ダウンフォール作戦

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ダウンフォール作戦
Operation Downfall - Map.jpg
ダウンフォール作戦の全体図
戦争太平洋戦争/第二次世界大戦
年月日1945年11月 (上陸予定日)
場所日本本土および周辺島嶼、海域
結果日本の降伏により中止。
交戦勢力
枢軸国 連合国
指導者・指揮官
大日本帝国の旗 大本営 連合軍総司令部
戦力
30,000,000以上
第1総軍(東日本)
第2総軍(西日本)
第5方面軍(北海道)
関東軍 (満州)
海軍総隊
航空総軍
特設警備隊
国民義勇隊
満州国軍
・稼働可能な陸海軍全兵器
1,500,000以上
戦艦24隻以上
航空母艦60隻以上
駆逐艦450隻以上
・補助艦艇3,500隻以上
航空機6,000機以上
原子爆弾の随時投下
生物化学兵器の常時使用
日本本土の戦い

ダウンフォール作戦(ダウンフォールさくせん、英語: Operation Downfall)は、太平洋戦争時にアメリカ軍イギリス軍フランス軍をはじめとする連合国軍による日本本土上陸計画の作戦名である。

日本が作戦実施前に降伏したために、この計画は中止された。

概要[編集]

ダウンフォール作戦は、1945年11月実施を前提に計画された「オリンピック作戦」と、1946年春に実施を前提に計画された「コロネット作戦」に分かれており、オリンピック作戦では九州を占領し、コロネット作戦では関東平野の占領を目的としていた。仮にこの作戦が実行されていたなら、史上最大の水陸両用作戦となった[1]

ダウンフォールは「破滅、滅亡」を意味し、枢軸国で唯一降伏しない日本に対して大量破壊兵器毒ガスによる無差別攻撃など、文字通り日本国そのものを滅亡させる目的で命名された[要出典]

日本本土上陸作戦[編集]

作戦構想[編集]

アメリカ統合参謀本部は上陸作戦を検討し、1945年2月のヤルタ会談直前に骨子が完成。上陸作戦を計画したアメリカ軍とフランス軍、イギリス軍やオーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍、ブラジル軍メキシコ軍オランダ軍に了承されることになる。

ダウンフォール作戦は次の2つの作戦から構成されている。両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、広島県長崎県に続く原爆投下、及び大規模な化学兵器の使用、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事であった。NBC兵器の無差別投入や、マスタードガスサリン攻撃[2] などの攻撃も検討されていた。

オリンピック作戦[編集]

オリンピック作戦

オリンピック作戦は九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保であった。作戦予定日は「Xデー」と呼称され、1945年11月1日が予定されていた。なお、この日程は日本軍に完全に読まれていたことが明らかとなり、後に機密漏洩を疑う騒動となった(堀栄三著作参照)。日本側は航空機を東北地方へ集結させていたが、アメリカもこれを察知しており、8月9、10日にかけて爆撃を実施した[3]。また大湊空襲釜石艦砲射撃により艦艇や地上の施設も破壊している。

海上部隊は空前の規模であり、アメリカ軍とイギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍カナダ軍南アフリカ軍からなる空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。

事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島屋久島甑列島などの島嶼を、日本上陸5日前に占領することも検討された。これは、沖縄戦の時と同じく、本土上陸海岸の近傍に良好な泊地を確保することが目的である。この泊地は、輸送艦やダメージを受けた艦の休息場所に使われる。

また、九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていた。さらにアメリカ統合参謀本部は「神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻してもほとんど死者を出さずにすむ」と信じ、ナチス・ドイツ崩壊後からアメリカ軍が太平洋で毒ガス戦を展開できるよう、マスコミと協力して世論づくりをしていたことを記録したアメリカ軍の極秘資料がアメリカで報道された。この文書では、日本軍が中華民国内で使用したという事実と、アメリカ白人による黄色人種への人種差別感情が、アメリカ側の罪悪感を軽減したとも指摘されている[2]

上陸部隊はアメリカ第6軍であり、隷下の3個軍団がそれぞれ宮崎大隅半島薩摩半島に上陸することとなっていた。これは日本軍の3倍以上の兵力になると、アメリカ軍では見積もっていた。大隅半島には日本軍の防御施設があったものの、宮崎や薩摩半島は手薄であったということも判断材料となった。

アメリカ軍の動員される兵力は、25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団であり、ヨーロッパ戦線の部隊は予定されていない。上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督に第3艦隊第5艦隊を与えたが、これは太平洋で利用できるすべての艦隊に等しかった(それまで第3艦隊と第5艦隊が同一の作戦に参加することはなかった)。

第3艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。第5艦隊レイモンド・スプルーアンス提督)は、10隻の空母、16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行う予定であった。

イギリス連邦軍は、オーストラリア軍やニュージーランド軍 カナダ軍 南アフリカ軍のみならず、イギリス領インド帝国ビルマに展開するインド人兵士まで動員することを計画しており、同じく地上兵力だけで万単位の兵力が動員される見込みであった。またイギリス海軍もオーストラリア海軍ニュージーランド海軍カナダ海軍南アフリカ海軍を含めて、インド洋から南太平洋、極東方面に展開していた巡洋艦や空母からなる艦隊を派遣することとなった。

ドイツが1945年5月に降伏したこともあり、1945年の中期までにアメリカ軍、イギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、南アフリカ軍を中心とした連合軍は1,200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、イギリス海軍は10隻の空母を用意する予定であり、計1,914機の戦闘機が運用可能で、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。

航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州や朝鮮半島四国への侵攻は行わないことになっていた。この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、72万人の兵員と3,000機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた。

欺瞞作戦[編集]

オリンピック作戦を支援するため、兵力誘導する目的で「パステル作戦 (Pastel)」が計画されていた。パステル作戦は、連合国軍の作戦目標が日本が占領下に置いていた中華民国上海や高知県に上陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。

また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日に、アメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行うことや、イギリス本土の爆撃機軍団やイギリス領インド帝国から引き抜かれたイギリス空軍アブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として沖縄から出撃する予定であった。

一方中国軍も10月の後半に中国大陸での全面攻勢を計画していた

コロネット作戦[編集]

オリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する作戦である。上陸予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は湘南海岸相模川沿いを中心に北進し、現相模原市町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。湘南海岸には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。

Yデーの3ヶ月前からイギリス軍とアメリカ軍による艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサイルや、対独戦に投入されて間もない「グロスター ミーティア」や、この頃には実戦配備が進んでいると予想された「ロッキードP-80シューティングスター」などのジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていた。1946年3月に関東平野の南東と南西から上陸する連合軍は、古典的な挟撃作戦によって約10日で東京を包囲する。計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機という空前の規模であった[4]

両軍共に当作戦に備えて数々の新兵器を準備しており、イギリス軍はすでに対独戦で運用されていた最新鋭のジェット戦闘機である「グロスター ミーティア」を、アメリカ軍は「F8Fベアキャット」やジェット戦闘機「P-80シューティングスター」、重戦車「M26パーシング」を生産し、日本側もジェット戦闘機「橘花改」、戦闘機「烈風」、試作局地戦闘機「震電」、ロケット戦闘機「秋水」そして「五式中戦車」などの量産化を急いだ。

日本側の対応[編集]

前述の通り、日本側は連合国の上陸作戦を把握しており、これを迎え討つための作戦を立てていくこととなる。大本営の提唱する「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入するとされていた。

1945年初期、大本営本土決戦を想定して、さまざまな体制変更を試みている。その中でもっとも大きな変更は、本土防衛を主眼にして軍の命令系統を2つに分割したことである。東日本第一総軍西日本第二総軍に振り分け、それぞれの司令部を市谷広島においた。これは、それぞれ連合国軍の2つの作戦にも対応している。なお、第二総軍司令部は広島市への原子爆弾投下で壊滅したが、指揮下にある九州と四国の軍は健在で、戦闘に支障はなかった。

日本側では連合国軍の南九州・南四国侵攻の時期・規模をほぼ正確に予想していた。第二総軍第十六方面軍の予想では11月1日に上陸を開始、上陸地点は九州では宮崎海岸・志布志湾・吹上浜を挙げ、これらに基づいて宮崎・大隅半島・屋久島・種子島を担当する第五十七軍に加え、第四十軍を新設し吹上浜付近を担当させる事とした。四国では第五十五軍を新設した。

更にこれらの地域では陣地の新設が急ピッチで進められたが、九州では資材不足に加えてシラス台地の掘削が難航し、終戦時でも60〜80%程度の完成率であったといわれる[5]昭和天皇御前会議において、本土決戦を諦めポツダム宣言受諾を支持する理由として、九十九里浜の陣地構築も出来てないことを指摘し、従来の例からしても計画に則った防衛体制は望めないであろうとの見通しを示唆している。

作戦中止[編集]

論争[編集]

この作戦計画については、統合参謀本部内で意見の対立があった。統合参謀本部議長のレーヒ元帥は、「すでに壊滅している日本に対し作戦を遂行する必要なし」として中止を提案。海軍作戦本部長キング元帥も、「地上兵力投入による本土侵攻より海上封鎖が有効」と主張。陸軍航空隊総司令官アーノルド元帥も「本土への戦略爆撃と海上封鎖が有効」と言う慎重論が出た。彼らがこのような主張をしたのは、日本軍との各諸島での戦闘、とりわけ硫黄島や沖縄戦でのアメリカ軍やイギリス軍の損害の大きさに、本土戦での犠牲者の数を懸念したためである。

それに対し「本土侵攻による大戦の早期終結を」と主張するアメリカ陸軍マッカーサー元帥や、陸軍参謀総長マーシャル元帥と太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥がこの計画を支持した。最終的に作戦は承認され、マッカーサーに対して作戦準備指令が下っている。

作戦中止決定[編集]

知日派のアメリカ合衆国国務次官ジョセフ・グルーは、双方に甚大な損害をもたらすダウンフォール作戦には反対であり、「天皇制の容認を含む処遇を示せば、日本人は武器を置く」とトルーマンの説得を試みているが、トルーマンは一旦は軍の意見を取り上げて、オリンピック作戦を承認している[6]。グルーの意見は陸軍長官ヘンリー・スティムソンに引き継がれた。スティムソンは何度も日本を訪れたことがあり、そのときの記憶から「(日本本土は)硫黄島や沖縄で見られた最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」との感想を抱いていたため、1945年7月にポツダム会談に向けて準備中のトルーマンに「我々が実際に侵攻を始めた場合は、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを覚悟しなければならない。我々はドイツの場合より重大な損失を被ることは間違いないし、一層徹底的に日本を破壊する必要がある」として「日本の現皇室の下での合法的な君主制は排斥しない」という言葉を盛り込んだ「実質的に無条件降伏に等しい申し出を行い」「降伏のための一定の機会を与えてはどうか」と進言している[7]

この頃になると、オリンピック計画作成時の日本軍戦力分析は過小評価であったことが判明しており[8]、損害の見積が上方修正されていた。(#被害予想) 特にドイツ軍との戦いの対比が論じられ、スティムソンの「ドイツ本土よりも戦車の運用が困難」「ドイツとの戦いよりも大損害を覚悟する必要がある」という意見の他にも[9]、ヨーロッパ戦線で連合軍と戦ったドイツ軍は、部隊が崩壊すると大量の兵士が降伏し残りは速やかに敗走するため、連合軍は先を争って急進撃し大勝利を得たのに対し、太平洋戦線で連合軍と戦った日本軍は、退却するにしてもじわじわと退き、さらにドイツ兵とは異なり日本兵はほとんど降伏することがなかったので、連合軍は延々と続く戦いを強いられることとなっていた[10]。そのため、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域の3.5倍という高い水準となっていた[注釈 1][11]。これらの大きな損害予想はスティムソンら日本本土侵攻慎重派の発言力を後押しすることとなった。

やがてポツダムで会議に臨んだトルーマンの元にトリニティ実験の成功の報がもたらされた。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥ら日本本土侵攻推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術使用を考えていたが、スティムソンら慎重派は日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱した[12]ポツダム宣言草案には、スティムソンらが提唱した「天皇制の保障」は明記されていなかったが、トルーマンは外交チャンネルを通じて口頭では天皇制の保障を匂わすことをスティムソンに約束、慎重派の進言通り、降伏を促す手段として原爆の使用を決定した[13]。日本政府がポツダム宣言をいったん“黙殺”したため、8月6日には広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下が行われ、またソ連の対日参戦もあって、トルーマンらの目論見通り、日本がポツダム宣言を受諾したため、ダウンフォール作戦は中止となった。


被害予想[編集]

アメリカ陸軍[編集]

1945年6月14日、レーヒはマッカーサーに、オリンピック作戦の上陸90日目までの連合軍の人的損失の試算を要求した。これは、トルーマンが「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えているのを知ったレーヒが、「大統領は沖縄での損失にひどく心を痛めておられる」と考えて「貴官が立てている推定に基づき、オリンピックでの戦闘で上陸時から最大90日までに発生する推定死傷者数を回答されたし」とマッカーサーに要求したものであった[14]。 マッカーサーは、アメリカ軍の情報機関から、日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ており、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提での試算であった[15]

経過日 戦闘死傷者数 非戦闘死傷者数
上陸日から30日 58,000名 4,200名
上陸日から60日 27,150名 4,200名
上陸日から90日 10,170名 4,200名
合計 95,320名 12,600名

しかし、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥がこの推定値に懸念を示したことから、マッカーサーはこの推定を撤回した。あまりに大きい推定は、沖縄での損害で日本本土進攻作戦に難色を示しているトルーマンの態度をさらに硬化させかねないと理解したマッカーサーは、なるべく楽観的な推定を行うこととした。そこでマッカーサーは「これまで提案されてきたほかのどの作戦と比べても、今回の作戦では大きな損失が生じる可能性は低い」とし、一転してルソン島の戦いにおける実績を参考に、上陸日から30日で死傷者31,000名とする報告書を作成した[16]

マッカーサーは同時に「経験に基づいた推測」として、ダウンフォール作戦全体の損害推定も行ない、トルーマンに報告書を提出した[17]

戦死者・行方不明者 戦傷者 合計
南九州と関東平野を攻略する場合 43,500名 150,000名 193,500名
九州全域を攻略した場合 27,500名 105,000名 132,500名
九州全域と関東平野を攻略した場合 50,000名 170,000名 220,000名

※非戦闘での死傷者約30,000名を加え、全死傷者25万人

6月18日にトルーマンがホワイトハウスにレーヒ、マーシャル、キング、陸軍長官ヘンリー・スティムソンといった戦争指導者を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推定が話し合われた。ダウンフォール作戦遂行派はトルーマンの懸念を和らげるべく、なるべく楽観的な指標を取り上げた。レイテ島の戦い以降、沖縄戦までのアメリカ軍と日本軍のキルレシオを一覧表を作成し、マッカーサーが指揮したレイテ島の戦いやルソン島の戦いでは、補給が途絶した日本軍に大量の餓死者、病死者が出たことによって、キルレシオはアメリカ軍が圧倒していたが、その数値を基にアメリカ軍の死傷者はあまり多くはならないと主張した[18]

しかし、日本本土に近づくにつれて日本軍の抵抗は激烈となり、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域の3.5倍という高い水準となっており[19]、沖縄戦では投入兵力の39%が死傷するという大損害を被っていた。レーヒはその沖縄戦での実績を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万人~76万人の35%が死傷するとすると推定、マッカーサーのルソン島での実績を考えればもっと低下すると反論する者もあったが、会議に出席したメンバーの多くはレーヒの推定である、投入兵力の35%約25万人以上がオリンピック作戦だけで死傷するという印象を持ち、トルーマンもこの25万人という推定値をよく引用するようになった[20]

その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、6月に行った推定は、日本軍の戦力を過小評価していたということが明らかになった[8]。九州にはマッカーサーらの推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強されており、11月までには連合軍のオリンピック作戦投入兵力に匹敵する68万名に達するものと分析された。この分析に基づき、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、マーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった[21]。軍人以外でも ハーバート・フーバー元大統領が「50万人から100万人」の人的損害が生じるという推定を示して、トルーマンにダウンフォール作戦の撤回と講和による戦争終結を求めている[22]

さらに、トルーマンがポツダム会談に向かう前に、アメリカ統合参謀本部によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが[23]、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者ウィリアム・ショックレー(のちにノーベル物理学賞受賞)にも意見を求めたところ、下記の回答があっている。

日本に関する歴史的事例において、国家の行動が、実際の戦闘中の軍の行動と常に一致していたことが明らかになれば、敗戦時の日本人の死傷者数は、ドイツ人の死傷者数を上回ることになる。
言い換えれば、我々は少なくとも500万から1,000万人の日本人を殺さなければならないでしょう。
その結果、我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう[24]

この推定値はスティムソンやマーシャルにも伝えられて、のちの戦争遂行方針の決定に大きな影響を及ぼした[25]。7月22日、ポツダムでマーシャルからこれらの推定値の報告を受けたトルーマンは以下の発言を行っている。

日本の関東平野、その他の場所に上陸すれば、どれほどの人命が失われるだろうか、と私はマーシャルに聞いた。
彼の意見では、そのような侵攻では、アメリカ軍側だけでも少なくとも25万人が死亡し、場合によっては100万人に達する可能性もあり、敵にもほぼ同様の被害がでるかも知れないということだった。
その場のほかの陸・海軍の軍人もそれに同意した[26]

以上のようにアメリカ軍の人的損害推定は、当初のマッカーサーらによる楽観論から一転してかなり悲観的となっていった。マッカーサー自身も「ダウンフォール作戦では、アメリカ軍だけで100万人の死傷者が出るだろう」と認識を改めているが[27]、実際に九州に配備されていた戦力は、正規の軍だけで14個師団の兵員約90万名とアメリカ軍の分析をさらに上回っており、これはオリンピック作戦で九州攻略に投入される連合軍師団と同じ師団数で、兵力数は日本軍が上回っていた[15]

アメリカ軍はダウンフォール作戦での大損害を想定し、パープルハート章を大量に製造しており、第二次世界大戦中に製造した同勲章は合計で150万個に達した。結局、ダウンフォール作戦は実施されず、終戦時には495,000個の同勲章が残ることになったが、その後の朝鮮戦争ベトナム戦争などでも使い切ることはできなかった[28]。この在庫は2003年時点でも総数12万個程あり、底をついたのは2010年頃である。

アメリカ陸軍航空隊[編集]

アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃隊は、戦略爆撃機B-29により日本本土への爆撃と海上封鎖を行ない日本軍の戦争遂行能力を破壊してきたこともあり、総司令官のアーノルドは、爆撃と海上封鎖のみで日本を降伏に追い込めると考えていたが、積み重なるB-29の損失に「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という考えを抱くようになり[29]、1945年6月18日のホワイトハウスで開催された戦略会議で、自分が入院中のために代理出席させた副司令官アイラ・エーカー中将に以下の見解を代読させて、オリンピック作戦を了承している[30]

日本に対して航空戦力のみを主張する者はきわめて重大な事実を見過ごしています。航空機のみが敵と対決するときは、航空兵の死傷数は常に激増し地上軍が投入されるまで死傷者数は決して低下しないという事実です。
現在の航空兵の死傷率は1度の任務ごとにつきおよそ2%であり、1月あたりでは30%です。
時期を逸すれば、敵が有利になるだけです。

アメリカ海軍[編集]

フィリピンと沖縄で主に日本軍の特攻によって多数の艦船を失っていたアメリカ海軍のレーヒやニミッツといった高官は、ダウンフォール作戦の損害推定については悲観的となっていた。ニミッツは海軍作戦本部長のキングに対して「日本を侵攻する場合は、我々は甚大な被害を受け入れる覚悟が必要である」「食料状態が悪く、ろくに補給も受けていない日本軍を我々の圧倒的な空と海からの攻撃で打ちのめしたが、その成功も、敵の物資がより豊富な日本本土で直面する抵抗を推し量る基準としては使えない」と警鐘を鳴らしている[31]

アメリカ軍は戦後に、ダウンフォール作戦で出撃してきた日本軍の特攻機を5,350機と認定して、以下の様に分析している。

戦争全期を通じての平均成功率を達成すれば、特攻機は約90隻を撃沈し、さらに900隻に損傷を与えたであろう。
ろくな訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が艦船にとって非常に危険なことが、沖縄で立証された。
終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対して、日本軍が特攻機で重大な打撃を与える能力があったことは明白である[32]
連合軍の空軍がカミカゼ機を空中から一掃し、少なくとも連合軍の橋頭保や、沖合の艦船に近づかないようにできたかどうかの質問には、永遠に答えはでないだろう。
連合軍空軍は最大規模の上陸支援作戦を計画していたが、連合軍空軍の仕事はやさしいものではなかった。
上陸作戦時の連合軍艦船が、連合軍空軍が計画した多様な効果的対策にもかかわらず、大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない[33]

参加兵力[編集]

全て作戦開始前の予定であり、状況によっては追加・削減などもありうる。

オリンピック作戦[編集]

アメリカ[編集]

  • 総司令官ダグラス・マッカーサー元帥
陸軍[編集]
ウォルター・クルーガー大将(右)とハリー・シュミット中将(左)
  • 予備戦力及び陽動作戦
  • 兵力[34]
    • 第6軍
      • 陸軍兵 252,150名
      • 海兵隊員 87,640名
      • 戦務要員 40,377名
      • 支援要員 177,983名
      • 海軍要員 15,772名(揚陸分遣隊員や通信隊員などであり、海軍の艦船水兵や艦載機搭乗員とは別)
    • マッカーサー直轄(ヨーロッパ戦線より移動)
      • 陸上部隊(工兵が主体)32,900名
      • 戦務要員 75,900名
      • 陸軍航空隊要員 48,000名
海軍[編集]
陸軍航空隊[編集]

イギリス[編集]

  • 英国太平洋艦隊英語版(司令官ブルース・フレーザー大将・バーナード・ローリングス英語版中将)
    • 正規空母(艦載機51機~81機)6隻
    • 軽空母(艦載機39機~42機搭載)4隻
    • 航空機補修空母英語版2隻
    • 護衛空母(艦載機18機~30機搭載)9隻
    • 戦艦4隻
    • 巡洋艦10隻
    • 駆逐艦35隻
  • 戦略爆撃隊タイガーフォース英語版 アブロ・ランカスター爆撃機580機

コロネット作戦[編集]

アメリカ[編集]

  • 総司令官ダグラス・マッカーサー元帥
陸軍[編集]
コートニー・ホッジス大将
ロバート・アイケルバーガー中将
  • 兵力[35][36]
    • 上陸部隊兵員 575,000名
    • 支援要員を含めた合計 1,171,646名 
    • 車両195,000輌
    • 航空機6,000機以上

陸軍再配備計画ではヨーロッパ戦線から部隊を移動させて、後続部隊や予備部隊を編成し、順次日本本土に投入する予定であった[37]

  • 後続部隊
  • 兵力[38]
    • ヨーロッパから直接太平洋に移動する兵力 395,900名
    • ヨーロッパからアメリカ本土を経由して太平洋に移動する兵力 408,200名

イギリス[編集]

  • 英連邦陸上部隊
    • 英連邦第10軍 (司令官サー・チャールズ・F・ナイトリー英語版中将)
      • British 3rd Infantry Division2.svgイギリス第3歩兵師団英語版
      • 6 Canadian Infantry Division patch.svgカナダ第6歩兵師団英語版
      • 10th Div 2nd AIF.png オーストラリア第10歩兵師団英語版

イギリス軍は上陸後40日以降にさらに2個師団を追加派遣する予定であった[39]

関連作品[編集]

小説[編集]

  • 『日本本土決戦』(檜山良昭/光文社) - 日本が降伏せず、本土侵攻作戦が実行されていたらという想定で書かれた架空戦記
  • 『地には平和を』(小松左京) - 昭和20年10月末、学徒で編成された本土防衛特別隊の少年兵を描く短編SF小説。

ボードゲーム[編集]

  • Ty Bomba, "DownFall: If the US Invaded Japan, 1945", Strategy & Tactics No.230, Decision Games, 2005
  • Christopher Cummins, Jim Dunnigan, Redmond A. Simonsen, Joe Youst, "Operations Olympic & Coronet", World at War No.27, Decision Games, 2012
  • ふゅーらー中村 ,『本土決戦1945 ~オリンピック作戦からコロネット作戦へ~』,ゲームジャーナル 60号, シミュレーションジャーナル,2016[40]
  • Donald Booth "Race to Tokyo",Command Magazine No.102,XTR社;『日本本土決戦』,Drum Games(中国), 2019 - 翻訳ルール

テレビゲーム[編集]

資料[編集]

  • 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年。ISBN 4769807686。
  • 森山康平、太平洋戦争研究会(編)『図説 特攻 太平洋戦争の戦場』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2003年。ISBN 4309760341。
  • トーマス・アレン、ノーマン・ボーマー『日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌』栗山洋児(訳)、光人社、1995年。ISBN 4769807236。
  • 『幻の本土決戦 房総半島の防衛』(千葉日報社) - コロネット作戦実行―米軍上陸の場合は最前線になる事が予想された、房総半島東岸の防衛体制の跡をルポ。
  • ウィリアム・マンチェスター; 鈴木主税, 高山圭 訳 『ダグラス・マッカーサー 上』 河出書房新社、1985年。ISBN 4309221157。 
  • ウィリアム・マンチェスター; 鈴木主税, 高山圭 訳 『ダグラス・マッカーサー 下』 河出書房新社、1985年。ISBN 4309221165。 
  • デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』上、時事通信社、1982a。ASIN B000J7NKMO
  • デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982b。ASIN B000J7NKMO
  • 『決定版 太平洋戦争⑧「一億総特攻」〜「本土決戦」への道 (歴史群像シリーズ) 完本・太平洋戦争』学習研究社 編、学研パブリッシング、2010年。ISBN 978-4056060577。
  • 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』講談社〈講談社学術文庫〉、2005年。ISBN 978-4061597075。
  • Giangreco, D. M. (1997). “Casualty Projections for the U.S. Invasions of Japan, 1945-1946: Planning and Policy Implications”. Journal of Military History 61 (3). doi:10.2307/2954035. ISSN 0899-3718. JSTOR 2954035. 

注釈[編集]

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  1. ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名

脚注[編集]

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  1. ^ Richard B. Frank (1999). Downfall: The End of the Imperial Japanese Empire. New York: Random House. p. 340 
  2. ^ a b SAPIO2011年12月28日号 第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備[リンク切れ]
  3. ^ 米軍:日本軍の偽装見破り東北の軍事施設を空襲 - 毎日新聞
  4. ^ 『相模湾上陸作戦 - 第二次大戦終結への道』大西比呂志・栗田尚弥・小風秀雄(有隣新書 ISBN 978-4896601329)
  5. ^ 『太平洋戦争 日本の敗因 (6) 外交なき戦争の終末』NHK取材班編(角川文庫 ISBN 978-4041954171)
  6. ^ 五百旗頭 2005, p. 131.
  7. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 378
  8. ^ a b ウォーナー 1982b, p. 235.
  9. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 378
  10. ^ ハルバースタム 2012a, kindle版, 上巻, 位置No.7006.
  11. ^ : No bomb No end P.374-375 2021年5月4日閲覧
  12. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 381
  13. ^ 五百旗頭 2005, p. 149.
  14. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 286
  15. ^ a b ウォーナー 1982b, p. 253.
  16. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 288
  17. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 290
  18. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 296
  19. ^ National Interest: The 5 Most Precarious U.S. Allies of All Time 2021年5月9日閲覧
  20. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 301
  21. ^ The Biggest Decision: Why We Had To Drop The Atomic Bomb”. American Heritage (1995年6月1日). 2021年4月22日閲覧。
  22. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 305.
  23. ^ ウォーナー 1982b, p. 237.
  24. ^ Giangreco 1995, p. 581.
  25. ^ Biography of William Shockley, American Physicist and Inventor”. ThoughtCo (2020年4月24日). 2021年4月22日閲覧。
  26. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 376.
  27. ^ マンチェスター 1985, p. 84, 下巻.
  28. ^ Half A Million Purple Hearts”. American Heritage (2000年12月16日). 2021年4月22日閲覧。
  29. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 217.
  30. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 300
  31. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 294
  32. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 109.
  33. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 201.
  34. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 423.
  35. ^ US Air Force: The Invasion that Didn't Happen 2021年5月4日閲覧
  36. ^ 太平洋戦争⑧ 2010, p. 65.
  37. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 427.
  38. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 429.
  39. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 428.
  40. ^ 本作の英語版 "Avenge Pearl Harbor",Special Ops #8,Multi-Man Pub,2018

関連項目[編集]