スンシャン

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スンシャンモンゴル語: Sungšan, 中国語: 松山, 生没年不詳)は、クビライの孫晋王カマラの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では松山(sōngshān)、『集史』などのペルシア語史料では جونگشای(jūngšāī)と記される。

概要[編集]

第五代モンゴル帝国皇帝、セチェン・カーン(世祖クビライ)の孫カマラの息子として生まれた。兄弟には後にカーンとなったイェスン・テムル、デリゲル・ブカらがいる[1]

至元30年(1293年)、父カマラの後を継ぎ「梁王」として雲南に出鎮した[2]。元来、雲南方面はクビライの第六子フゲチの家系が治めていたが、至元27年(1293年)にクビライの孫カマラが「梁王」として派遣されることになった[3]。ところが、北方モンゴリアを統轄していた北安王ノムガンが後継者を残さず亡くなったため、カマラがノムガンの後継者としてモンゴリアに送られることになり、本来カマラが就くはずであった「梁王」の地位は息子のスンシャンに譲られることになった。このように急な事情で若くして梁王の地位に就いたスンシャンのため、朝廷はかつてフゲチに仕えて雲南行政に携わっていた張立道をスンシャンの補佐として派遣している[4]

セチェン・カーンが亡くなりオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)が即位すると、スンシャンは本格的に雲南の統治に携わっていった[5]。元貞2年(1296年)には自らのケシク(親衛隊)を派遣して元江の賊を討伐した[6]。また、大徳5年(1301年)には雲南行省平章幢兀児・参政不蘭奚を派遣して賊酋撒月を討伐させ、斬首は500級にのぼったという[7]

その後も屡々オルジェイトゥ・カーンによる下賜があったが[8][9]クルク・カーン(武宗カイシャン)が即位すると、至大2年(1309年)に病のため梁王の地位を退いた。梁王の地位は一時アウルクチ家のラオディに受け継がれた[10]が、後にスンシャンの息子オンシャンが梁王位を継承した。

晋王カマラ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻23武宗列伝115顕宗伝,「顕宗光聖仁孝皇帝、諱甘麻剌、裕宗長子也。……子三人、曰也孫帖木児、曰松山、曰迭里哥児不花」
  2. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年]秋七月……己未、詔皇曾孫松山出鎮雲南、以皇孫梁王印賜之」
  3. ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十七年]冬十月壬申、封皇孫甘麻剌為梁王、賜金印、出鎮雲南」
  4. ^ 『元史』巻23武宗列伝167張立道伝,「[至元]三十年、皇曾孫松山封梁王、出鎮雲南。大德二年、廷議求旧臣可為梁王輔行者、立道遂以陝西行台侍御史拜雲南行省参政」
  5. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年六月]丙戌、以雲南歳貢馬二千五百匹給梁王、数太多、命量減之」
  6. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年八月]戊寅、元江賊舍資殺掠辺境、梁王命怯薛丹等討降之」
  7. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年五月]壬辰……梁王遣雲南行省平章幢兀児・参政不蘭奚将兵御之、殺賊酋撒月、斬首五百級」
  8. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳九年三月]庚戌……詔梁王勿与雲南行省事、賜鈔千錠」
  9. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳十年夏四月]甲子……賜梁王松山鈔千錠」
  10. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年三月]己丑……梁王在雲南有風疾、以諸王老的代梁王鎮雲南、賜金二百五十両・銀七百五十両・従者幣帛有差」

参考文献[編集]

  • 牛根靖裕「元代雲南王位の変遷と諸王の印制」『立命館文学』608、2008年
  • 新元史』巻113列伝10