セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)

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セヴァストポリの戦い
Eastern Front 1941-12 to 1942-05.png
セヴァストポリ侵攻時の戦線
戦争第二次世界大戦東部戦線
年月日:1941年9月から1942年7月
場所クリミア半島ソビエト連邦
結果:枢軸国軍の勝利
交戦勢力
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg ドイツ
Flag of Romania.svg ルーマニア王国
Flag of Italy (1861–1946).svg イタリア王国
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ソビエト連邦
指導者・指揮官
Flag of the NSDAP (1920–1945).svg エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
Flag of Romania.svg ゲオルゲ・アヴラメスク
Flag of Italy (1861–1946).svg フランチェスコ・ミンベッリ
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ドミトリー・コズロフ
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg イワン・ペトロフ
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg ゴーディ・レフチェンコ
Flag of the Soviet Union (1924–1955).svg フィリップ・オクチャーブリスキー
戦力
350,000以上 106,000
損害
100,000 以上戦死、負傷および捕虜 11,000 戦死、95,000 捕虜
独ソ戦

セヴァストポリの戦い(セヴァストポリのたたかい、ロシア語: Битва за Севастополя)は、1941年9月から1942年7月にかけての、クリミア半島とセヴァストポリ要塞をめぐる枢軸国軍とソ連軍の戦闘である。

背景[編集]

クリミア半島黒海に面し、東方のケルチ半島が黒海とアゾフ海を分かつ、戦略上の要衝である。ソ連黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリを抱え、クリミアから飛来するソ連軍爆撃機が、ドイツにとって死活的に重要なプロエシュチ油田を爆撃可能であったので、この制圧は、ドイツ軍にとって重要であった。しかし、クリミアへの陸路の侵攻ルートは、狭隘なペレコープ地峡を経るしかなく、セヴァストポリ要塞の防衛は、当時の世界レベルでトップクラスの堅度であり、更に、黒海の枢軸側海軍は弱体で、制海権はソ連黒海艦隊に握られていたので、その攻略は難航した。

経過[編集]

ペレコープ地峡突破[編集]

クリミア半島の制圧を任されたマンシュタイン歩兵大将(当時)の第11軍は、1941年9月24日幅わずか7kmのペレコープ地峡に攻撃を開始。狭い地峡に奥深く敷かれたソ連軍陣地に苦しめられ、3日間激戦が続いたが何とか突破して、クリミア半島に侵入を開始した。クリミアの防衛が危機的状況になったので、スタフカは同じく枢軸軍に攻囲されながらも善戦していたオデッサの防衛を諦めて、オデッサの守備兵力をセヴァストポリ防衛に転用することにした。10月15~16日、黒海艦隊によりオデッサの守備隊はセヴァストポリへ撤収し、オデッサは16日に陥落した。第11軍は、11月中旬までにセヴァストポリを除く半島全域を占領した。

12月17日には、最初の総攻撃がセヴァストポリ要塞に対して行われたが、ソ連軍の防衛は堅固でほとんど成果をあげることが出来なかった。

ソ連軍のケルチ再上陸[編集]

モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過剰に評価したスターリンは、ドイツ軍に攻囲されているセヴァストポリの救出を計画するようスタフカに指示した。反攻案はケルチ半島に上陸して、ドイツ軍を駆逐しセヴァストポリへ向かうというものである。計画の予定より1週間遅れて、12月26日にトランスコーカサス方面軍の第44軍は黒海艦隊の支援の元、ケルチ(半島先端部)周辺に上陸した。悪天候や適切な上陸用舟艇の欠如、ソ連軍指揮官の上陸作戦についての経験不足から、2日で2万人を揚陸する予定が実際には5日もかかっており、更に大量の重装備が失われた。29日には第51軍が半島北東部に上陸した。ソ連軍の拙劣な上陸作戦により、上陸後は半島東部に多数の脆弱な橋頭堡が形成されている状況であった。

一方、ドイツ軍側では第42軍団がケルチ半島の一部を守備しており、半島には主要な戦闘部隊として第46歩兵師団とルーマニア軍の2個騎兵旅団があるだけだった。12月29日、第42軍団長グラーフ・フォン・シュポネック中将は誤った状況報告を元に第46歩兵師団に半島基部のパルパック地峡まで撤退するよう命令した。マンシュタインは、この命令を取り消して現在地で踏みとどまるよう命令したが、既に軍団司令部が移動していたため無線連絡がとれず、シュポネックの撤退命令は有効なままだった。マンシュタインはシュポネックを解任し、ヒトラーも彼を軍法会議に送った。事態を重く見たヒトラーは、空軍の指揮系統を無視して第8航空軍団ウォルフラム・フォン・リヒトホーフェン空軍大将を直接呼び出し、1週間以内にその全力をもってケルチのソ連軍橋頭堡を封じ込めるよう命じた。第46歩兵師団は機動力がなく、撤退の過程で戦力を大幅に損耗してしまった。ソ連軍は12月末までにケルチとフェオドシヤを占領したが、ソ連軍指揮官は攻勢作戦について経験不足で、防衛側に有利な山岳地形という事もあって緒戦の戦果を拡大することはできず、翌1月にはフェオドシヤ西部で膠着状態に陥った。

セヴァストポリ要塞攻囲戦[編集]

ドイツ陸軍に撃破されたセヴァストポリ要塞の30.5cm二連装砲塔。(戦後復元され三連装砲塔に改修されている。)

6月7日、セヴァストポリを再度包囲したドイツ軍であったが、ケルチ半島での戦闘の間に要塞北面の地峡に多数の要塞砲を配置し、中でもガングート級戦艦の二連装主砲塔を流用して陸上に設置した砲台(地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられていた)とトーチカ群が設けられており、工兵が爆破処理するのは不可能であった。

そこでマンシュタインは、新旧・大小問わず1,300門もの大砲をかき集め猛砲撃を加えた。その際、ドイツから80cm列車砲「グスタフ」を分解して持ち込んだ。グスタフは、鉄道のレールの上に設置する40口径の80cm砲で、最大射程47km、砲弾も通常の榴弾に加え、徹甲弾の先端に大量の爆薬を詰めた徹甲榴弾も使用された。列車砲ゆえに旋回できないのが難点だったが、ゆるいカーブの付いたレールを敷くことで射角を確保した。なお、同砲は列車砲ではあるが設置するのに複線が必要な上、設置用のクレーンで更に外側に二本、合わせて四本もの鉄道路線が必要であり、他の列車砲のように線路の上を走らせて戦場に持ち込むような事はできなかった。これ以外にも、カール自走臼砲などの重砲も投入された。

グスタフを始めとする重砲で突破口を開けて、そこに短射程の野戦砲を前進させて距離を詰めながら、しらみつぶしに敵陣地を破壊していった。特に命中精度は低いものの大量の砲弾をばら撒けるロケット砲は、密集したトーチカ制圧に有効であった。砲撃に加えて急降下爆撃機による支援も行われている。

5日間の猛砲撃・爆撃で、要塞北面の陣地は全て破壊され、セヴァストポリ市街と軍港の包囲が始まった。要塞東面・南面にも防御陣地と砲兵隊が配置されていたが、北面ほど強力ではなかったため次々と突破され、7月3日セヴァストポリは陥落した。

マンシュタインは、この功績により、元帥に昇進した。

その後、第11軍はケルチ海峡を渡ってタマン半島へ進撃したが、ヒトラーは第11軍の要塞攻略の経験を活かしたいとして、マンシュタインと第11軍の大部分は、レニングラード戦線に転用された。

ソ連軍による奪回(1944年)[編集]

クルスクの戦いに続いて始まったソ連軍の攻勢により、1943年11月にはクリミアへの鉄道による補給路は断たれてしまい、第17軍の補給は海路に頼るのみとなった。アントネスク(ルーマニア王国首相兼軍最高司令官)、マンシュタイン(南方軍集団司令官)、クライスト(A軍集団司令官)、イェーネッケ上級大将(第17軍司令官)、ツァイツラー上級大将(陸軍参謀総長)のいずれもが、クリミアの放棄を求めたが、ヒトラーはトルコへの政治的影響とルーマニアの油田地帯防衛を理由として死守を命じた。3月30日には、クライストとマンシュタインは休養を命じられ、A軍集団あらため南ウクライナ軍集団の司令官には、シェルナー歩兵大将が起用された。

ソ連第4ウクライナ方面軍(トルブーヒン大将)は、4月8日にペレコープ地峡を攻撃し、防衛軍は初日はなんとかもちこたえたが、二日目にはルーマニア軍が崩壊し始めた。その日の夜、イェーネッケはヒトラーの承認無しに、クリミアにある全軍のグナイゼナウ線[1]への撤退命令を出した[2]。第17軍はグナイゼナウ線でも持ちこたえれず、4月末にはセヴァストポリへ押し込まれてしまった。4月29日に総統大本営でヒトラーに状況報告したイェーネッケはクリミアの放棄と第17軍のOKHへの直属を強く主張したため、ヒトラーに解任されて後に軍法会議へ送られた。後任の第17軍司令官には、増援兵力をもらえればセヴァストポリを維持できるとした第5軍団アルメンディンガー歩兵大将が起用された。

しかし1942年の攻囲戦で破壊された要塞設備の修復は不十分で、両軍の戦力差は圧倒的であり、さらに第17軍の補給路はソ連軍の海空からの攻撃に常時晒されている状況のもとで、ソ連軍の重囲を持ちこたえるのは荷が重すぎた。5月6日にソ連軍は要塞に対して総攻撃を開始し、5月7日には要塞全域を一望できる要地のセパン高地を占領した。5月8日には、第17軍の損害は大きく要塞の保持は不可能であるのが明らかとなったため、その夜ヒトラーは撤退を許可した。5月9日~12日まで海路によるコンスタンツァへの撤収作戦が行われたが、5月第1週目にセヴァストポリにいた兵員64,700名のうち、約4割にあたる26,700名は撤収できず海岸に置き去りにされ[3]、5月13日にセヴァストポリは陥落した。アルメンディンガーも、セヴァストポリ失陥の責任を問われて軍法会議へと送られた。

脚注[編集]

  1. ^ 半島中央部に東西に引かれた防衛線
  2. ^ Ziemke & Bauer III 2013, 6627.
  3. ^ Ziemke & Bauer III 2013, 6679.

参考文献[編集]

  • パウル・カレル著、吉本隆昭 監修、松谷健二 訳、『焦土作戦(上、下)』、学習研究社、1999年
  • Ziemke, Earl F.; Bauer III, Magna E. (2013) (English), Stalingrad to Berlin:The German Defeat in the East (Illustrated ed.), Pickle Partners Publishing 
  • Glantz, David M.; House, Jonathan (1995). When Titans Clashed. University Press of Kansas. ISBN 0-7006-0717-X.