タシュ

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タシュ(モンゴル語: Taš, ? - 1239年)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたジャライル部出身の万人隊長。建国の功臣国王ムカリの地位を継いで対外戦争に従事したが武功に恵まれず、ムカリ家の停滞を招いた当主として知られる。

元史』などの漢文史料では塔思(tǎsī)と記される。別名をチラウン(Čila'un >査剌温/cháláwēn)とも言うが、「タシュ」と「チラウン」はそれぞれモンゴル語テュルク語でともに「石」を意味する名称である[1]

概要[編集]

タシュはモンゴル帝国建国の功臣たる国王ムカリの孫に当たり、ムカリの地位を継承したボオルの長男として生まれた。タシュは幼い頃から利発でムカリから目をかけられており、 ムカリは周囲の者に「我が志を達成するのはこの子であろう」と語っていたという。タシュは18歳にして父の跡を継ぎ、1230年(庚寅)9月には反乱を起こして潞州を包囲した武仙の討伐を第2代息帝オゴデイより命じられた。タシュ率いる討伐車の接近を知った武仙は一度退却し、武仙軍の様子を窺ったタシュは夜明けとともに攻撃を仕掛けるよう命じた。ところが、タシュ軍が出陣する前に金朝の将軍移剌蒲瓦が夜襲を仕掛け、タシュは沁南に逃れざるをえなくなった。この隙をついて武仙軍は潞州の包囲を再開してこれを陥落させた上潞州城主の任存は戦死してしまい、 タシュにとっては不名誉な初陣となった[2]

同年10月、オゴデイ自ら軍を率いての金朝親征(第二次対金戦争)が始まると、タシュはアルチダイとともに潞州を攻撃して武仙軍を打ち破り、首級7000を挙げる勝利を収めた。翌月には潼関を守備して金軍の逆侵攻に備えるよう命じられている。翌1231年(辛卯)にオゴデイ軍が潼関を攻略すると、タシュは退却した金朝元帥完顔火燎の追撃を命じられ、タシュ軍は完顔火燎に追いついて切り殺した。1232年(壬辰)春、右翼軍を率いるトゥルイが金軍主力と接近しつつあるとの報が入ると、オゴデイはタシュとアルチダイ、クウン・ブカの3名にトゥルイ軍の救授に向かうよう命令し、黄河を渡った3名は三峰山にてトゥルイと合流した。モンゴル軍と金軍との決戦は大雪の中行われ、タシュは矢石を恐れず先鋒を務め、敵将移剌蒲瓦を捕虜とする功績を挙げた(三峰山の戦い)。三峰山の戦いに勝利を収めた後もタシュは敵将の完顔合達を追撃して鈞州に至り、完顔合達を打ち取って鈞州も陥落させた。同年3月、金朝が滅亡しオゴデイが北方への帰還を始めると、残敵掃討はタシュらに任せられた。タシュらは河南地方の大部分を平定したが、汴京帰徳府蔡州といった諸域は守りが固くなかなか攻略することができなかった。 そこでダシュはオゴテイに使者を派遣して「祖父ムカリはチンギス・カンの勃興を補佐して次々と功績を挙げたが、目らは国王を継ぎながら功なく、昨年は戦いに敗れている。罪は万死に値するが、願わくば攻撃に参加させていただき、以て陸下に報いたい」と上奏したが、オゴデイは占いの結果が悪いとしてこの要請を認めなかった。一方、1233年(癸巳)秋9月にはオゴデイの庶子グユク東真遠征に従軍するよう命じられ、アルチダイとともにグユクを補佐して東真の征服を成功させた[3]

1234年(甲午)秋7月、旧金朝領の処遇を決めるクリルタイが開かれたが、その場でオゴデイは「東南一隅(=南宋)」への親征について言及し諸将の反応を見た。この場でタシュは一番に南宋親征への参加を表明したためオゴデイは喜び、「タシュは年少と雖も英雄の気風がある。我が家の大事を成すのはタシュであろう」と称賛したという。しかし、実際にはオゴデイの息子クチュを総司令とする遠征が計画され、この遠征におけるタシュの地位はチンギス・カン時代のムカリの地位ほど高いものではなかった。1235年(乙未)冬には棗陽を攻略した後、クチュの本軍から分かれて郢州を攻撃したが、郢州は漢江に面する城市で兵の土気は高く水軍も多数擁するという要害の地であった。そこでタシュは劉バートルに死士500名とともに筏で攻撃を仕掛けるよう命じ、劉バートルの作った橋頭保のをもとに郢州を攻略した。また、1236年(丙申)冬には鄧州まで進出した[4]

1237年(丁酉)秋9月には八柳より渡河し汴京に入った所、守臣の劉甫が大慶殿で酒宴を行っており、タシュは「ここはかつての金朝皇帝が住まった場所であり、我ら人臣がいるべき場所ではない」と語ってこれをやめさせたという。翌10月、再びクウン・ブカと合流してともに光州を攻略し、そこから更にタシュは大蘇山を、クウン・ブカは黄州を攻略し、数千の首級と牛馬を得る勝利を挙げた。1238年(戊戌)春正月には安慶府に至り、3月にはオゴデイの下に帰還した。9月にはオゴデイの下での宴会に出たが泥酔してしまい、周囲の者から 「長くはないだろう」とささやかれたという。同年12月には雲中に戻り、翌1239年(己亥)3月、28歳の若さで亡くなった[5]。 タシュが若くして亡くなったため息子のシクドゥルは未だ幼く、代わりに弟のスグンチャクが国王位を継ぐこととなった。以後、ムカリ家の主流はタシュ家ではなくスグンチャク家やバアトル家に移ることとなった[6]

子孫[編集]

タシュの息子シクドゥルは上述したように国王位を継ぐとこはなかったが、長じて三千戸の食邑・建国王旗幟・五品印一・七品印二を与えられて列侯と同様に扱われたという。この措置は、モンゴル帝国内において絶大な権威・権勢を有する国王位をタシュ家が放棄した代償として与えられたものと考えられている[7]

タシュ家はシクドゥルの後、その息子クドカ(Quduqa/忽都華)、孫のクト・テムル(Qutu temür/忽都帖木児)、曾孫のバウガ(Bauga/宝哥)、玄孫のダオトン(Daotong/道童)まで存続したことが記録されている[8]

ジャライル部タシュ系国王ムカリ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 堤2000,198頁
  2. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「塔思、一名査剌温、幼与常児異、英才大略、綽有祖風。木華黎常曰『成吾志必此児也』。及長、毎語必先忠孝、曰『大丈夫受天子厚恩、当効死行陣間、以図報称、安能委靡苟且目前、以隳先世勲業哉』。年十八襲爵、遂至雲中。庚寅秋九月、叛将武仙囲潞州、太宗命塔思救之、仙聞之、退軍十餘里。大兵未至、塔思率十餘騎覘賊形勢、仙恐有伏、不敢犯。塔思曰『日暮矣、待明旦撃之』。是夜五鼓、金将移剌蒲瓦来襲、我師与戦不利、退守沁南。賊還攻潞州、城陥、主将任存死之」
  3. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「冬十月、帝親征、遣万戸因只吉台与塔思復取潞州、仙夜遁、邀撃之、斬首七千餘級、以任存侄代領其衆。十一月、帝攻鳳翔、命塔思守潼関以備金兵。河中自石天応死、復為金有。辛卯、帝親攻抜之、金元帥完顔火燎遁、塔思追斬之。壬辰春、睿宗与金兵相拒於汝・漢間、金歩騎二十万、帝命塔思与親王按赤台・口温不花合軍先進渡河、以為声援。至三峰山、与睿宗兵合。金兵成列、将戦、会大雪、分兵四出、塔思冒矢石先挫其鋒、諸軍継進、大敗金兵、擒移剌蒲瓦。完顔合達単騎走鈞州、追斬之、遂抜鈞州。三月、帝北還、詔塔思与忽都虎統兵、略定河南、諸郡皆降、惟汴京・帰徳・蔡州未下。塔思遣使請曰『臣之祖父、佐興大業、累著勲伐。臣襲世爵、曾無寸効、去歳復失利上党、罪当万死、願分攻汴城一隅、以報陛下』。帝壮其言、命卜之、不利、乃止。癸巳秋九月、従定宗於潜邸、東征、擒金咸平宣撫顔万奴於遼東。万奴自乙亥歳率衆保東海、至是平之」
  4. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「甲午秋七月、朝行在所。時諸王大会、帝顧塔思曰『先皇帝肇開大業、垂四十年。今中原・西夏・高麗・回鶻諸国皆已臣附、惟東南一隅、尚阻声教。朕欲躬行天討、卿等以為何如』。群臣未対、塔思対曰『臣家累世受恩、図報万一、正在今日。臣雖駑鈍、願仗天威、掃清淮・浙、何労大駕親臨不測之地哉』。帝悦曰『塔思雖年少、英風美績、簡在朕心、終能成我家大事矣』。賜黄金甲・玻璃帯及良弓二十、命与王子曲出総軍南征。乙未冬、抜棗陽。曲出別徇襄・鄧、塔思引兵攻郢。郢瀕漢江、城堅兵精、且多戦艦。塔思命造木筏、遣汶上達魯花赤劉抜都児将死士五百、乗筏進撃。引騎兵沿岸迎射、大破之、溺死者過半、餘皆走郢、壁堅、不能下、俘生口・馬牛数万而還。丙申冬十月、復出鄧州、遂至蘄・黄。蘄州遣使献金帛・牛酒犒師、請曰『宋小国也、進貢大朝有年矣。惟王以生霊為念』。乃捨之。遂進抜符鎮・六安県焦家寨」
  5. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「丁酉秋九月、由八柳渡河、入汴京。守臣劉甫置酒大慶殿。塔思曰『此故金主所居、我人臣也、不可処此』。遂宴於甫家。冬十月、復与口温不花攻光州、主将黄舜卿降。口温不花別略黄州。塔思攻大蘇山、斬首数千級、獲生口・牛馬以千数。戊戌春正月、至安慶府、官民皆遁於江東。至北峡関、宋汪統制率兵三千降、遷之尉氏。三月、朝行在所。秋九月、帝宴群臣於行宮、塔思大酔。帝語侍臣曰『塔思神已逝矣、其能久乎』。冬十二月、還雲中。己亥春三月、薨、年二十八」
  6. ^ 堤2000,198-199頁
  7. ^ 原田2007,85頁
  8. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「子碩篤児幼、弟速渾察襲。碩篤児既長、詔別賜民三千戸為食邑、得建国王旗幟、降五品印一・七品印二、付其家臣、置官属如列侯故事。碩篤児薨、子忽都華襲。忽都華薨、子忽都帖木児襲。忽都帖木児薨、子宝哥襲。宝哥薨、子道童襲」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』汲古書院、2007年
  • 藤野彪・牧野修二『元朝史論集』汲戸書院、2012年