チョ民誼

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本来の表記は「褚民誼」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
褚民誼
Chu Minyi2.jpg
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1946年民国35年)8月23日
中華民国の旗 中華民国(国民政府)江蘇省蘇州市
出身地: 清の旗 浙江省湖州府(現在の呉興区
職業: 政治家・外交官・医者
各種表記
繁体字 褚民誼
簡体字 褚民誼
拼音 Chǔ Mínyì
和名表記: ちょ みんぎ
発音転記: チュー ミンイー
ラテン字 Ch'u Min-I
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褚 民誼(ちょ みんぎ)は中華民国の政治家、外交官、医者。国民党員として国民政府に参加し汪兆銘の腹心の1人であった。後に南京国民政府に参加し要職を歴任した。原名は明遺重行

事跡[編集]

欧州での活動[編集]

士大夫の家柄に生まれる。父の褚吉田は、名医として評判があった。褚民誼は最初旧学を学んだが、後に英語や理数系の学問に親しんだ。1903年光緒29年)、日本へ留学し、日本大学で政治経済学を学ぶ。この時、革命思想に傾倒し、1906年(光緒32年)、同郷の張静江とともにフランスへ向かう途中のシンガポールで、中国同盟会に加入した。フランスでは、呉敬恒(呉稚暉)・李石曽蔡元培らとともに中国印書局を創設している。『新世紀月刊』『世界画報』などの刊行物を発行して、革命思想の宣伝に努めた。

1911年宣統3年)11月、褚民誼は、辛亥革命により革命派が掌握した上海に戻る。この時、黄興の紹介により、汪兆銘・陳璧君夫婦と知り合った。褚は、陳璧君の義妹である陳舜貞と結婚している。1912年民国元年)4月、褚は同盟会本部駐上海機関部の総務長に就任した。しかし、まもなく宋教仁国民党に改組すると、これに失望してベルギーに留学する。ブリュッセル自由大学で学んだ。

その後、1915年(民国4年)に、袁世凱打倒活動のため一時帰国した。まもなく欧州に戻り、フランスで蔡元培・汪兆銘らと「華法教育会」を立ち上げ、中国人留学生の支援組織とした。1920年(民国9年)、呉敬恒・李石曽らとリヨン中法大学を創設した。褚自身は、同年にストラスブール大学で医学を学ぶ。1924年(民国13年)、医学博士号を取得した。

国民党での活動[編集]

同年末に、褚民誼は帰国して、孫文率いる中国国民党で教育工作に従事する。広東大学教授、同代理校長、広東医学院院長を歴任した。1926年(民国15年)1月、国民党第2回全国代表大会で中央候補執行委員に選出され、まもなく執行委員に昇格した。以後、汪兆銘の腹心として党政活動に参加し、改組派と目された。この年の北伐では、総司令部軍医長として各省を回る。1928年(民国17年)、公衆衛生研究のため欧州に出張した。帰国後、国民衛生建設委員会委員長に任ぜられている。

1932年(民国21年)1月、蒋介石と和解した汪が行政院院長に就任すると、褚民誼は行政院秘書長に任命された。さらに1934年(民国23年)には、国民党新疆建設計画委員会主任委員も兼任している。しかし1935年(民国24年)11月に、汪が銃撃・負傷により辞任すると、褚も辞任し、上海の中法国立工学院院長等に異動した。

南京国民政府での活動[編集]

褚民誼(『写真週報』1940年4月3日号)

1937年(民国26年)に上海が日本軍により陥落したが、褚民誼は、中法国立工学院の事務に係り、そのまま上海に留まった。1939年(民国28年)5月、上海を秘密裏に訪問した汪兆銘の誘いに応じ、褚も親日政府樹立に動くことになった。同年8月、汪が上海で国民党第6回全国代表大会を開催する。褚は中央監察委員会常務委員、中央党部秘書長に選出された。

1940年(民国29年)3月、南京国民政府が成立すると、褚民誼は行政院副院長兼外交部部長に任命された。以後、日本との外交折衝を主に担当する。同年12月に、駐日大使となった。1941年(民国30年)10月、外交部長に復帰している。その後も外交事務を引き受け、後に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与されている。南京国民政府では、特に汪兆銘・陳璧君に近い派閥である「公館派」の一員と目された。1944年(民国33年)11月に汪が死去すると、陳公博が代理主席となった。しかし、陳公博と褚民誼は不仲で対立が激しく、周仏海の斡旋が必要なほどであったとされる。

1945年(民国34年)7月、広東省長兼保安司令、広州綏靖主任に任命された。同年8月に日本が敗北すると、褚民誼は、蒋介石に対して従順な姿勢をとった。しかし、結局10月に広州で蒋の命により逮捕されてしまう。1946年(民国35年)4月、漢奸の罪により死刑を宣告され、同年8月23日、蘇州の監獄で処刑された。享年63。

参考文献[編集]

  • 黄美真・張雲「褚民誼」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
 Flag of the Republic of China-Nanjing (Peace, Anti-Communism, National Construction).svg 南京国民政府(汪兆銘政権
先代:
(創設)
外交部長
1940年3月 - 12月
次代:
徐良
先代:
徐良
外交部長
1941年10月 - 1945年4月
次代:
李聖五
先代:
陳春圃
広東省長
1945年4月 - 8月
次代:
(廃止)