タガミホマレ

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タガミホマレ
品種 アングロアラブ
性別
毛色 栗毛
生誕 1962年4月23日
死没 1994年3月18日
ミネフジ
バイオレツト
母の父 ミネオカ
生国 日本の旗 日本
宮崎県延岡市
生産 尾崎竹男
馬主 田上将行
中村畜産
調教師 福地達晃(兵庫
→藤原幸蔵(兵庫)
→田村任三郎(大井
→藤原幸蔵(兵庫)
競走成績
生涯成績 73戦41勝
獲得賞金 2817万2000円
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タガミホマレとは日本アングロアラブ競走馬である。1960年代地方競馬で活躍し、種牡馬としてもリーディングサイアーに輝いた。

競走馬時代[編集]

馬齢は旧表記を用いる。

150万円で馬主である田上将行に購買されたタガミホマレは、3歳となった1964年、当初はキイカチドキという馬名で園田競馬場でデビューした。2戦目から当初管理していた福地達晃厩舎から藤原幸蔵厩舎[1]に移籍し、4戦目からタガミホマレに改名して出走した。緒戦は5着だったが移籍した2戦目からは7連勝を記録するなど3歳時は12戦9勝の成績を残した。

4歳時は20戦13勝で、当時の兵庫二大競走であった春の銀賞では2着馬マツサカに3馬身差で勝ち、秋の銀賞もサンタクロに6馬身差で勝利したが、の白鷺賞(2着)では早くも65キログラムを背負うなど、以後は自身の負担重量との戦いに明け暮れることになる。春木競馬場での大阪府都市競馬組合管理者賞ではダート2000メートルで2分12秒2というコースレコードタイムを残している。

5歳時は新春賞を67キログラムで優勝、5歳以上特別では71キログラムで優勝したが、兵庫大賞典では56キログラムながら3着に敗れ、4月には大井競馬場に移籍した。大井では7月7日にダート2000メートルで行われたワード賞で2分06秒6のレコードタイムで優勝するなど12戦5勝を挙げた。同年にはふたたび兵庫の藤原厩舎に戻ったが、アラブ大賞典を4着と敗れたこともあり、引退して種牡馬にするため中村畜産に600万円で売却されたが、体調が上向いたこともあり中村畜産の所有で翌年も現役を続行した。同年の兵庫所属時の成績は7戦4勝。

6歳時は18戦10勝。兵庫大賞典、園田金盃を優勝し、サマーハンデーでは日本における重賞の最高負担重量勝利となる71キログラムで勝利を収めている[2]。同年はトレード金額の2倍にあたる約1200万円を獲得した。

7歳時は4戦0勝。2月の兵庫大賞典2着を最後に引退した。通算成績は73戦41勝、2着19回3着5回4着3回5着4回で6着以下は1回のみという安定した成績を残した。

種牡馬時代[編集]

北海道三石郡三石町の中村畜産で種牡馬となったタガミホマレは初年度から147頭に種付けし、1973年には年間270頭という、1966年セイユウが記録した238頭を更新した。「性雄」と呼ばれたセイユウの生涯種付け記録2599頭も更新し2909頭をマークした。産駒も活躍し,1976年から1982年まで7年連続してアングロアラブの日本リーディングサイアーに輝いている。全日本アラブ大賞典タイムライン、ミスダイリン、エビタカラの3頭で3勝し、そのほかにもシナノリンボーなど多くの馬が繁殖においても活躍したが、現在は日本のアングロアラブ生産自体が風前の灯となっている。タガミホマレは1994年3月18日老衰で死亡した。競走馬としては33歳という大往生であった。

血統表[編集]

タガミホマレ血統アラブ血量32.66% / ジョーアンドリュース系 (血統表の出典)

アア ミネフジ
1947 黒鹿毛
アア *バラツケー
1927 黒鹿毛
サラ Comtat サラ Vinicus
サラ Contree
アア Titine アラ Kerro
アア Bougiere
アア 梅橋
1937 栗毛
サラ *ウツリーブリツヂ サラ Bridge of Earn
サラ Ashboro
アア 梅和 アラ *ワギー
アア 梅蕾

アア バイオレツト
1953 鹿毛
サラ ミネオカ
1942 青毛
サラ *ダイオライト サラ Diophon
サラ Needle Rock
サラ 月丘 サラ Sir Gallahad
サラ *星若
アア 第三谷川
1942 栗毛
アア 賢努 アア *ギドラン四二ノ三
アア ギドネー
アア 第一安栄 アア シーザー
アア 安栄 高砂系
父系
母系(F-No.)
5代内の近親交配
出典

その他[編集]

  • 競馬新聞競馬キンキ』のテレビ・ラジオコマーシャル(1980年代の『競馬レポート』の直後や、サンテレビでの園田・姫路競馬中継時)で、永らく「タガミホマレがいて、アサヒマロツトがいた。あの時も競馬キンキ。群雄乱れて戦国の今も、専門誌はやっぱり競馬キンキ。豊かな情報をお届けいたします。」(声:中島らも)と称されていた。
  • 1989年には、その成功を讃えて種牡馬としての繋養先である中村畜産に銅像が建てられている。
  • 2010年に開かれた「NARグランプリ2009」において特別表彰された[3]

脚注[編集]

  1. ^ 当時の地方競馬調騎分離以前の時代だったため、藤原騎手調教師(当時の呼称は「調教騎手」)も兼任していた。
  2. ^ 『ハロン』によるが、反例(1958年、中央競馬読売カップ〈秋〉での72キログラム)があるため地方競馬限定と思われる。
  3. ^ 『NARグランプリ2009』表彰馬・表彰者決定!” (日本語). 地方競馬全国協会 (2010年1月7日). 2011年7月16日閲覧。

参考文献[編集]