ダブリン大主教

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主教座がおかれているクライストチャーチ大聖堂

ダブリン大主教 (Archbishop of Dublin) は、アイルランド国教会ダブリンおよびグレンダーロッホ連合主教区英語版を統括する上級聖職者の称号である。宗教改革以降、アイルランドはアイルランド国教会の主教区とカトリック教会の司教区が重なっているが、カトリックにも似たような役割であるダブリン大司教があり、ダブリン大司教区英語版の長を務めている。また、双方ともアイルランド首座主教英語版カトリックでは首座司教あるいは首座大司教の訳語を用いる)でもある。

管轄[編集]

ダブリン大主教はダブリンおよびグレンダーロッホ主教区の長としての役割を担っており、主教区に存在する95小教区の長である。また、ダブリン大主教管区の長として南部の5つの主教区(キャセルおよびオソリ主教区、コーク、クロインおよびロス主教区、リムリックおよびキラルー主教区、ミーズおよびキルデア主教区と自身が主教を勤めるダブリンおよびグレンダーロッホ主教区)を統べている。

ダブリン大主教と並立してアーマー大主教もアイルランドの首座主教の地位にあるが、より歴史の古いアーマー大主教は「全アイルランド首座主教英語版」と称し、ダブリンよりもやや上位の格式とされている(アイルランド国教会#構造を参照)。カトリックにおいても同様である。

内容、および役割についてはアイルランド首座主教も参照。

宗教改革以前[編集]

司教区以前[編集]

グレンダーロッホのケヴィン修道院跡

ダブリン一帯は司教区がおかれる前からキリスト教が普及しており、修道院の痕跡や記録はフィングラス英語版グラスネヴィン英語版グレンダーロッホ英語版、キルナメイナフ、ソードズ、タラ英語版やそのほかに残っており、それらは古い時代における信仰と、彼らの日常に教会の時間が入り込んでいたことを今に伝えている。それらのいくつかは「教会の先駆(head churches)」として機能していたが、それらすべてで最も権力があったのはグレンダーロッホであった。

初期のアイルランド教会の基礎は修道院であり、大きなコミュニティーの大修道院長(Abbot)に大きな権限が与えられていた。それらは現代の感覚では教区を組織しない司教といったところであり、大修道院長や司教の組織はしばしば一人だけで構成されていた。なお、初期の「ダブリン司教」について、中には633年までさかのぼる説(ジェームズ・ウェア英語版の『Antiquities of Ireland』)もあるが、ダブリン司教区自体は、一般的には後述するように1038年におかれたと見られている上、アイルランドに教区が組織され始めたと考えられる時点では、現在のダブリン司教区のすべておよびその他はグレンダーロッホ司教区に含まれていた。

ヴァイキング司教区と初期の司教[編集]

ダブリンは9世紀頃からヴァイキングがダブリン王国を築いていたが、11世紀、クリスチャンであったシトリック・シルケンベアード英語版は彼ら独自の司教を得ようとし、1028年にはローマを訪れている。彼は候補者としてドナート(Donat、もしくはドナー、ドナトゥスと呼ばれる人物)を選び1038年にカンタベリーにおいて聖別[1]を行わせた。そして新しく誕生したこの上級聖職者は市壁に守られた小さな領域をダブリン司教区としてその運営をはじめ、亡くなる1074年までその指揮を行った。ダブリン司教はカンタベリー大司教に従い、アイルランド教会の会議には参加しなかった。また、シトリックはクライストチャーチ大聖堂を1038年に建設し、バルドイル英語版ラセニー英語版ポートレーン英語版の土地を与えた。[2]

2人目のダブリン司教はパトリック(Gilla Pátraicとも。1074-84)という、ロンドンの聖ポール教会で聖別された人物であった。続いてカンタベリーで聖別を受けたドナート・オハイングリ(Donat O'Haingly. Donngus Ua hAingliu. 1085-1095)、ついで彼の甥でありウィンチェスターの聖アンセルム教会で聖別を受けたサミュエル・オハイングリ(Samuel O'Haingly. Samuel Ua hAingliuとも。1096-1121)がダブリン司教になった。

1111年、リムリック司教英語版ギルバート(Gillebertとも)によるラスブレアセイルの教会会議英語版において、アイルランドの司教区は24に固定することが決定したが、この数にはダブリンは含まれていなかった。ヴァイキング司教が続いていることを除けばグレンダーロッホ司教区の中にあること、いまだカンタベリーに付随していることなどが言及されたという。1121年からは、5番目の、そして最後のダブリン司教であるグレゴリー(Gréneとも)が司教となった。彼はカンタベリー大司教ラルフ英語版に聖別された人物である。

1152年のアイルランド教会再編[編集]

1151年、教皇エウゲニウス3世パパロニ枢機卿英語版に対し、アイルランドに赴き4つの大教区を設立する許可を出した。そして1152年のケルズにおける総会においてアーマー、ダブリン、キャセル、そしてツアムという4つの大司教管区が作られた。

1214年にツアム大司教英語版によって作られた文書によれば枢機卿はダブリン(これは当時、市壁の中だけを監督していた)を基礎とするものとグレンダーロッホ、双方の司教を見出したときの動向として「彼は同じ司教区で、もうひとつの山の上にある教会を見つけた。それはさらにグレンダーロッホという都市の名前を持ち、そして独自の司教区(chorepiscopus)を持っていた。しかし、彼はパリウム(大司教用の肩衣)を最も良い都市であり、かつ司教区(グレンダーロッホ)と双方の都市は分けられているべきであると認められていたダブリンに届けた。そしてそのためにダブリンは大教区にならなければならない。」とある。ダブリン北郡(North County Dublin)の一部、フィンガル英語版として知られる地域はグレンダーロッホ司教区からダブリン市に移管された。新たな大司教区は40の、古い修道院に基づく管区になっている小教区を抱えていた。また、カンタベリーを筆頭とするイングランド教会にすべてを依存していた状態も、終わりを告げた。

初期の大司教[編集]

既存のダブリン司教であったグレゴリーは最初の大司教に昇格し、キルデア司教、リーリン司教、フェルンズ司教、そしてグレンダーロッホ司教は彼に報告をしていた。2人目の大司教はローレンス・オトゥール英語版で、先のグレンダーロッホ大修道院長であり、以前にグレンダーロッホ司教に選ばれていたが辞退していた。彼が職務についている間に、大陸から宗教的な命令がアイルランドに送られたが、その傾向の一部としてローレンスはクライストチャーチ大聖堂にアルエーズ会則(en:Arrouaise聖アウグスチノ修道会の会則を改めたもの)によって統治される司教のコミュニティーを設立した。

12世紀になるとアイルランドからヴァイキング勢力は消え、代わってイングランドがアイルランドに影響力を持つようになる(ノルマン人のアイルランド侵攻)。アイルランドの政治的な状況は入植を始めたノルマン人、そしてイングランドの圧力によって変化したが、アイルランド教会も同様に変化していった。ローレンスの後継はノルマン人であったが、宗教改革のときにいたるまで大司教は、1484年から1511年までの大司教ウォルター・フィッツシモン(Walter Fitzsimon)一人がアングロ・アイリッシュ(アイルランドに入植したイングランド人)であった以外は全員がイングランド人であった。高い地位にある教会の団体は大きな政治的影響力を持ち、実際に多くのダブリン大司教はイングランドの王威のために市民権限を行使していた。マグナ・カルタにおいても当時の大司教ロンドンのヘンリ英語版は連署人として他のイングランド人司教とともに名を連ねている。[3]

1185年、教皇はグレンダーロッホ司教区とダブリン司教区統合という嘆願書の願いを聞き入れ、これはグレンダーロッホ司教ウィリアム・ピロが死去した1216年にインノケンティウス3世の許可の下で行われた。今日でもこの2つの司教区は統合されたままである。

大学計画[編集]

1311年ダブリン大司教レーチェは教皇クレメンス5世からの教皇勅書においてダブリンに大学を設立する許可を得た。1320年にこの計画は完成したが、大学の規則の確認は教皇ヨハネス22世とレーチェの次のダブリン大司教であるアレクサンダー英語版が行った。規則においては聖パトリック大聖堂とクライストチャーチ大聖堂双方の聖堂参事会(Chapter)について言及されており、ある程度権限を与えられていた。その狙いは前者で講義を行うためであったと見られている。

当時の聖パトリック大聖堂の首席司祭(Dean)であるウィリアム・ロッドヤードは大学の初代学長に選ばれ、そして1358年、イングランド王エドワード3世は学生に保護を与える特許状を発布した。1364年には神学講師(Divinity Lecture)は寄付を受け、さらに1496年、教区会議は大学の講師たちに俸給を与えた。

大学はヘンリー8世の下での大聖堂組織の解散とともに終わりを告げた。これには大主教のジョージ・ブラウンが存続を試みており、その後の大主教アダム・ロフタスも(彼がダブリン大学トリニティー・カレッジの初代学長になるまでは)当初これを支持していた。後には、聖パトリック大聖堂の首席司祭であったジョナサン・スウィフトは聖パトリック大聖堂の聖堂参事会がある程度権限を保持していたと信じていたと見られている。[4]

ダブリン大司教の一覧[編集]

ダブリン大司教およびアイルランド首座司教の一覧

  • 1152-1162 グレゴリー
  • 1162-1180 ロレンス・オトゥール
  • 1181-1212 ジョン・カミン(クミン。 John Comyn or Cumin)
  • 1213-1228 ロンドンのヘンリー英語版(Henry de Loundres)
  • 1230-1255 ルーク

管理していた大司教区の協会の増加したこと、そして多くの役人の重要な世俗的活動のために、アイルランド人は独自の司教を探し、そして受け入れ、グレンダーロッホ司教区はすでに合併でなくなっているにもかかわらずグレンダーロッホ司教として任命した。少なくとも6人に対してそのような指名がなされている。

  • 1256-1271 サンドフォードのファルク英語版(John de Sandford)
  • 1279-1284 ダーリントンのジョン(John de Derlington)
  • 1286-1294 サンドフォードのジョン英語版(John de Sandford)ドミニコ会修道士(OP)

チャドワースのトマス(Thomas de Chadworth)は選ばれたものの1295年に聖別が行われず、また1299年に行われた可能性はある。

  • 1296-1298 ホッサムのウィリアム(William of Hotham)ドミニコ会修道士(OP)
  • 1299-1306 フェリングスのリチャード(Richard de Ferings)

ハーヴァリングスのリチャード(Richard de Haverings)は1307年3月に大司教に選ばれたが、聖別が行われることはなく1310年に辞任した。

  • 1311-1313 レーチェのジョン英語版(John de Leche)
  • 1317-1349 ビックノアのアレクサンダー英語版(Alexander de Bicknor)
  • 1349-1362 セントポールのジョン(John de St Paul)
  • 1363-1375 トマス・マイノット(Thomas Minot)
  • 1375-1390 ロバート・ウィキフォード(Robert Wikeford)
  • 1390-1395 ロバート・ワルドバイ英語版(Robert Waldeby)聖アウグスチノ修道会士(OSA)
  • 1395-1397 リチャード・ノーサリス(Richard Northalis)、カルメル会修道士
  • 1397-1417 トマス・クランレー(Thomas Cranley)
  • 1417-1449 リチャード・タルボット(Richard Talbot)
  • 1449-1471 マイケル・トレグリー英語版(Michael Tregury)
  • 1472-1484 ジョン・ウォルトン(John Walton)
  • 1484-1511 ウォルター・フィッツシモン(Walter Fitzsimon)
  • 1512-1521 ウィリアム・ロックビー(William Rokeby)
  • 1523-1528 ヒュー・インジ(Hugh Inge)ドミニコ会修道士(OP)
  • 1528-1534 ジョン・アレン英語版(John Alen)

宗教改革以降[編集]

アングリカニズムへの合流[編集]

ジョン・アレンの死後、ヘンリー8世はダブリンの大聖堂参事会に圧力をかけ、1536年1月に彼が選んだ大主教であるジョージ・ブラウンを選出させた。彼はカンタベリー大司教トマス・クランマーによってランベスにて聖別が行われていたものの、教皇には一切認められていなかった。しかし彼はアイルランド継承教会を始めることになり、これは現在アイルランドで2番目の信者を持つアイルランド国教会の始まりであった。

カトリックの信奉者であったメアリー1世の時代、イングランド国内においても国教会は抑圧され、多くの聖公会系聖職者が大陸追放や処刑にあった。ダブリン大主教のジョージ・ブラウンも同じく地位を追われ、その後継にはヒュー・カーウェンがつくことになる。しかしメアリーの治世は短命に終わり、中道的なエリザベス1世の治世が始まるとヒューは自身がプロテスタントであることを宣言しその地位を保守した(ただしこのためヒューはアーマー大主教らから非難を浴び、1567年に大主教の地位を退いている)。なお、彼の代にアイルランド国教会は正式に国教の地位についている。

教区再編と国教廃止以降[編集]

1833年からアイルランド国教会は中世以来の教区を再編した。24あった主教区は統合が行われ12に減らすことが決定し、また大主教管区についても、いままで4つあった大主教管区が2つに統合されることとなる。大主教であったキャセルとツアムは廃止され、キャセル大主教管区は1838年にダブリン大主教管区に吸収される形となって現在のアイルランド南部5教区を統括する南部大教区(ダブリンおよびキャセル連合大主教管区)が完成した。[5]また主教区についても、1846年には新たにキルデア主教区と連合した(1976年には再び分裂して、キルデア主教区はミーズ主教区と連合、現在ではミーズおよびキルデア主教区となっている)。

アイルランド国教会は設立以来、圧倒的少数派でありながら国教であるという状況であった。歳入をカトリック信徒を含めた全アイルランド人から徴収した十分の一税で得ていたことも批判の対象であった。19世紀に入るとこの状態の改善に向けた動きは強まり、自由党政権化の1871年1月1日、アイルランド国教会は国教の地位を降りた。このさい多くの教会建築などがアイルランド政府の所管に移されたものの、現在でもダブリン大主教区の大聖堂は2つともがダブリン大主教区の管理下にある。なお、宗教改革以降クライストチャーチから締め出された形となっているカトリックのダブリン大司教座は現在では聖マリア臨時司教座聖堂にあるが、現在に至るまでカトリックは、あくまで正式な司教座はクライストチャーチ大聖堂であるという姿勢を変えていない。[6]

ダブリン大主教の一覧[編集]

聖パトリック大聖堂にあるトマス・ジョーンズの記念物

ダブリンおよびグレンダーロッホ連合主教区の大主教およびアイルランド首座主教の一覧

  • 1536-1554 ジョージ・ブラウン(George Browne)。妻帯していたためメアリー1世により地位を追われる。[7]
  • 1555-1567 ヒュー・カーウェン(en:Hugh Curwen)メアリー治世下ではカトリック主義を堅持していたもののエリザベス1世の代になると彼のもとで国教会となった。
  • 1567-1605 アダム・ロフタス英語版(Adam Loftus), ダブリン大学トリニティカレッジの初代学長
  • 1605-1619 トマス・ジョーンズ英語版(Thomas Jones)
  • 1619-1650 ランスロット・バークレイ(Lancelot Bulkeley)
  • 1661-1663 ジェームズ。マーゲットソン(James Margetson)
  • 1663-1679 マイケル・ボイル(Michael Boyle)
  • 1679-1681 ジョン・パーカー(John Parker)
  • 1682-1693 フランシス・マーシュ(Francis Marsh)
  • 1694-1703 ナルシスス・マーシュ英語版(Narcissus Marsh)。ウィリアム・ベデルが翻訳していたアイルランド語訳旧約聖書を改訂して初めて発行する。
  • 1703-1729 ウィリアム・キング英語版(William King)
  • 1730-1742 ジョン・ホードリー英語版(John Hoadly)
  • 1743-1765 チャールズ・コブ(Charles Cobbe )
  • 1765-1765 ウィリアム・カーマイケル(William Carmichael)
  • 1766-1771 アーサー・スマイス(Arthur Smyth)
  • 1772-1778 ジョン・クラドック(John Cradock)
  • 1779-1801 ロバート・ファウラー(Robert Fowler)
  • 1801-1809 チャールズ・エーガー英語版(Charles Agar, Viscount Somerton)
  • 1809-1819 ユースバィ・クリーヴァー(en:Euseby Cleaver)
  • 1820-1822 ジョン・ジョージ・デラ・ポア・ベレズフォード英語版(John George de la Poer Beresford)
  • 1822-1831 ウィリアム・マギー英語版(William Magee)
  • 1831-1863 リチャード・ホエートリー(en:Richard Whately)

1846年にキルデア主教区がダブリン大主教区に合併される。

  • 1864-1884 リチャード・チェネヴィックス・トレンチ英語版(Richard Chenevix Trench)
  • 1884-1897 ウィリアム・プランケット英語版(William Plunket, 4th Baron Plunket)
  • 1897-1915 ジョセフ・ファーガソン・ピーコック(Joseph Ferguson Peacocke)
  • 1915-1919 ジョン・ヘンリー・バーナード英語版(John Henry Bernard)
  • 1919-1920 チャールズ・フレデリック・ダーシー(Charles Fredrick D'Arcy)
  • 1920-1939 ジョン・アレン・フィッツジェラルド・グレッグ(John Allen Fitzgerald Gregg)
  • 1939-1956 アーサー・ウィリアム・バートン(Arthur William Barton)
  • 1956-1969 ジョージ・オットー・シムス(George Otto Simms)
  • 1969-1977 アレン・アレキサンダー・ブキャナン(Alan Alexander Buchanan)

1976年、キルデア主教区はダブリンとの連合状態からはなれミーズ主教区と合併した

  • 1977-1985 ヘンリー・ロバート・マカドゥー英語版(Henry Robert McAdoo)
  • 1985-1996 ドナルド・アーサー・リチャード・ケアード(Donald Arthur Richard Caird)
  • 1996-2002 ウォールトン・ニューカム・フランシス・エンペイ英語版(Walton Newcombe Francis Empey)
  • 2002- ジョン・ロバート・W・ネイル英語版(John Robert W. Neill)

大聖堂[編集]

中世以来、ダブリン大司教座はクライストチャーチ大聖堂にある。しかし、多くの時代においてその地位はもうひとつの大聖堂[8]である聖パトリック大聖堂と分有した状態にあった。過去にはかなりの対立があったものの、ダブリン大司教フェリングスの時代に6つの協定(Pacis Compositio)が結ばれ、法的には1870年代まで有効であったこの協定に従って地位を分有していた。

主教座があるクライストチャーチは、16世紀に身廊が滑って一部が倒壊して以来、19世紀までダブリン大主教の大聖堂は双方とも悲惨な状態で放置され、本格的な修理も行われていなかったが、19世紀末に大規模改修を行い現在の姿にいたる。また、同時期に聖パトリック大聖堂も復元が行われた。

聖職者議員[編集]

1800年に合同法の成立によりアイルランド議会が解散してからアイルランド国教会が国教の地位を退く1871年以前、ダブリン大主教は他の大主教と持ち回りで聖職者議員としての貴族院の席についていた。[9]

脚注[編集]

  1. ^ この後文章中では頻繁に聖別(叙階)の語が出てくるが、これはカトリックにおいて聖別は使徒継承に欠かせない要件であるためである。また聖公会は使徒継承を主張するプロテスタント教会であるため、聖公会においてもこの聖別は重視される。
  2. ^ Dublin: Catholic Truth Society, 1911: Bishop of Canea: Short Histories of Dublin Parishes, Part VIII, p. 162
  3. ^ 連署人の一覧についてはen:Magna Cartaを参照のこと。
  4. ^ London: Newman, Cardinal Henry; The Rise and Progress of Universities, Chapter 17 (The Ancient University of Dublin), 207-212.
  5. ^ もうひとつのツアム大主教管区はアーマー大主教管区に吸収される形で1839年に消滅しており、現在北の7区はアーマー大主教が統べている。
  6. ^ クライストチャーチの教区教会格下げを示唆したり、新しい大聖堂の建設がたびたび話題に上るなど、変更を示唆することはままあった。ただし現在に至るまで聖マリアは臨時司教座聖堂のままであり、また新しい大聖堂の建設の有力候補であった土地はダブリン市に長期間貸し出されることになり公園になっている。
  7. ^ カトリックでは聖職者の結婚は認められていないが聖公会ではマシュー・パーカーをはじめ、当時でも妻帯聖職者が存在していた。
  8. ^ 本来、教区に大聖堂はひとつでありダブリン主教区の状態は歴史的に見ても珍しいケースではある。
  9. ^ イギリスの貴族院においてアイルランド国教会に割り当てられていた議席数は大主教の枠が1つと主教の枠が3つ。

出典[編集]

  • New York, 1909: The Catholic Encyclopedia; Robert Appleton Company