ジーコ

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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の)はアントゥネス第二姓(父方の)はコインブラです。
ジーコ Football pictogram.svg
Zico 2012.jpg
2012年、イラク代表監督時のジーコ
名前
本名 アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
Arthur Antunes Coimbra
愛称 白いペレ[1]
Kral Arthur
ラテン文字 ZICO
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1953-03-03) 1953年3月3日(67歳)
出身地 リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市
身長 172cm[2]
体重 72kg[2]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1967-1971 ブラジルの旗 CRフラメンゴ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
- ブラジルの旗 CRフラメンゴ 635 (476)
1983–1985 イタリアの旗 ウディネーゼ 53 (30)
1985–1989 ブラジルの旗 CRフラメンゴ 97 (33)
1991–1994 日本の旗 住友金属/鹿島アントラーズ 64 (48)
代表歴
1976–1986[3] ブラジルの旗 ブラジル 94 (77)
監督歴
1999 日本の旗 鹿島アントラーズ (代行)
2000–2002 ブラジルの旗 CFZ
2002–2006  日本代表
2006–2008 トルコの旗 フェネルバフチェ
2008 ウズベキスタンの旗 ブニョドコル
2009 ロシアの旗 CSKAモスクワ
2009–2010 ギリシャの旗 オリンピアコス
2011–2012  イラク代表
2013-2014 カタールの旗 アル・ガラファ
2014-2016 インドの旗 ゴア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジーコ (Zico) ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラポルトガル語: Arthur Antunes Coimbraポルトガル語発音: [aʁˈtuʁ ɐ̃ˈtũnis koˈĩbɾɐ]1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。2018年7月からJリーグ鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。

愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーク ([ˈziku]) となる[4]

小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが[5]、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される[6]。さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた[7]

ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年1982年1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている[8]。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。

日本代表監督として、2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ2007–08で準々決勝に進出した。

選手経歴[編集]

幼少期[編集]

ポルトガルからの移民でパン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父、ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生。遅く生まれた子供のため、父親は彼を「最後の一滴」と呼んだという。母親の意向で息子アルトゥールをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノ[9] を習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。幼少期はナショナルキッドを見ていたと言う。家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見る。あまり手のかからない子で上の兄らは父親に叱られてよく殴られていたがアルトゥール少年は学業も習い事もそつ無くこなし、家庭内でも整理整頓、小遣いも管理するという几帳面な子供だった。母からはサッカーを固く禁じられていたが「勉強も手を抜かない」とお願いして了解を取り付けて兄らとサッカー三昧の日を送る内にエドゥがプロサッカー選手として成功。13歳時には既に後のプレースタイルが確立していたとエドゥが回想しており、14歳時にはゼッカもエドゥも目を見張る程のセンスを持った少年へと成長した。

フラメンゴ[編集]

CRフラメンゴ時代(1971年)

1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)。その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。4年後の1975年、結婚の目標だったアパートを購入しサンドラと結婚。

フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981トヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では得点を量産し、決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献[10]、2ndレグを0-1と落としたが[10]、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め[10]、優勝に大きく寄与した。同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた[11][12]

ウディネーゼ[編集]

ウディネーゼ時代 (左)(1984年)

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍、この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり[13]、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた[14]。8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ[15]鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め[15]、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた[15]。ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(怪我の影響で20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)[16]。これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。1984-85シーズンは怪我での離脱[17]、長期の出場停止があったが[14]、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると[17]、次節のユベントス戦でもゴールを決めたが[18]、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。

2017年にチームを訪問すると、ファンから大きな歓迎を受けた[16]

短い引退[編集]

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。[19]

ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。ジーコ本人は日本からの打診に難渋していた所、ルイス・アントニオ高崎がプロ選手としての獲得という契約を出され、何ら具体的な連絡も無くビジネスの定石から逸脱した事後承諾のような状態に狼狽する。引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。

住友金属、鹿島アントラーズ[編集]

鹿島サッカースタジアムのジーコ像

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と[20]、自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲は唖然とする。また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息し、また翌日には溌剌と練習に参加して終わったらまた頭を抱えて呻くという日々を繰り返していた。1991年7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると[21]、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決めた[21]。1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めた[22]

1993年Jリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗[23]、帰国後、鹿島スタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコは鹿島スタジアム第1号となるゴールを決め[24](自身の現役通算800ゴール [25])、勝利した。迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した[26]。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。セカンドステージでは9月3日のジェフ市原戦での延長Vゴールなど[21]、13試合6ゴールの成績を残し[21]天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた[27]。しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった[28]

1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め[21]、6月8日の浦和レッズ[21]、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決めた[21]。現役最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKを蹴り、これがバーに当たり1点目のゴールが生まれ[21]、前半21分に相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決めるなど[21][29]怪我を押して後半11分までプレー[21] 、最後の3試合で3試合連続ゴールを決めたこととなった。試合後には磐田サポーターからもジーココールが続いた[21]。引退試合として古巣フラメンゴが訪日しアントラーズと試合を開催したが、出場はせず試合終了後、特別企画として現役ラストシュートをゴールに放ち、観客に披露した。7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場[30]したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。

ブラジル代表[編集]

1976年2月25日のウルグアイ代表との親善試合にブラジル代表として初選出され、その試合で得意のFKからゴールを決めるデビューを果たし[31]、次の29日アルゼンチン代表との親善試合でもゴールを決めた。FIFAワールドカップには1978年1982年1986年の3大会に出場した。

初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場(フル出場は同試合のみ)。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消された(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)。2次リーグのペルー戦ではゴールを決めたが[32]、監督との確執もあって3位決定戦となったイタリア戦でも出番を得られないなど[32]、不本意な大会となった。

1982年、FIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテスファルカントニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目された。1次リーグでは第2戦のスコットランド戦で1ゴール[32]、第3戦のニュージーランド戦で2ゴールを決め[32]、2次リーグに進出、アルゼンチン戦では1ゴールを決めて勝利[32]、最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした[33]、しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められ、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)、しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。

1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップはグループリーグ最終戦の北アイルランド戦、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場[32]、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

指導者経歴[編集]

1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。

2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の意向でもあった。

ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 - 2で引き分けた。またワールドカップ地区予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破しW杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。

日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。成績等については下の諸項目を参照のこと。

2002年
10月16日ジャマイカに臨み、これが初試合となった。中田英寿、中村俊輔小野伸二稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。
11月20日アルゼンチン戦で実母マチウデ訃報の連絡を受ける。本人はサッカー日本代表指揮を全うすることを優先して帰国を渋るも周囲の説得で翻意して母国へ緊急帰国、「僕個人の予定で他の人の手を煩わせたくない」との理由でジーコ帰国前日に葬儀。数日後に執り行われたミサに合流。ジーコ監督不在時は臨時で替わった山本昌邦コーチが監督代行を務めた。
2003年
4月16日ソウルワールドカップ競技場での韓国との日韓戦で試合終了間際FW永井雄一郎のゴールで勝利を挙げる。
6月8日キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003のグループリーグ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
8月20日ナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
2004年
2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバクラ久保竜彦奥大介小笠原満男山田卓也都築龍太茂庭照幸大久保嘉人山田暢久(但し山田暢久は入店せず)が無断外出して問題を起こし、スキャンダルとして取り上げられてしまい、ジーコは「信頼関係を失った」とコメント、(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
2月18日2006 FIFAワールドカップ・アジア予選(1次)初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
7月、中国で行われたAFCアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
2005年
W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
2006年
親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
  • ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたW杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だったが、腰痛から復帰したばかりではあった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバーからの選出は駒野・茂庭照幸の2名だけだった(茂庭の招集は田中誠の怪我による追加招集。茂庭はバカンスに入っていたハワイから緊急帰国、代表に合流した)。
6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転負け。2敗1分でグループリーグ最下位で敗退した。W杯後、日本代表監督を退任。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「身長差、体格差を乗り越え怪我をしないためのフィジカルトレーニングの模索」「安定した判断力の涵養」を挙げた[34]

2006年以降[編集]

2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。その後、2006年7月4日トルコシュペルリガフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。

2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。

2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任していた[35]2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選(最終予選)の対日本代表戦(10月15日・さいたまスタジアム)に来日して視察するのは断念したものの[36]、日本代表対策をカシモフ監督に伝授し、アウエーで1-1の引き分け(勝ち点1獲得)に貢献した[37][35]。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグCSKAモスクワガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。

2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。

2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。オリンピアコスは96-97シーズンから2012-2013までの17シーズンで15回リーグ優勝を成し遂げ、ジーコが就任する前の5シーズンで5連覇しているギリシャでの国内最強クラブであった。リーグや国内カップ戦でのふがいない成績に慣れていないオリンピアコスのサポーターは暴動を起こし、爆弾がクラブに送り付けられる事態まで発生した。さらにジーコの指導法にも疑問の声があがり、所属選手から指示を無視されるなどのチーム崩壊が起こり就任してから僅か4か月の2010年1月19日に成績不振で解任となった。ジーコは成績不振による解任とサポーターの暴動に激しいショックを受けて「私はああいう状況で生きていくとは思わなかった。記者会見に行くにも、警備員10人に守られての状態だった。チームバスは1ダースもの警察車両が警護した。まるで、自分たちが逃亡者のような気分になったよ」「サッカーの監督をしていて、身の危険を感じるようなことが起きるとは思わなかった。あとどのくらい監督業をやるかわからない。40年間サッカー界に生きていて、こんなに失望したのは数回だけだ」とコメントした。ちなみにオリンピアコスはジーコ退任後の2010-2011シーズンからリーグ戦3連覇を達成して、ジーコ就任前の強さを取り戻している。

2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。

2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した[38][39]

2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンドドゥンガロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。

2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた[40]

2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した[41]

2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。

2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが[42]、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した[43]。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した[44]

2013年8月、カタールアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった[45]

2014年9月、インディアン・スーパーリーグFCゴアの監督に就任[46]

2016年8月、日本サッカー殿堂顕彰が日本サッカー協会より発表された[47]

2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され[48]、8月にはコーチとして役員登録された[49]

人物[編集]

学歴[編集]

カステロブランコ大学体育学科出身。

愛称[編集]

ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた[5]。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。

幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)[50] と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。

フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。

家族[編集]

1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。なお、長男の妻は日系人である[51]。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。

ジーコレーベルとサンバ[編集]

ブラジルは、サンバボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。

退場処分など[編集]

人格者として知られているが、ウディネーゼでの2シーズン目には審判への暴言で長期出場禁止処分を受けた[14]。また1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良PKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となった。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている[28]。上記に様にプレー中は熱くなることもある。

その他[編集]

ロベルト・バッジオは幼少の頃ジーコに憧れ、フリーキックの蹴り方を真似ていた[52]。またバッジオから、自身のフリーキックの精度向上のため、フリーキックを蹴る映像を送って欲しいと依頼され、ジーコは自ら多くの時間を割いて、映像を編集したビデオを送付した[53]

主な監督成績[編集]

監督として[編集]

日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。オシムベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[54]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手(豊富な運動量でチームを支える選手)が福西しかいなかった」と批判したが、一方でW杯予選を勝ち抜いたことを「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ。それは単純に予選を突破したという意味でね」と一定の評価をしている[55]

日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では2位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。

日本代表監督として招集した人数はとても多く試合出場選手の総数は57人である。[2](トルシエは総数で64人 [3])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。

日本とジーコ[編集]

初来日
1990年に住友金属に入団する前からフラメンゴの選手として1981年のトヨタカップ、1986年のキリンカップで来日、1989年にも日本で開催されたワールドウドマスターズサッカーでもプレーするなど日本とは縁があった。現在は日本を「第二の故郷」とコメントするほどの親日家であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つ母国ブラジルでは、そのおかげで日本がリスペクトされるようになり、「ジーコによって日本の印象は変わった」と言われている。
2011年6月に来日した際、「長男の妻は日系人」であることを明かし[56]、自身の孫が日本人の血を引くことに「日本との関係がさらに深くなるのは嬉しいこと」と語っている[57]
愛車
1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した1981年型トヨタ・セリカをトヨタ81と名付け、長期に渡り大切にしている[11][58]
日本代表監督時は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもあった。2006年からはフーガに変わった。

2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命された。

その他[編集]

  • ファミリーコンピュータソフト「キャプテン翼II スーパーストライカー」に「アルツール・アンチネス・コインブラ」という選手がゲームのラストボスとして登場する。
  • また、スーパーファミコンで発売された続編「キャプテン翼V 覇者の称号カンピオーネ」ではクリア後に戦える隠しチーム「カナリアスターズ」の一員としてアンツネスの名で登場する。ブラジルの名選手たちを一堂に集めたオールスターチームで、本来のジーコ自身はこちらの方。
  • 1994年、エレクトロニックアーツよりスーパーファミコンソフト「ジーコサッカー」が発売された。
  • 1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2011年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
  • 嫌いな日本食は、きつねうどん[59]。「新・食わず嫌い王決定戦」の企画コンセプトは、「この食べ物の、ここが嫌い」であるため、実際は他の日本食同様に、好物であると思われる。
  • 1998年のブラジル映画陽だまりのイレブン」(原題 Uma Aventura de Zico ズィッコの冒険)にジーコ本人役と、厳格なジーコと陽気なジーコに分裂した「ジーコピー」の3役で出演。なお、夫人と息子もカメオ出演している。
  • 茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。普段は休憩スペースとして使われているが、営業時間内に鹿島アントラーズの試合がスカパー!で放送される場合は、無料で放映している。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った[60]
  • 1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))[61]
  • ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と激怒した[20]

統計[編集]

所属チーム ゴール数 試合数 ゴール確率
フラメンゴ 508 731 0.69
ウディネーゼ 56 79 0.69
住友金属鹿島アントラーズ 54 88 0.61
ブラジル代表 48 71 0.68
オリンピック 1 8 0.12
マスターエイジ 10 18 0.55
ティーンエイジ 81 116 0.69
その他 50 52 0.90
総合計 826 1180 0.70

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1971 フラメンゴ 全国1部 15 2
1972 6 0
1973 35 8
1974 50 32
1975 55 41
1976 47 32
1977 47 36
1978 22 19
1979 22 27
1980 45 21
1981 41 28
1982 36 20
1983 48 42
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1983-84 ウディネーゼ セリエA 24 19
1984-85 16 3
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1985 フラメンゴ 全国1部 3 2
1986 4 3
1987 17 6
1988 18 4
1989 19 4
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1991-92 住友金属 10 JSL2部 22 21 2 1 - 24 22
1992 鹿島 - J - 10 6 2 1 12 7
1993 - 16 9 3 1 4 2 23 12
1994 - 7 5 0 0 - 7 5
通算 ブラジル 全国1部 530 327
イタリア セリエA 40 22
日本 J 23 14 13 7 6 3 42 24
日本 JSL2部 22 21 2 1 - 24 22
総通算 615 384

その他の公式戦

タイトル[編集]

選手時代[編集]

フラメンゴ

監督時代[編集]

フェネルバフチェ
ブニョドコル
CSKAモスクワ
日本代表

個人タイトル[編集]

エル・グラフィコ誌から表彰された(左から)ジーコ、ディエゴ・マラドーナウバルド・フィジョール(1981年)

参考文献[編集]

  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
  • 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
  • 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 「偉大なジーコがもたらした」鹿島のクラブW杯躍進 礎を築いた“神様”の功績に欧州が再注目”. FOOTBALL ZONE.WEB (2016年12月16日). 2017年4月7日閲覧。
  2. ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』p29
  3. ^ “Arthur Antunes Coimbra "Zico" - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/zico-intlg.html 
  4. ^ [1]
  5. ^ a b トヨタカップ 1992年 大会公式パンフレット p.77
  6. ^ John Brewin (2002年4月23日). “World Cup 1982 (Spain)”. Soccernet. http://worldcup.espnsoccernet.com/story?id=203639 2006年7月3日閲覧。 
  7. ^ Oswaldo Tinhorão
  8. ^ Daniel Pearl (2006年4月3日). “No flair please, he's Brazilian”. London: BBC. http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/newsnight/4866312.stm 2006年7月3日閲覧。 
  9. ^ 公には披露しないが、限られた私的な場では演奏を披露するサービスを行っている。
  10. ^ a b c Final da Libertadores da América de 1981”. www.melhoresdabase.com. 2020年4月21日閲覧。
  11. ^ a b 神様”ジーコ、1981年製日本車と“お宝2ショット”公開”. news.yahoo.co.jp. 2020年5月21日閲覧。
  12. ^ FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 2020年4月21日閲覧。
  13. ^ 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  14. ^ a b c 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説 ページ3”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  15. ^ a b c Zico 1983-84”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  16. ^ a b 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説 ページ4”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  17. ^ a b Quella volta che Zico incantò Miano e stregò tutti contro l’Inter”. www.mondoudinese.it. 2020年6月3日閲覧。
  18. ^ Zico 1984-85”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  19. ^ 1991年、「ジーコを指導者として使うチームを紹介してくれ」と知り合いの代理人から打診を受けたテレビプロデューサーが木之本興三JSL事務局長を訪れ、この話を最初、古河電工へ持ちかけるも返事は「NO」。川淵三郎が「住金にジーコを選手として雇えないならプロチームにさせないと言え」と命じ、住金もこの話に乗り気でジーコとの契約に乗り出す。
  20. ^ a b “すべてはジーコから始まった 衝撃のJリーグ開幕戦ハットトリック”. sportiva.shueisha. (7 April 2020). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_2.php 2020年3月26日閲覧。 
  21. ^ a b c d e f g h i j k スポーツ報知 1994年6月16日 第40630号 報知新聞社 7版 1面
  22. ^ Jリーグカップ ハットトリック一覧”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  23. ^ “神様ジーコが激怒した日――27年前の4月12日から“常勝鹿島“の歴史は始まった”. thedigestweb.com. (2020年4月7日). https://thedigestweb.com/football/detail/id=13394?open=on 2020年3月26日閲覧。 
  24. ^ [https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202003290002-spnavi ““メルカリ会長”に聞くアントラーズ改革 Jリーグ新時代 令和の社長像 鹿島編”]. sports.yahoo=. (2020年3月31日). https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202003290002-spnavi 2020年3月26日閲覧。 
  25. ^ サッカーストライカー 1993年6月13日 p.20-21 学研
  26. ^ “すべてはジーコから始まった 衝撃のJリーグ開幕戦ハットトリック3”. sportiva.shueisha. (2020年4月12日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_3.php 2020年5月2日閲覧。 
  27. ^ “神様”ジーコ、「最高の瞬間4選」を英メディア特集 伝説のFK、鹿島時代の芸術弾も紹介-Football Zone 2020年3月7日
  28. ^ a b “ボールにツバを吐きかけて退場 ジーコ氏がヴェルディ川崎戦でのPKを語る”. news.livedoor.com. (2018年3月3日). https://news.livedoor.com/article/detail/14380957/ 2020年6月1日閲覧。 
  29. ^ 94Jリーグサントリーシリーズ 第22節”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  30. ^ 94JリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  31. ^ Gabriel Jesus joins Pele, Zico, Rivaldo and Neymar as Brazil's goalscoring debutants”. www.goal.com. 2020年4月21日閲覧。
  32. ^ a b c d e f Zico national team”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  33. ^ 「ジーコの技は誰にも止められない」82W杯、ブラジル最高傑作のチームはなぜ敗れたのか?<後編>”. www.soccerdigestweb.com. 2020年4月21日閲覧。
  34. ^ 日本代表ジーコ監督 退任会見全文
  35. ^ a b ジーコ氏がウズベキスタン監督就任へ”. ゲキサカ (2008年11月20日). 2020年6月14日閲覧。
  36. ^ ジーコ氏来日断念…日本に追い風か”. スポニチ (2008年10月12日). 2020年6月14日閲覧。
  37. ^ ジーコ氏がウズベキスタン協会と契約延長へ”. ゲキサカ (2008年11月17日). 2020年6月14日閲覧。
  38. ^ サッカー=ジーコ氏、わずか4カ月でフラメンゴのディレクター辞任、ロイター、2010年10月2日。
  39. ^ ジーコ氏が4カ月でフラメンゴTDを辞任、クラブ内で確執、スポーツナビ、2010年10月2日。
  40. ^ 58歳ジーコ氏勇気のV弾!「少しでも笑顔を」、スポニチ、2011年6月5日。
  41. ^ W杯予選抽選会、ジーコ氏がアジア担当、スポニチ、2011年7月31日。
  42. ^ ジーコの主張 イラクのピッチだけに留まらぬ諸問題-ジーコ公式HP2012年7月28日
  43. ^ ジーコ氏がイラク代表監督続行へ-日刊スポーツ2012年8月11日
  44. ^ イラク代表監督の契約解消 -ジーコ公式HP2012年11月28日
  45. ^ Zicoが監督として2年契約に署名と同時に業務開始 -ジーコ公式HP2013年8月6日
  46. ^ ジーコ氏、インドのクラブ指揮 ゴア監督に就任 -スポニチアネックス 2014年9月3日
  47. ^ “ジーコ元代表監督が選出、ベルリン五輪代表も 日本サッカー殿堂”. スポーツニッポン. (2016年8月1日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/08/01/kiji/K20160801013078450.html 2016年8月1日閲覧。 
  48. ^ “ジーコ氏がテクニカルディレクター就任” (プレスリリース), 鹿島アントラーズ, (2018年7月17日), http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/66469 2018年7月17日閲覧。 
  49. ^ お知らせ 登録役員追加・変更・抹消” (2018-08-14|J.League Data Site). 2018年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月14日閲覧。
  50. ^ 〜ニョ小さい可愛らしいの意、日本語の「〜ちゃん」に相当。
  51. ^ 朝日新聞 2011年6月3日
  52. ^ “第11回 ロベルト・バッジオ、“独占取材”の夜(後編)”. www.ninomiyasports.com. (2008年8月8日). https://www.ninomiyasports.com/archives/11279 2020年6月1日閲覧。 
  53. ^ “ジーコの想い出 バッジオ、プラティニ 素の魅力で築かれた華麗な人脈”. www.zakzak.co.jp. (2014年10月8日). http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141008/soc1410081550001-n1.html 2020年6月1日閲覧。 
  54. ^ 「昔はゲームの中に時間とスペースがあったが今はそれが全くない。30m位のスペースの中に20人が互いにプレッシャーを掛け合っている。相手が強ければ強いほどプレッシャーが厳しく巧になり、ミスが起こりやすくなる。確かにワンタッチで相手の裏をとれれば効果的に突破できる。しかしカットされカウンターをかけられる確率はさらに高い。今のサッカーはミスの数が少ない程勝つ確率が高いんだ。どんな美しいサッカーをしても負けてしまっては歴史は作れない。何年後かに記録を見た時に残るのは“0-1で負け”の一行でしかない。そうならない為に最も確実な“止めて蹴る”が必要になるんだ。判断の早さと正確性が身についていれば、ダイレクト・プレーと比較しても時間的なロスはほとんどない!中盤はシンプルに確実に・・・相手が一番嫌がるエリア(つまり敵陣ペナルティエリアの付近)に達した時に、躊躇せずに持てる技術の全てを発揮しろ」と述べている。(鈴木通訳のブログより引用。なお、文中の「ダイレクトプレー」は実際は「ワンタッチプレー」の意である)
  55. ^ フェネルバフチェの監督時代にも、PSV戦での選手たちの走行距離が一人途中退場者が出たにもかかわらず、108kmだったというデータについてコメントを求められて「相手にいかにプレッシャーをかけたかを示していると思う。適切に走って相手スペースを消していけばこちらのものだ。それがこの試合でわれわれのしたことだ。PSVは特にホームで強いので厳しいゲームになると思っていた。しかし考えて走り、プレスをかけ、キッチリと相手をマークし、チーム一丸で攻めれば相手の脅威を減殺できる。相手の強力な選手たちに本来の実力をださせなかったわけで、この数字はその結果を示すものだ。」と回答している様に、判断力と技術が近代サッカーには不可欠と考える一方、それらを支える走力・フィジカルバランス等の肉体強化の重要性を、選手時代から一貫して主張している。
  56. ^ “ジーコ元監督、5年ぶり来日 慈善試合でプレーへ”. 朝日新聞. (2011年6月2日). http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201106020501.html 2011年6月5日閲覧。 
  57. ^ “ジーコ氏、日本に「神の手」約束…W杯アジア最終予選で抽選役”. スポーツ報知. (2011年6月3日). http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/world/news/20110602-OHT1T00283.htm 2011年6月5日閲覧。 
  58. ^ "【話の肖像画】サッカー指導者ジーコ(2)初来日の賞品は今でもガレージに(3/3ページ)". 産経ニュース. 産経新聞. 26 July 2016. 2020年4月26日閲覧
  59. ^ 1998年3月26日放送 とんねるずみなさんのおかげでした【新・食わず嫌い王決定戦】石井竜也×ジーコ
  60. ^ チェリオのHPのジーコ広場の紹介ページ
  61. ^ 新潮社刊「野人伝」著者:岡野雅行
  62. ^ 第13回日本サッカー殿堂 掲額者決定のお知らせ”. 日本サッカー協会 (2016年8月1日). 2016年8月1日閲覧。

関連項目[編集]