を着ていた(現在は男性風の服は着ていない)。
スティーヴ・ベンダー (Steve Bender/1942年11月2日 - 2006年5月7日) No 4 青 63歳没
旧西ドイツのマインツ出身。本名はカール=ハインツ・ベンダー(Karl-Heinz Bender)。身長171cm、68kg(DschinghisKhan当時)。髪色はダークブロンドで目は明るい青色(写りによって濃い水色にもみえる)。生年が1946年とされているものもあるが、それは彼自身が申告したもので、本当の生年は1942年である。愛称はGlatze(グラッツェ、ドイツ語でハゲ頭の意)。タバコをよく吸うヘビースモーカー。好物はロールブラーテン、好きな飲み物はコーヒー。話せる言語はドイツ語と英語。
肉屋の父カール・ベンダー(ほんの幼い頃に戦死)と販売員の母ヴィルヘルミーネ・レジーネ・ベンダーとの間に長男として生を受ける。7つ離れたアンネマリーと2つ離れたヨハンナという2人の姉がいる末っ子。本人によるとほんの小さな頃に父が戦死した為に母親は朝から晩まで働き通しであったという。後にエルフリーデ・ベンダー(旧姓ビッゲラー)と結婚し、娘は歌手のメラニー・ベンダー (de:Melanie Bender)。
義務学校を終えると実務学校へ進み、彫版師、家具職人、塗装などを学んだ後に塗装で働いていたが、働く中でに師匠と揉めて辞めている(師匠は直ぐにビンタする人だったと話しているため、それが原因と思われる)。結成前には2年間の渡米経験があり、数々のロックバンドでギタリスト兼ボーカリストとして活躍。結成後もパフォーマーの他に『ディスコ・ドラゴン』『キャプテン・ネモ』などの作曲や、『ジンギスカン』『めざせモスクワ』などの英語版の作詞を担当したが、腰痛の悪化が原因でドクターストップがかかり、1981年脱退(ヘルニア持ちだったという)。脱退後はドイツの音楽プロデューサーとして活躍、事務所を構え後にサイトも運営していた。ジンギスカン在籍当時はスキンヘッドにしており、一日に二度髪を剃っていた(最初にスキンヘッドにした際は自分の風貌がひどく恐ろしく見えて泣きそうになり、家に4週間引きこもっていた)。1995年にエディナ、レスリーと共に来日、番組に出演し頭を2回剃っていた事などを話した他『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を歌っている。なお、エディナ・ポップとレスリー・マンドキとは特に仲が良かった。
2005年の再結成のためメンバー探しなど奔走しモスクワのライブにも参加したが、2006年5月7日、肺癌により死去。63歳没。再結成の前年夏にが発覚し余命宣告を受けていたが、死の2ヶ月前まで事務所には公表されていなかった。声はややハスキーで声域は基本的にヴォルフガングとレスリーのほぼ中間だが、コーラスでは低音を出すことも多い。また後年は肺癌もあってかなりハスキーかつ少しガラガラな声になっている。2005年の再結成時の「ロッキング・サン」では、不参加のレスリーのパートを歌った(スティーヴによる「ロッキング・サン」は後にファンから伝説と言われるようになった)。生前最後のインタビューでは当時と変わらずタバコを片手に答え、ジンギスカン(曲)の練習が6時間あり、そのおかげでみるみる痩せていった為に衣装を3回縫い直したと笑って話している。
グループ加入へのいきさつは、スティーヴが所属していた事務所にジーゲルが現れ、スキンヘッドのスティーヴのレコードジャケットを見て「これだよ、僕が欲しかったのは!」となったのがきっかけだった(そのジャケットではスティーヴが日本の仏像をモチーフに撮るため、面白半分にハゲのかつらを着用し撮影したもの)。その後ラルフ・ジーゲルから白羽の矢を立てられ、グループへの加入が決定し、スキンヘッドが定着したという。曲のパフォーマンスでは振り付けをよく間違えていた。DschinghisKhanファンからは紳士と言われており、海外からのファンレターやメールは高性能の翻訳を使い、家族との時間を大切にしながらも日本のを含む全てに目を通して返事をしていた。また、日本のファンにも優しく、高性能の翻訳を使ってファンサイトにも訪れていた。
また、死の数ヶ月前にはいくつかのサイトにコメントを残しており、主に英語やドイツ語で書き込まれたが、そのうちのひとつは翻訳を通した日本語でコメントを残していた。コメントの際にはサイトの運営者が書いたジンギスカン当時のスティーヴ自身のアイコンを使うなど、気さくさと茶目っ気を見せている他、自身の事務所サイトにDschinghisKhan時代や自身の画像を沢山アップし、ファンを喜ばせてもいた。
ヴォルフガング・ハイヒェル (Wolfgang Heichel/1950年11月4日 - ) No 5 黒 68歳
旧東ドイツのマイセン生まれでベルリン育ち。身長188cm、80kg(DschinghisKhan当時)、髪と目の色は茶色。芸術教育学を修めたが、歯科学は自業自得で物理学を落としてしまい中退している。喫煙者。好きな食べ物は日本食(特に寿司とうどん)と中華で同時にベジタリアンでもある。好きな飲み物はミネラルウォーター、シャンパン、スイス風コーヒー。犬好きで結婚していた時はコリーを飼っていた。話せる言語はドイツ語、英語、オランダ語と少しだけフランス語。
機械工学技師の父アルフレード・ハイヒェルと看護師のアンナ・ハイヒェルの間に長男として生を受けた。異母兄弟のクリスティアンとマチアスがいる(どちらもヴォルフガングとは20近く歳が離れている)。
完璧主義者な性格で、学生時代は文武両道でガリ勉野郎(本人談)ながら運動神経も抜群だったと話している。結成前はシンガーソングライタープロデューサーとして活躍していた。そんなある時にディスコでワイルドなパフォーマンスをしてマイクに歯をぶつけて歯が折れ、ディスコの支配人がヘンリエッテが歯科助手である事を知っていた為、頼まれたヘンリエッテが父の歯医者に予約を入れたことがヘンリエッテとの馴れ初め。結成後もパフォーマーの傍ら『カスパル・ハウザー』などの作曲も担当した。DschinghisKhanでは1番のイケメンだったため、結成当初から女性からの手紙やプレゼントが数多く届いたという。1976年に上記のヘンリエッテと結婚するが、解散後1986年に離婚。解散後しばらくは、ジーゲルがプロデュースするグループ "That's Life" で音楽活動を続け、1986年には"Telefon"(直訳:電話)でユーロビジョンのドイツ予選に参加するも、最下位に終わっている。
その後はスイスに移住して生活していたが、2006年のジンギスカン再結成に際して音楽活動を再開。06年再結成では太ったのと濃いメイクからファンすらヴォルフガングとはわからなかった程。DschinghisKhanで歌っているときはハモリでは低音パート(ハッチなど1部はレスリーと共に中心パート)、地声の高さを生かしたソロパートの両方をこなしていた。後年では太ったために声が少し低く太くなっている。スティーヴ亡き後も話し合いの末にジンギスカンの再結成を続けていたが、2014年以降はパフォーマーを引退している。それ以降はジンギスカン及び特別ゲストとしてモンゴルの祭典等に呼ばれたりロシアにも呼ばれる事があるようで、2018年にはシュテファン側と合流してDschinghisKhanを名乗り、モスクワにジンギスカンとして2005年に再結成で共演して以来の再会となるシュテファン・トラックと共に特別ゲストとして呼ばれ、ライブをこなすなど新たなジンギスカンとしての活動は今も引き続いている様子であり、2019年の40周年ライブの為にも動いている様子(https://www.dschinghiskhan.com/news/)。
レスリー・マンドキ (Leslie Mandoki/1953年1月7日 - ) No 6 緑 66歳
ハンガリーのブダペスト出身、今現在はハンガリー系ドイツ人。ハンガリー名はマーンドキ・ラースロー(hu:Mándoki László)。身長176cm(体重は公表していない)。髪色はブラウン、目の色は青緑。話せる言語はハンガリー語、ドイツ語、英語、ロシア語。当時はワイルドハンガリアンと称されていた。
財務省の監査役の父マーンドキ・ラズロとレストランチェーンの人事マネージャーの母マーンドキ・イローナの間に長男として生を受けた。マーンドキ・ピーターという弟がいる。当時学生だったロミーと結婚したが離婚、その後今の妻エヴァと結婚しララ、ガボール、ジュリアの1男2女をもうけた。
ジャズ音楽の専門学校でドラムパーカッションを学び、自らジャム (Jam)という名のジャズロックバンドを率いてボーカリストパーカショニストとして活躍。共産主義政権の学生運動弾圧を逃れるため、1975年アニメーターのガーボル・チュポー(Hu:Csupó Gábor)らと共にミュンヘンへ渡る。レスリー本人によれば、自由が欲しかったのもあった模様。それ故にハンガリーに帰ることが出来なくなり、本人曰く「帰ったら処罰されるか監禁されてしまうかもしれない」と話しているが、それが落ち着いた現在では自由に故郷のハンガリーに行けるようになっている。
しかし、ジンギスカン結成前まで酒場のバンドマンとして苦しい生活を送る。もともとはジャズシンガーになることを希望していた。
見た目(の奇妙さ)と歌もうまかったことで加入が決定し、それによりボーカル及びダンサーとして活動することとなった。このことに当初彼は違和感を覚え懐疑的ではあったが、その後はハンガリーを題材にした『プスタ』などの作曲をするようになる。1977年にロミーと結婚、ジンギスカン時代も同棲していたがファンによる嫌がらせもあってか途中で離婚し、後にエヴァと再婚して娘2人と息子1人、合わせて3人の子宝にも恵まれている。同郷ハンガリー・ブダペスト出身のエディナとスティーヴ・ベンダーとは親しい間柄だった。解散後も友人と会社経営をしながら音楽活動を続けた。1995年、エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダーとともに来日。会社経営をしている事実を公表し話題を呼んだ。2005年の再結成の際はスケジュールの都合(当時は議員を目指しており、テレビに映ると広報活動になってしまい、最悪逮捕されてしまう)もあり、現在存命のメンバーの中では唯一再結成後のジンギスカンへの参加を見合わせていたが、後にスティーヴの娘のメラニーによると、ラルフ・ジーゲルと共にスティーヴ・ベンダーの葬式に出席している。今現在、DschinghisKhanが会社の広報活動になるのを避ける為、DschinghisKhanからは身を引いており、サイトからもレスリーの部分のみ削除された状態になっている。だが今でも歌ったり、自身の音楽スタジオでドラムを叩いたりパーカショニストとして楽器に触れていたり、映画音楽を作ったりして音楽には触れている。癖のある長髪と唇の上の大きな髭がトレードマークで、長髪は時折一つに結んでいることもある。趣味および特技はハンガリー料理。好きな飲み物は(食事時のみ)ハンガリーワイン。ヴォルフガングとは対照的に地声は低いが、歌っているときの声は少年のように聞こえる事がある程高め。ドイツ語を話すとエディナ同様に北欧訛りが強い。

ジンギス=カン・ファミリー (Dschinghis Khan Family/1986年 - 1988年)[編集]

ユルゲン・グーンホルツ (Jürgen Gronholz)
クリスティン・ザーゲント=ブラント (Christin Sargent-Brandt)
マイク・トゥール (Mike Toole)

『ジンギスカン』解散後、ルイス、レスリー、ヘンリエッテの3人に上記メンバー3名を加え、チンギスカン・ファミリー (Dschinghis Khan Family)のグループ名で、あしかけ3年間活動した[4]

2005年 - 2006年までのメンバー[編集]

ダニエル・ケスリンク (Daniel Käsling)
シュテファン・トラック (Stefan Track)
エプル・カーヤ (Ebru Kaya)
2005年の再結成ライブのときに参加したスティーヴの事務所に所属していたダンサー。
シュテファンは帽子に赤色系の衣装で長い髪と髭の姿にルイの役を演じ、ダニエルはトゲトゲしたモヒカン頭に黒い衣装のやんちゃなロッカーといった見た目の人物で、エプルはオレンジ系衣装の可愛らしい紅一点の女性。
2007年には同じメンバーでロッキング・サンとしてデビューした。このうちシュテファンは、メンバーとトラブル(ヴォルフガングがDKOで話したシュテファンの契約破棄の理由はグループ内での役割に関して行き違いがたびたびあり、報道関係にも尊大・無礼であった。そしてオリジナルのメンバー4人と同等の立場を要求した)を起こしたために2006年1月をもって契約破棄となり脱退した。またダニエルとエプル・カーヤもその年限りの参加となった。公式サイトには、2005年のモスクワコンサートの報道記事[5]動画コーナーがあり、シュテファン・エプル・ダニエルの記述やパフォーマンスを見ることができる。
この内シュテファンは2018年11月24日にロシアのモスクワにDschinghisKhan及び特別ゲストとして呼ばれ、2005年の再結成以降10年以上ぶりにヴォルフガング・ハイヒェルと再開している。

ザ・レガシー (The Legacy)のメンバー[編集]

2007年に招集された以下のメンバーは、公式サイトで『遺産』 (The Legacy)あるいは『ジンギスカンの遺産』[6](The Legacy Of Genghis Khan)[7]と呼ばれるダンサー集団である。ミュージカル俳優として訓練を受けた人々で、コーラスも担当する。2016年1月にはエゲダイ、イゲイ、エルトゥヤ、ヤッサの4人がエディナ、ヘンリエッテと共にジンギスカンのメンバーとしてモスクワでのライブに参加した。ヤスガンは途中から居なくなり、今現在はイベントなどによるのかオーラとキャッシュは居たりいなかったりしている。

エゲダイ (Ögödei)
ジンギスカンの息子という設定。演じているのはクラウス・クプライト (Claus Kupreit)。元々ルイスのポジションだったが2011年のライブツアー以降は、付け髭を外している。
イゲイ (Igei)
現在テレビなどに出演する際にルイスのポジションを担当している。こちらもジンギスカンの息子という設定。演じているのはベンヤミン・ショーベル (Benjamin Schobel)。海賊のような容姿をしている。『ロッキング・サン』を歌う際は再結成に不参加のレスリーのパートを担当する。
エルトゥヤ (Eltuya)
女斧使いという設定。髪の毛を1本三つ編みにしている。演じているのはカトヤ・フォーゲル (Katja Vogel)、またはコリナ・グンツェル (Corinna Günzel)[8]
ヤスガン (Yesugan)
女剣士という設定。おだんごヘア。双剣使いのようで、両手に剣を持っている。演じているのはアンジェリカ・ニンバッハ(Angelika Nimbach)[8]。2008年のライブツアーには参加していない。
オーラ (Ohla)
お姫様という設定。演じているのはターニャ・ミューラー (Tanja Mueller)、またはエヴィ・ヴァイガンド(Evi Weigand)[8]ベリーダンス風の衣装を着ている。現在はDschinghisKhanホームページの画像のメンバーの中にはおらず、居たりいなかったりしている。
ヤッサ (Yassa)
モンゴルの戦士という設定。剣を片手に持つ、髭のワイルド系で、毛の帽子や腰の飾りの他、たまにマントを羽織っていることもある。スティーヴのパートを歌う場合もある。演じているのはトーマス・グラバー (Thomas Graeber)、またはシュテファン・ゾーター (Stefan Sauter)[8]
キャッシュ (Cash)
危険な黒の戦士という設定。唯一の黒人で辮髪。演じているのはアッティラ・マリオ・ディアロ (Attila Mario Diallo)[8]。他界したスティーヴのパートを歌うことが多いが、ロッキング・サンなどレスリーパートも歌ったりする。現在はDschinghisKhanホームページの画像メンバーには入っておらず、Ohla同様居たりいなかったりしている。

ディスコグラフィ[編集]

ドイツのチャートでは「ジンギスカン」が1位、「めざせモスクワ」が3位、「ローレライ」が6位、「ハッチ大作戦」が7位と4曲のTOP10入り楽曲がある。

楽曲は国や地名・特定の人物をモデルにしたものが多い。なお()内は邦題。

アルバム
  • Dschinghis Khan (ジンギスカン、1979年)

A面

  1. Moskau (めざせモスクワ)
  2. Komm doch heim (家に帰って)
  3. Samurai (サムライ)
  4. Rocking Son Of Dschinghis Khan (ロッキング・サン)
  5. Pass auf, der Drache kommt (ディスコ・ドラゴン)

B面

  1. Dschinghis Khan (ジンギスカン)
  2. Israel, Israel (イスラエル)
  3. China Boy (チャイナボーイ)
  4. Sahara (砂漠の国サハラ)
  5. Puszta (プスタ)
  6. Der Verräter (密告者のテーマ)


  • ROM (1980年)
ボーナストラックを抜いたものが"Viva"として同年リリース。日本では『ザ・グレイテスト・ヒッツ』として発売。本作までは6人体制で発売された。

A面

  1. Rom (栄光のローマ)
  2. Madagaskar (さらばマダガスカル)
  3. Kaspar Hauser (カスパル・ハウザー)
  4. Mann und Frau (男と女)
  5. Käpt'n Nemo (キャプテン・ネモ)
  6. Die Fremden (宇宙からのメッセージ)
  7. Sierra Nevada (シエラネバダ )

B面

  1. Machu Picchu (インカ帝国)
  2. Kontiki (コンチキ号の冒険)
  3. Tiger, Tiger (女豹のように)
  4. Moskau
  5. Hadschi Halef Omar (ハッチ大作戦)
  6. Der Verräter
  7. Dschinghis Khan


  • Wir sitzen alle im selben Boot (めざせ世界制覇、1981年)
日本で最後に発売されたアルバム。

A面

  1. Wir sitzen alle im selben Boot (世界はひとつ)
  2. Pistolero (哀愁のピストレーロ)
  3. Windjammer (ウインドジャマー)
  4. Die Fremdenlegion Armee der Verlorenen Seelen (外人部隊)
  5. Michael (こげよ、マイケル)

B面

  1. Loreley (ローレライ)
  2. What Shall We Do with the Drunken Sailor (酔いどれ水兵)
  3. Goobye Hawaii (グッバイ・ハワイ)
  4. Aladin (英雄アラジン)
  5. We Love You (ウイ・ラブ・ユー)


  • Helden, Schurken & der Dudelmoser (1982年)
  • Corrida (1983年,"Bullfighting")
  • Die Großen Erfolge (1999年)
  • 7 Leben (2007年)
シングル
  • Dschinghis Khan (1979年)
  • Moskau (1979年)
  • Hadschi Halef Omar (1979年)
  • Rom (1980年)
  • Pistolero(1981年)
本作から5人体制となった。
  • Loreley (1981年)
本作を最後に日本でのシングルリリースをしていない。
  • Wir sitzen alle im selben Boot (1981年)
  • Klabautermann (妖精クラバウターマン、1982年)
  • Der Dudelmoser (アルプスのドゥーデルモーザー、1982年)
  • Himalaja (前人未到の地ヒマラヤ、1983年)
  • Olé Olé (闘牛士の死にオーレ! 1983年)
  • Mexico (めざせメキシコ、1985年)
その他
レスリー・マンドキとニュートン・ファミリーのエヴァによるデュエット曲。『めざせモスクワ』のように、1988年に行われたソウル・オリンピックをモチーフにして制作された。日本でも少女隊が英語と日本語でカバーした。

日本への影響[編集]

オリコン洋楽シングルチャートで1979年8月6日付から5週連続1位を獲得した。

ジンギスカンは、楽曲『ジンギスカン』の強烈なインパクトにより、1970年代後半からディスコなどのダンスシーンでアラベスクなどとともに人気を博した。また、それにより当時の竹の子族と呼ばれる若者にも多大な影響を与え、数多くのカバー曲も生まれた。モーニング娘。の楽曲『恋のダンスサイト』などでフレーズが引用されたこともある。後にBerryz工房がカバーしたりもしている。

だが、いつからか日本でのDschinghisKhanはジンギスカン(羊肉)の時の曲と化してしまっている。

1995年エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダー、レスリー・マンドキの3人が来日して『なるほど!ザ・ワールド』に出演した(日本公演を行っていないため、この日が初来日)。ヴォルフガング・ハイヒェルはスイスに、ヘンリエッテ・シュトローベルはマヨルカ島に移住して居た為未参加、ルイスは既に亡くなっていた為参加不可能。この時3人は『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を生で歌っている。また、インタビューの時レスリー・マンドキは「友人と会社を経営しています」と答えていたという(外部リンクを参照)。

また、2005年に『めざせモスクワ』が、いわゆる空耳ソングとして注目を集め、『もすかう』のタイトルで、ネット上で多数のFlashムービーが制作され、話題になった。

タモリ倶楽部の空耳アワーではDschinghisKhan、moskau、Hadschi Halef Omar の他、DschinghisKhanでのエディナのソロ曲Komm doch heimなどの空耳が紹介されていた。

関連アーティスト[編集]

出典[編集]

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  1. ^ 公式サイト「JP / 足跡 "The Legacy Of Genghis Khan"」
  2. ^ 公式サイト「Dschinghis Khan zu Hause bei Jupiter Records」」に "25. März 2018" と記載
  3. ^ amazon.de 「We Love Football von Dschinghis Khan」より。分裂後初の曲のリリース日が "6. April 2018" とある
  4. ^ 公認ファンサイト“Steppenwind”の記事"1986-heuteによる。
  5. ^ "Internationales Comeback von Dschinghis Khan",(musikwoche.de 11.01.06 / 15:59)
  6. ^ 公式サイト「JP / 足跡 "The Legacy Of Genghis Khan"」
  7. ^ 公式サイト「The Legacy Of Genghis Khan」
  8. ^ a b c d e 公認ファンサイト“Steppenwind”の記述による。
先代:
Ireen Sheer
ユーロビジョン・ソング・コンテスト・ドイツ代表
1979
次代:
カーチャ・エプシュタイン