ダイイチルビー

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ダイイチルビー
欧字表記 Daiichi Ruby
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1987年4月15日
死没 2007年4月26日(20歳没)
トウショウボーイ
ハギノトップレディ
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産 荻伏牧場
馬主 辻本春雄
調教師 伊藤雄二栗東
厩務員 大当末彦
競走成績
生涯成績 18戦6勝
獲得賞金 4億3080万円
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ダイイチルビーは、日本競走馬繁殖牝馬だった馬。安田記念およびスプリンターズステークス勝ち馬。1991年JRA賞最優秀5歳以上牝馬およびJRA賞最優秀スプリンター

(以下、馬齢は旧表記に統一する)

デビュー前[編集]

トウショウボーイは、父テスコボーイと同様、日高軽種馬農業協同組合で繋養されていた。これにより、組合員はほかの市中の種牡馬に比べて割安に種付けができた。1985年の種付料は民有のノーザンテーストが800万円、マルゼンスキーやターゴワイスが350万円、パーソロンブレイヴェストローマンカツラギエースが300万円、シルバーシャークアローエクスプレスアンバーシャダイ、ノーザリーが250万円、荻伏牧場が所有するハギノカムイオーが200万円といった具合であったが、トウショウボーイは150万円で、すでに1983年中央競馬クラシック三冠ミスターシービーが登場していたことを考えれば極めて安価であった。したがってトウショウボーイには種付けの希望が殺到するが、実際に種付けができるのは抽選によって選ばれた繁殖牝馬だけと決められていた(この方式はのちに、優れた繁殖牝馬から順に選ばれるというように改められる)。

グランディの仔を失った荻伏牧場が、ハギノトップレディの交配相手にトウショウボーイの権利を獲得したのは1986年で、翌年4月に黒鹿毛の牝馬が誕生した。牡馬であればセリ市場への上場が義務付けられるが、牝馬であればそのような義務はなかった。したがって荻伏牧場にとっては、この牝馬がゆくゆくは繁殖牝馬として牧場に戻り、「華麗なる一族」を継ぐ繁殖牝馬となると期待ができた。ところがこの牝馬には生まれながらに左右のの形状に欠陥があった。このためいちどは競走馬としての適性が疑われたが、伊藤雄二調教師によって見出され、デビューすることとなった。

4歳シーズン(1990年)[編集]

伊藤雄二厩舎には、ダイイチルビーの1歳年上に活躍馬のシャダイカグラがいた。シャダイカグラは11月のエリザベス女王杯で競走中に故障して引退に追い込まれ、ダイイチルビーはその直後に伊藤厩舎に入厩した。「華麗なる一族」の一流馬の多くは3歳戦から活躍したが、ダイイチルビーのデビューは1990年2月、4歳になってからだった。

ハギノトップレディやイットー同様、デビュー戦でダイイチルビーは5馬身差の逃げ切り勝ちを収めた。武豊が騎乗し、単勝は1.2倍の圧倒的な人気だった。これに自信をつけた陣営は母娘2代の桜花賞制覇を目指し、桜花賞トライアルの4歳牝馬特別に登録したが除外になってしまった。やむを得ず条件戦に出走し、再び1.2倍の人気となって、今度は2番手から抜け出して勝ち、2戦2勝で桜花賞に出走登録した。2勝馬の桜花賞出走は抽選となり、これにも落選したため忘れな草賞へ出走した。

重馬場で行われた忘れな草賞で、ダイイチルビーは単枠指定されて1.3倍の大本命となった。桜花賞より長い2000メートルの競走で、ダイイチルビーは中団の4番手を進んで直線抜け出しを図ったが、スローペースで逃げた加用正騎乗のトーワルビーを捕まえきれずに離れた2着に敗れた。

忘れな草賞で賞金を加算できず、オークスへの出走も危ぶまれたため、ダイイチルビーはオークストライアルの4歳牝馬特別に出るため関東に遠征した。当時、関東の場外馬券売場の多くでは関西の競走は(場合によっては重賞ですら)放映されておらず、忘れな草賞の様子も関東では知る術がなかったが、それでもダイイチルビーは本命になった。増沢末夫に乗り替わった(武は同日の京都天皇賞(春)でスーパークリークに騎乗)ダイイチルビーは先行し、最後の直線で先頭に立ったが、最後方から追い込んできた人気薄のキョウエイタップに差され、再び2着に敗れた。

それでも本番のオークスでは、鞍上は武豊に戻り、無敗の桜花賞馬であるアグネスフローラに次ぐ2番人気となった。しかし、スタートで出遅れると、これまでとは違って道中は後方待機策をとったが、見せ場なくエイシンサニーの5着に敗れた。秋にはエリザベス女王杯のトライアルであるローズステークスに出ると、オークス優勝馬のエイシンサニーを抑えて1番人気に支持された。先行策に戻して3番手を進んだが、1番手、2番手の馬がそのまま1、2着となる先行有利の流れであったにもかかわらず、後方から来た馬にもかわされて5着に敗れた。結局、エリザベス女王杯にも出走せず、4歳のシーズンを終えた。

5歳シーズン(1991年)[編集]

前半[編集]

古馬になったダイイチルビーは、河内洋が騎乗して1月の洛陽ステークスで2着のあと、京都牝馬特別を勝って初重賞勝利を遂げ、3月の中山牝馬ステークスで3着のあと、4月の京王杯スプリングカップではバンブーメモリーサクラホクトオーといった牡馬のGI勝馬を相手に勝利した。5月の安田記念では単枠指定のバンブーメモリーに次ぐ2番人気となったが、ダイイチルビーはこれまでしばしばスタートに失敗して出遅れており、これが懸念材料とされた。

16頭で行われた安田記念は、シンボリガルーダが1000メートルを57秒6で通過し、速いペースになった。もともと東京競馬場の1600メートルのコースは、スタートから最初のカーブまで長く直線が続き、ここで先行争いが激しくなることが知られており、前年も同様の展開でオグリキャップがレコード勝ちをしていた。一方、内枠のダイイチルビーは心配されたとおりスタートに失敗して出遅れてしまった。

最終コーナーを曲がって直線に向くと、2連勝中のレオプラザとダイタクヘリオスが先頭に立った。そのすぐ後ろに、バンブーメモリーが一気に追い込んできたが、先頭2頭をかわす勢いだったにもかかわらず、狭いところに入って行き場を失ってしまった。坂を上りきったところでダイタクヘリオスがレオプラザを振り切って逃げ込み体勢に入ると、バンブーメモリーは体勢を立て直して差を縮めてきたが、ほとんど最後方からダイイチルビーが両馬を並ぶまもなく一気に抜きさってゴールした。

この年既に5戦していたダイイチルビーだったが、夏は休まず中京競馬場で行われる高松宮杯で、母ハギノトップレディ、祖母イットーに続いて、親子3代での同一重賞制覇を狙うこととなった。GI優勝の快挙を成し遂げたダイイチルビーは1.4倍の大本命となった。岸滋彦騎乗のトーワルビーが逃げ、ダイイチルビーは3番手で進んだが、先に抜け出した加用正騎乗のダイタクヘリオスをハナ差捕まえきれずに2着に終わる。

後半[編集]

秋になるとダイイチルビーは短距離路線に的を絞り、スワンステークスに1番人気で出走した。2番人気はダイイチルビーのもう1頭のライバルであるケイエスミラクルであった。ケイエスミラクルは、この年デビューして7戦4勝2着2回そのうち2勝はレコード勝ち、という勢いに乗った外国産馬である。レースでは、そのケイエスミラクルが先を行くダイイチルビーをかわして1分20秒6というレコードで優勝、ダイイチルビーは2着に終わった。

続くマイルチャンピオンシップで1.8倍の大本命となった。スタート前に暴れてまたもや出遅れたダイイチルビーは、ケイエスミラクルの追撃は封じたもののダイタクヘリオスには振り切られ、2着だった。

12月のスプリンターズステークスを控えた11月末、スプリンターズステークスの行われる中山競馬場で、4歳牝馬のサクラミライが芝1200メートルの走破タイムの日本記録を更新した。サクラミライはまだ準オープン級の格下馬だったため、獲得賞金の順番で出走の権利が決まるスプリンターズステークスへの出走は不可能だった。過去に稼いだ賞金の額が多ければ最近の実績が全く最低であっても出走できて、サクラミライのように本番直前に力をつけて台頭して来た馬が出走できないのは、短距離チャンピオン決定戦としては出走馬選定の仕組みが不適切であるとの議論が起こったが、結局、出走を自重する馬がいたためサクラミライはどうにか出走できることになった。

ダイタクヘリオスは有馬記念に選ばれて出走を決めたためスプリンターズステークスには出てこなかった。 マイルチャンピオンシップでは3着に敗れたが、スワンステークスを含めて3回レコード勝ちのあるケイエスミラクルが2.2倍の本命になった。前年のスプリンターズステークスで、マイルチャンピオンシップを勝って本命になったパッシングショットが致命的な出遅れをして大敗していたこともあり、ダイイチルビーは出遅れ癖が心配されて2番人気だった。 日本レコードホルダーのサクラミライが逃げ馬であったので、この3頭によって間違いなく日本記録が更新されるだろうとの下馬評で、勝つ馬を予想するというよりは、どのぐらいの記録が出るだろうかと報道された。

珍しく無難なスタートを切ったダイイチルビーは、後方に待機した。トモエリージェントが前半の600メートルを32秒2という破壊的なペースで逃げ、サクラミライは逃げることすらできなかった。特に1ハロンめから2ハロンめ(200メートル地点から400メートル地点まで)のラップは200メートルが10秒1という極めて速いペースであった。

それでも岡部幸雄騎乗のケイエスミラクルはこのペースを好位置で追走しつつ徐々に進出し、最後の直線に入るとラストスパートの態勢に入った。ダイイチルビーはそれよりまだ何馬身か後方だった。最後の坂の下で岡部幸雄がケイエスミラクルに鞭を入れて追い出そうとした瞬間、ケイエスミラクルが大きくバランスを崩した。すぐ後ろまで差を詰めていたダイイチルビーは大きく左へ進路を変えてこれをかわし、先頭に立って後続を離し優勝した。優勝タイムは1分7秒6で、サクラミライのレコードと同タイムだった。なお、サクラミライは15着(完走馬中最下位)に終わった。競走を中止したケイエスミラクルは粉砕骨折を起こしており、予後不良と診断されて安楽死となった。

1991年の中央競馬で、GI競走を2勝したのはこのダイイチルビーとトウカイテイオーだけである。混合競走のGI2勝という成績で、ダイイチルビーは最優秀古牝馬に選ばれ、同時に最優秀スプリンターにも選ばれた。

日本でグレード制が導入されて以降、古馬の混合GIを2勝以上した牝馬はダイイチルビーが初めてだった。

6歳シーズン(1992年)[編集]

ダイイチルビーは、1992年も現役を続行したが、3戦して振るわず引退した。フケ(牝馬の発情のこと)のため競走意欲がなくなった、と報道された。

エピソード[編集]

ライバルの1頭であるダイタクヘリオスは、ハギノカムイオースプリングステークスで対戦したサルノキングの近親にあたり、ダイイチルビーと同様、3歳で頭角を現したものの4歳のクラシック路線で低迷し、5歳になって短距離路線に目標を絞って成功してきた馬である。ダイイチルビーと同い年のダイタクヘリオスの2頭は1991年の短距離路線を席巻し、この2頭がそろって出走した全部で5つの競走のうち4つをどちらかが勝ち、そのうち3つはこの2頭が1、2着を分け合ったのである。

短距離路線という限定された分野での実力上位2頭が毎回接戦となるのは極めて当たり前のことだが、この頃頂点を迎えつつあった競馬ブームの中で、たまたま両馬の名前を馬柱に五十音順で並べると隣に並びやすい(頭二文字が同じ為)こともあり、この2頭は擬人化されて相思相愛の関係にあると言われるようになった。当時人気のあった競馬漫画『馬なり1ハロン劇場』(よしだみほ)もこれを漫画内で取り上げている。

引退後[編集]

競走引退後は繁殖牝馬となり、荻伏牧場へは戻らずに、馬主の辻本春雄によってダイイチ牧場(ノーザンファームに繋養されていた時期あり)に繋養されていたが、2007年4月26日に蹄葉炎のため死亡。おもな産駒にダイイチシガー(1997年サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別2着、同年優駿牝馬3着)がいるが、重賞を勝った仔はいない。なお、ダイイチシガーの仔であるマイネルプロートスが2011年に岩手競馬の重賞・岩鷲賞で優勝している。

血統表[編集]

ダイイチルビー血統テスコボーイ系 / Hyperion 4×5=9.38%) (血統表の出典)[§ 1]
父系 テスコボーイ系
[§ 2]

トウショウボーイ
1973 鹿毛
父の父
* テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
父の母
* ソシアルバターフライ
Social Butterfly
1957 鹿毛
Your Host Alibhai
Boudoir
Wisteria Easton
Blue Cyprus

ハギノトップレディ
1977 黒鹿毛
* サンシー
Sancy
1969 黒鹿毛
Sanctus Fine Top
Sanelta
Wordys Worden
Princesse d'Ys
母の母
イットー
1971 黒鹿毛
*ヴェンチア
Venture
Relic
Rose o'Lynn
ミスマルミチ *ネヴァービート
キユーピツト F-No.7-e
母系(F-No.) 7号族(FN:7-e) [§ 3]
5代内の近親交配 Hyperion4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ ダイイチルビー 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ダイイチルビー 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ ダイイチルビー 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ ダイイチルビー 5代血統表2017年8月28日閲覧。