チンギス・ハーン

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チンギス・ハーン
Činggis Qan, Činggis Qa'an
モンゴル帝国初代大ハーン
チンギス・ハーン肖像
在位 1206年 - 1227年
戴冠 1206年
出生 1162年頃?
デリウン・ボルダク(現在のヘンティー山脈モンゴル国ヘンティー県ダダル郡?)[1]
死去 1227年8月18日前後
オゴデイ
配偶者 ボルテ、クラン、イェスイ(イェスゲン)、岐国公主、イェスルン 他 下記参照
子女 ジョチチャガタイオゴデイトルイ、コルゲン 他下記参照
父親 イェスゲイ
母親 ホエルン
  

チンギス・ハーン1162年頃? - 1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代大ハーン(在位1206年 - 1227年)。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴル遊牧民諸部族を統一し、中国北部、中央アジアイランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄としてチンギス・ハーンは賞賛された。とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。生年は異説あり[2]

目次

名前

チンギス・ハーンの同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音した。漢字では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・カン」という発音を漢字に写したものである。(注釈 中国語での発音とすれば、これはチンギス ハンである。カンではない) しかし、一般には近代モンゴル語 Чингис Хаан [ʧiŋgɪs χaːŋ]ヘルプファイルに近いチンギス・ハーンという表記が広く用いられており、本項でもこれを採用する。

かつてはアラビア文字表記による جنكز خان (jinkiz khān) から転訛した欧米の諸言語の発音に基づきジンギス・カンと書かれることが多かったが、チンギスの表記が一般化した現在では、むしろまれである。

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。

生涯

チンギス・ハーンの先祖と生い立ち

チンギス・ハーンの生まれたモンゴル部は遊牧ウイグル帝国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀にはハンを頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。

チンギス・ハーンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫をもたないまま3人の息子をもうけた。チンギス・ハーンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル部で最初のハンとなり、カブル・ハンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。チンギス・ハーンの父イェスゲイ・バアトルはカブル・ハンの孫で、第3代ハンとなったクトラ・ハンの甥である。

チンギス・ハーンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin, 鐵木仁もしくは鐵木真)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。『元朝秘史』などによるとこの時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい[3]、このためイェスゲイはその戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる[4]。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年1162年1167年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない[2]

ちなみに、この「テムジン」(temüǰin)とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」(temür-či)、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形であったため、「テムジン=チンギス・ハーンは鍛冶屋であった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・ハーン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13、14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー、1247年のグユクの即位に列席したキリキア小アルメニア王国のハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。

父イェスゲイは、カブル・ハンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号をもつ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・ハン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで一代で急速に勢力を拡大した。また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物であったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。

テムジンは父の死の知らせを受けると直ちに家族のもとに戻された。幼い子供たちを抱えてイェスゲイの家産の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成人してくると、モンゴルの第2代アンバガイ・ハンの後裔で、キヤト氏のライバルであったタイチウト氏の人々はイェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど、辛酸をなめた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・ハンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちであった。

『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウン、チンバイ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。後にジェルメはジェベクビライスブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる四天王の1人となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にポロクルムカリと共に「四駿」と呼ばれる四天王の1人となる。「四駿」は戦ではチンギス・ハーンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。

諸部族の統一

メルキトによる襲撃の後、ジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。

あるとき、ジャムカの一族がテムジンの配下の家畜をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとバルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。

さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトグリルが追われ、その兄弟ジャガ・ガンボがテムジンのもとに亡命し、続いてジャガ・ガンボを頼ってトグリルがテムジンのもとに合流してケレイトの王位に復した。両者は、トグリルがテムジンの父イェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんで義父子の関係を結んで同盟し、協力して中国のに背いた高原東部の有力部族タタルを討った。この功績によりテムジンには金から「百人長」の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトグリルには「王」の称号が与えられ、オン・ハンと称するにようなったが、このことから当時のオン・ハンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・ハンに対しては従属に近いかたちで同盟していたことが分かる。

テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年には高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャジラト氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルをフルンブイルに打ち破った。

1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・テムジン同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟を破って東方の諸部族を服属させた。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・ハンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。

しかし同年、オン・ハンの長男イルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・ハンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・ハンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。

帝国の建設

1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。

1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。チンギス・ハーンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。「チンギス」という語彙の由来については確実なことはわかっていないが、もともとモンゴル語ではなくテュルク語からきた外来語であったとみられ、「海」を意味するテンギズを語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。

チンギス・ハーンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。

征服事業

チンギス・ハーン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。
チンギス・ハーン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。

着々と帝国の建設を進めたチンギス・ハーンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。

この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。

こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。翌1214年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃した。1215年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲、陥落させた。のちに後継者オゴデイの時代に中国の行政に活躍する耶律楚材は、このときチンギス・ハーンに見出されてその側近となっている。燕京を落としたチンギスは、将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らは高原に引き上げた。

このころ、かってナイマン部族連合の首長を受継いだクチュルクは西走して西遼に保護されていたが、クチュルクはそれにつけこんで西遼最後の君主チルクから王位を簒奪していた。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた[要出典]。そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせた。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリム(イスラム教徒)を抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破った。クチュルクはカシュガルの西で敗れ、敗走した彼はやがてモンゴルに捕えられ処刑されて、西遼の旧領はモンゴルに併合された。この遠征の成功により、1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝ホラズム・シャー朝に接することとなった。

1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺した(ただし、この使節自体が征服事業のための偵察・挑発部隊であった可能性を指摘する説もある)。その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンをモンゴル本土に留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年スィル川(シルダリア川)流域に到達した[5]。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンドブハラウルゲンチをことごとく征服した。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊した。

ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れ、はるか西方に去ったため、チンギス・ハーンはジェベとスベエデイを追討に派遣した。彼らの軍がイランを進むうちにアラーウッディーンはカスピ海上の島で窮死するが、ジェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの軍はキプチャクルーシ諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅威はヨーロッパにまで伝えられた。

一方、チンギス・ハーン率いる本隊は、アラーウッディーンの子でアフガニスタンホラーサーンで抵抗を続けていたジャラールッディーンを追い、南下を開始した。モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラートバルフバーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。アフガニスタン、ホラーサーン方面での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。特に、ジャラールッディーンが所領のガズニーから反撃に出た直後、大断事官シギ・クトク率いる3万の軍がジャラールッディーン軍によって撃破されたことに始まり(パルワーンの戦い)、バーミヤーン包囲戦では司令官であったチャガタイの嫡子モエトゥゲンが流れ矢を受けて戦死し、チンギス本軍がアフガニスタン遠征中ホラーサーンに駐留していたトルイの軍では、離反した都市を攻撃中に随伴していた妹トムルンの夫で母方の従兄弟でもあるコンギラト部族のチグウ・キュレゲンが戦死するなど、要所で手痛い反撃に見舞われていた。

アフガニスタン・ホラーサーン方面では、それ以外のモンゴル帝国の征服戦争と異なり、徹底した破壊と虐殺が行なわれたが、その理由は、ホラズム・シャー朝が予定外に急速に崩壊してしまったために、その追撃戦が十分な情報収集や工作活動がない無計画なアフガニスタン・ホラーサーン侵攻につながり、このため戦況が泥沼化したことによるのではないかとする指摘もされている[6]

チンギス・ハーンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破するが、ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去った。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦継続を諦め、追撃を打ち切って帰路についた。チンギスは中央アジアの北方でジェベ・スベエデイの別働隊と合流し、1225年になってようやく帰国した。

最後の遠征

西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。

これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・ハーンは陣中で死去した。『元史』などによると、モンゴル高原の起輦谷へ葬られた。これ以後大元ウルス末期まで歴代のモンゴル皇帝たちはこの起輦谷へ葬られた。

彼は、死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。チンギス・ハーンは一代で膨張を続ける広大な帝国をつくり、その死後には世界最大の領土をもつ帝国に成長する基礎が残された。

陵墓と祭祀

チンギス・ハーンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたとみられているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの葬送の隊列は行く手に見かけた人々を全て殺して進んだという。

チンギス・ハーンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷であった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕(ゲル)としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・ハーン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル)と呼ばれた。

一方、チンギス・ハーンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国内モンゴル自治区には「成吉思汗陵」と称する施設があるが、これは近年に八白室を固定施設に変更して建設されたもので、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・ハーンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・ハーンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。

2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都ウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・ハーンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・ハーンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・ハーンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。

チンギス・ハーンの子孫

モンゴル帝国
モンゴル帝国

モンゴル帝国のもとではチンギス・ハーンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・ハーンの男系子孫しかハーンに即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。

13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルスチャガタイ・ハン国イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。

チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しかあらわれなかった。モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・ハーンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。

こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・ハーン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・ハーンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。

2004年にオクスフォード大学遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・ハーンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。彼らによれば、現在までに彼のY染色体を引き継いでいる人物(すなわち男系の子孫)は1600万人にのぼるとされる。この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・ハーンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという([1][2])。

否定と再評価

このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・ハーンだが、モンゴル史上唯一その存在を否定されたのが1921年社会主義革命後、1924年から1992年に存在したモンゴル人民共和国の時期であった。

モンゴル人民共和国はロシア革命後に発生したロシア内戦の結果、スフバートルチョイバルサン等のモンゴル人社会主義者が作ったモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト赤軍の支援を受けて成立させた社会主義国家であり、建国後も常にソビエト連邦の強力な支援を受ける衛星国であった。

モンゴル人民共和国にとってのチンギス・ハーンやその子孫達は、ロシアやウクライナを占領して大規模な殺戮やその後の圧政を行った批判すべき専制君主であり、凶暴な征服者であったため、自らがソビエトに反抗する意志がない事を証明するためにも、モンゴル帝国は全面的に否定すべき存在であった。また、革命前のモンゴルで実権を持ち、多くがチンギス・ハーンの子孫を称していた貴族層は社会主義体制建設の障害であり、排除の対象であった。

この外交・内政両面の理由から、モンゴル人民共和国ではかつてのモンゴル帝国の歴史が否定され、チンギス・ハーンの存在は抹殺された。モンゴル国内での遺跡調査や文献研究がほとんど行われなかったのは、このような事情による。

しかし、モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生のモンゴル国ではチンギス・ハーンが再び称賛され、崇拝を集めることになった。

宗室

集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する四人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。

父母兄弟

后妃

オゴデイの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第一位、クランを第二位、イェスゲンを第三位、公主ハトゥン( كونجو خاتون Kūnjū Khātūn)こと岐国公主を第四位、イェスルン(イェスイ)を第五位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。

○大オルド

  • ボルテ・フジン(孛兒台旭真太皇后) コンギラト部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)
    • 忽魯渾皇后
    • 闊里桀 皇后
    • 脱忽思皇后
    • 帖木倫皇后
    • 亦憐真八剌皇后

○第二オルド

  • クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘
    • 哈兒八真皇后
    • 亦乞剌真皇后
    • 脱忽茶兒皇后
    • 也真妃子
    • 也里忽禿妃子
    • 察真妃子
    • 哈剌真妃子

○第三オルド

  • イェスルン(イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの妹
    • 忽魯哈剌皇后
    • 阿失倫皇后
    • 禿兒哈剌皇后
    • 察兒皇后
    • 阿昔迷失皇后
    • 完者忽都皇后
    • 渾魯忽歹妃子
    • 忽魯灰妃子
    • 剌伯妃子

○第四オルド

  • イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの姉
    • 忽答罕皇后
    • 哈答皇后
    • 斡者忽思皇后
    • 燕里皇后
    • 禿干妃子
    • 完者妃子
    • 金蓮妃子
    • 完者台妃子
    • 奴倫妃子
    • 卯真妃子
    • 鎖郎哈妃子

※『』その他の側室

    • 八不別及妃子
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には五人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma )について記録する。
  • ベクトゥトミシュ・フジン ケレイトのジャガ・ガンボの娘でトルイの妃ソルコクタニ・ベキらの姉妹。
  • グルベス・ハトゥン ナイマン部族連合の首長タヤン・ハンの第一ハトゥンだった人物。
  • チャク・ハトゥン 西夏皇帝の娘。

 その他の側室

    • 氏名不明 ナイマン出身。ジョルチダイの母

子女

集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの諸子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料にもとづく)。

男子
  • ジョチ 母 ボルテ
  • チャガタイ 母 ボルテ
  • オゴデイ 母 ボルテ
  • トルイ 母 ボルテ
  • コルゲン(次六 闊列堅太子) 母 クラン
  • チャウル 母 イェスゲン
  • ジョルチダイ
  • オルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
  • 氏名不明 母 タタル部族出身の側室
女子
  • コアジン・ベキ(コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ)
  • チェチェゲン(『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる)
  • アラガイ・ベキ(オングト駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ)
  • トムルン(同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ)
  • アルタルン(ホエルンの弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ)
  • イル・アルタイ(アル・アルトゥン) 母不詳。天山ウイグル王国に嫁ぐ。

脚注

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  1. ^ ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16.
  2. ^ a b 、一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。
    1155年説については、主にイルハン朝ガザンオルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」(1155年1月6日-2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカとテムジン・ウゲ捕縛の年であったことが説明されている。また没年も「ブタの年」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である。)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日-2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。
    一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、孟珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。
    このようにチンギス・カンの生年の年代について、資料によって様々であり多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀 編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296‐1370)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者柯劭忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。
  3. ^ デリウン岳 Deli'ün Boltaq (迭里温孛合)での出産についても主な資料は共通して述べる。『集史』では دلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著,小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号(1967), p.1-16. 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社(1970)p.79-80.
  4. ^ この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショカ王物語』(Ašokāvadāna)の中で、カウシャンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に着け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。
  5. ^ モンゴル帝国側の主な資料にはこの時のチンギスの親征軍の全体の規模について、はっきりした数字は記録されていないようだが、20世紀を代表するロシアの東洋学者V.V. バルトリドは、その規模を15万から20万人と推計している。
  6. ^ 近年、モンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによって指摘されている。杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論社、1997年。94-95頁などを参照。
  7. ^ 『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベルテルというベルグテイの同母兄と思しい弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベクテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責した言う。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベクテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。

参考文献

  • 岩村忍『元朝秘史 チンギス=ハン実録』(中公新書)、中央公論社、1963年。
  • 岡田英弘『チンギス・ハーン 将に将たるの戦略』、集英社、1986年。
  • 岡田英弘『チンギス・ハーン』(朝日文庫)、朝日新聞社、1994年。
  • 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書)、ちくま書房、2001年。
  • 小澤重男『元朝秘史』(岩波新書)、岩波書店、1994年。
  • 小澤重男(訳)『元朝秘史』(岩波文庫)2巻、岩波書店、1997年。
  • 小沢重男『元朝秘史全釈』3巻、風間書房、1984-1986年。
  • 小沢重男『元朝秘史全釈続攷』3巻、風間書房、1987-1989年。
  • 勝藤猛『草原の覇者・成吉思汗』(清水新書)、清水書院、1984年。
  • 小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書)、岩波書店、1960年。
  • 小林高四郎(訳注)『蒙古の秘史』生活社、1940年。
  • 白石典之 『チンギス・カン 蒼き狼の実像』(中公新書)、中央公論新社 2006年
  • ジャン=ポール・ルー/杉山正明監修 田辺希久子訳 「チンギス・カンとモンゴル帝国」 知の再発見双書 創元社  2003年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年。
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書)2巻、講談社、1996年。
  • 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論社、1997年。
  • C.M.ドーソン(佐口透訳注)『モンゴル帝国史』(東洋文庫)6巻、平凡社、1968-1979年。
  • 那珂通世(訳注)『成吉思汗實録』大日本図書、1907年。
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。
  • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年。
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)3巻、平凡社、1970-1976年。

チンギス・ハーンを描いた作品

関連項目

ウィキメディア・コモンズ
先代:
モンゴル帝国大ハーン
初代:1206年 - 1227年
次代:
オゴデイ



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